とある魔術の禁書目録《インデツクス》17 鎌池和馬 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》…ルビ |…ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)いつまで母性の|塊《かたまり》に甘えているのよーっ!! [#]…入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから〇字下げ] ------------------------------------------------------- [#改ページ] 底本データ 一頁17行 一行42文字 段組1段 [#改ページ] とある魔術の禁書目録《インデツクス》17  イギリス清教『|必要悪の教会《ネセサリウス》』最大主教《アークビシヨツプ》・ローラ=スチュアートによって『禁書目録召集令状』が布告された。フランスとイギリスを結ぶユーロトンネルで起きた爆破事件を、英国『王室』と共に調査せよ、という任務だった。  その命を受けたインデックスと彼女の保護者・上条当麻《かみじようとうま》は、イギリス行きの飛行機に搭乗する。和気|藹々《あいあい》と空の旅を楽しもうとする二人だったが、機内では謎の人物がハイジャック計画を進めており……! 銀髪シスターさんの空腹を全力でなだめつつ、事態解決を図る上条の運命は如何《いか》に!?  今度の“不幸”は、英国にて開幕! [#改ページ]  鎌池《かまち 》|和馬《かずま 》 二〇〇四年四月にデビューしたので、ザ・五周年! というネタでいこうかなと考えていたのですが、ギリギリ寸止め三月刊という状態に。……こんな感じですが、これからもよろしくお願いします。  イラスト:灰村《はいむら》キヨタカ この巻が発売される時期は、TVアニメも終盤に差し掛かるところ? ……吹寄や五和や木原先生の出番はあるのでしょうか(ありません) [#改ページ] [#ここから2字下げ] 【カーテナ=セカンド】 英国王室に代々伝わる、王の戴冠式で使う儀礼剣。その剣 の所有者は、擬似的であるが『神の如き者(ミカエル)』 と同質の力を得ることが出来る。ただし英国女王エリザー ドが持つこの『カーテナ』は、二本目である。『カーテナ =セコンド』は、『オリジナル』の代替品で、『王室派』 の手によって人為的に作られた。歴史上、最初に登場した 『カーテナ=オリジナル』は現在所在不明となっている。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]    c o n t e n t s    第一章 何気ないやり取りの違和 Irregular_Spark.    第二章 雲の上に浮かぶ鋼の戦場 Sky_Bus_365    第三章 イギリス迷路の魔術結社 N∴L∴    第四章 その剣は戦と災厄を招く Sword_of_Mercy.    終 章 それぞれの思惑と胸の内 War_in_Britain. [#改ページ] [#ここから4字下げ] 序 章 昔々、ある所に一つの町があったという。 町は城壁で囲まれ、 その中には王と民が暮らしていたそうだ。 ある時、町の近くに悪竜がやってきた。 王と民は協力して悪竜を倒そうとしたが、 失敗してしまった。 怒った悪竜は強力なブレスを放ち、 町を苦しめたという。 王と民は悪竜を鎮めるため、 毎日二頭の羊を捧げる事にしたそうだ。 しかし羊の数は限られている。 羊が足りなくなってくると、 毎日一頭の羊と一人の子供を捧げる事になったという。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#ここから4字下げ] 町からは子供が消えていった。 とうとう王の娘—— 姫君が羊と共に捧げられる事になった。 王は姫君だけは許してくれと懇願したが、 民は許さなかったそうだ。 自分たちの子供も、 すでに捧げられていたからだった。 そして、姫君は羊と共に 悪竜の住処へと連れて行かれた。 姫君は己の運命を悲観した。 その時、姫君の元へ馬に乗った放浪の騎士がやってきた。 一本の槍と聖なる剣を携えた、 騎士の中の騎士。 彼の名は、聖ジョージという。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   とある魔術の禁書目録《インデツクス》17 [#改ページ]    第一章 何気ないやり取りの違和 Irregular_Spark.      1  一〇月一七日の朝。  ついこの間までは、あれだけエルニーニョ現象などで猛暑が長引いていたくせに、ロンドンの日本人街は足元にわだかまるような冷気に包まれていた。  通勤、通学ラッシュの真っ最中で、どこを見回しても人が溢《あふ》れていた。何故《なぜ》かその中に観光客は一切含まれていないのだが、いちいち言及したり首を傾《かし》げる者はいない。皆、その理由を知っているからだ。  天草式《あまくさしき》|十字《じゆうじ》|凄教《せいきよう》の少女・五和《いつわ 》も、そんな観光客の消えた日本人街にいた。  中華街、インド人街などと同じく、日本人街を構成する柱の一本は『食』だ。食べ慣れた味を外国でも楽しめるよう、文字通り『話の通じる』人々は自然と集まり、様々な料理を作る。 事実、日本人街の大きな通りには、寿司屋《すしや》や定食屋、各種|鍋《なべ》の店などが色々並んでいた。  五和が居を構えているアパートメントも、一階部分は弁当屋の店舗《てんぽ 》になっている。ロンドン在住の日本人はもちろん、『手軽に買って本格的に楽しめる』事から、通勤途中に立ち寄ってくる和風|贔屓《びいき 》のイギリス人の会社員も多い。日本人の美点は『時間に正確」である事から、F1レースのピットイン級の速度で買い物ができる所も、忙しい社会人には好評らしかった。  かくいう五和もたまに弁当屋の手伝いに駆り出されたりする訳だが、今現在はそういった仕事はしていない。服装も弁当屋の仕事の時とは違って私服である。  ロンドンにおける五和の格好はシックでオトナな感じのものが多い。現在も、薄《うす》いベージュのトレーナーの上にジャケットのようにも見える丈の短いコートを着て、下はこげ茶色の細いパンツという服装である。以外に衣類さえ気をつけておけば、『|必要悪の教会《ネセサリウス》』の仕事で、未成年の五和が夜中の酒場に潜り込んでも、警官に職務質問されたりしないで済んだりするのだ。  彼女は店舗の奥にある店員用の休憩所で、ノートパソコンに表示された日本語のホームページを見てわなわなしている。 『遠距離《えんきより 》恋愛の決め手は彼氏彼女の記憶《き おく》に残るか否《いな》か! 影の薄いヤツはぷっつり糸が切れてしまう!? 成功する者と失敗する者の分かれ目はここだ!!』  震《ふる》える指で画面をスクロールさせると、その下には『成功例その一、略奪スペシャル!? より強いオンナの大アピールが彼の気持ちを上書きする!!』とか何とか書かれている。  その瞬間《しゆんかん》、五和の脳裏に浮かんだのはつい数日前の事だ。  後方のアックアに狙《ねら》われた上条当麻《かみじようとうま》を護衛するため、彼の側《そば》にぴったり張りつく事になった五和《いつわ 》。日本とイギリスという、もう地球を半周するほど開いた距離《きより 》をどうにか縮めるべくあれこれ頑張ったのだが……なんか途中で新生|天草式《あまくさしき》|十字《じゆうじ》|凄教《せいきよう》女教皇の神裂《かんざき》|火織《か おり》が現れ、インフレの嵐《あらし》を起こしてグッチャグチャにした挙げ句、最後の最後でとんでもないい一撃《いちげき》必殺の秘奥義《ひ おうぎ 》を繰《く》り出してきたのだ。  つまり、 (だっ、堕天使《だ てんし》エロメイド……ッ!! まさかあんな凄《すさ》まじい隠し玉を用意しているとは、流石《さすが》は女教皇様《プリエステス》! あんなものを開陳されたら、対アックア戦の思い出は全部一つに集約されてしまうに決まっているじゃないですか……ッ!?)  両手で頭を抱えて苦悩する五和。  自分のシックでオトナな……言い換えてしまえば『無難極まりない服装』に目をやって、深い深いため息をつく。  これが凡人と天才の差なのか。所詮《しよせん》ただの魔術師《まじゆつし》では聖人には届かないのか。同じ天草式の建宮《たてみや》などからは『隠れ巨乳』だなんだとからかわれているが、『普通に巨乳』の神裂には敵《かな》わないのか。あまりにも鮮烈に脳裏へ焼き付いた、例のオッパイでフトモモでエロくてアレなポニーテールのメイドを思い浮かべ、五和は一《いつ》|瞬《しゆん》そのまま気絶しそうになる。勝てる訳がない。  ……一応念のために補足しておくと、別に上条と五和の問に特別な関係が築かれている訳ではないのだが、何かもうその辺はどうでも良いらしい。恋する乙女《おとめ》は色々な部分が盲目なのだ。(ふ、普通にデカい乳を完全にものにした上で、堕天使エロメイドでさらに強調した末のインパクト作戦。まさに心技体を揃《そろ》えたおっぱい戦略だったという事ですか……。恐るべし女教皇様《プリエステス》。一発で、たった一発で全部やられました。もはや逆転する機会はないのでしょうか……)  はぁ、と気の抜けた息を吐《は》きながら胡散臭《う さんくさ》いニュースサイトにあれこれ目を通す五和。  そこで彼女の目が留まる。  一般的な記事から切り離《はな》された、『今週のちっぽけニュース10』のコーナーにそれはあった。 『ウワサの新商品の名は大精霊《だいせいれい》チラメイド!! 相変わらず作っている人間の脳がZ区分になっているとしか思えない破壊力《はかいりよく》! なんか微妙に需要があるらしく今秋発売決定!!』  五和の中で、わずかに時間が止まる。  もしや、自分はあの聖人に追い着いてしまったのか。  いや、ここから先は自分の方こそがあの聖人の前を行く時がやってきたのか。  まさに千載一遇《せんざいいちぐう》のチャンスを前に、五和はしばし考え込んでいたが……、 「う、うう……。私にはこんなの着れないッッッ!!」  ぐしゃぐしゃぐしゃーっ!! と両手で髪を掻《か》き毟《むし》り、至極《し ごく》『まっとうな』答えを選択する五《いつ》和《わ》。そんな自分が嫌《いや》になり、テーブルに突っ伏してしまう。おそらく、ここで踏《ふ》み止《とど》まるか踏み込んでしまうかが、凡人と非凡の差なのだろうと彼女はちょっと真剣にめそめそした。  ……ちなみに休憩室の天《てん》|井《じよう》|裏《うら》の一角から『ノーッ!! 五和、もう一押しなのよ、だーっ!!ノーッ!!』『いっそ俺達《おれたち》が先に購入して五和の部屋の前に段ボールごと置いておきましょうよ!!』『教皇代理……いや建宮《たてみや》さん! アンタはマッサージ大作戦で五和の体形や乳サイズなどを大まかに把握していたはずだ!!』『うむ。堕天使《だ てんし》エロメイドと大精霊《だいせいれい》チラメイドが戦うさまを拝むためには、俺達も相応の血と汗を流すべきだな!!』『良いから仕事しろっつってんでしょアンタら……』などとささやかれている事に、五和は気づかない。      2  そんなウワサの堕天使エロメイド、神裂《かんざき》|火織《か おり》は遠距離《えんきより 》から放たれる得体《え たい》の知れない情念を感じ取ったのか、わずかにぶるっと身震《み ぶる》いした。  現在、彼女が歩いているのはバッキンガム宮殿近郊の街路だ。英国王室の本拠地であるその辺りは神裂——というより、英国三派閥の一つ『清教派』にとって、あまり馴染《なじ》みのないエリアだった。他《ほか》の二派閥である『王室派』『騎士派《きしは》』の影響力《えいきようりよく》が強すぎるのだ。  ……何で神裂がそのような所にいるかと問われれば、バッキンガム宮殿の近くにある内務省に書類の開示を求めてきたからなのだが、その途中で顔見知りと遭遇《そうぐう》した。 『騎士派』のトップ、騎士団長《ナイトリーダー》である。  多少若作りしている感はあるが、歳《とし》は三〇代半ばほど——神裂と倍程度の開きがある。整った金色の髪や目鼻立ちといった体の作りから、着ているスーツの質、さらには背筋を伸ばした歩き方の一つ一つに至るまで、王城や宮殿でのフォーマットが染《し》みついていた。  実は神裂、この騎士団長《ナイトリーダー》がちょっと苦手である。  理由は、貴族社会特有の空気が鼻につくとか、そういうものではなく、 「一〇月の催《もよお》し物となると、ウィンザー城での夜会やリヴァプールの船上パーティなどがあるが、やはり最適なのはジェイムズ上院議員の誕生会を兼ねたクイーンズハウスの舞踏会《ぶ とうかい》だろう。 多少、招待客の層は『雑』だが、主賓《しゆひん》の顔を立てる程度の思慮《し りよ》があれば、ここで無暗《む やみ》に婦女子に絡《から》む男もおるまい。仮にパーティが原因で『何か』が起これば、ジェイムズ上院議員の顔に泥を塗る事になるのだからな」 「いや、その、ええと……」  書類の入ったデカい封筒を手にしたまま、うろたえる神裂。  騎士団長《ナイトリーダー》は、そんな彼女の顔を見てわずかに眉《まゆ》をひそめ、 「ふむ。これ以上のグレードとなると、ハロウィンに合わせてバッキンガム宮殿で行われる仮面|舞踏会《ぶ とうかい》ぐらいになってしまうが、初めて赴《おもむ》くパーティで顔と名を隠すというのもな。……それとも、客層が気に入らないのか。好色の目を向けられるのは耐えられないと。それなら多少遠くなるが、エジンバラに完全招待制の……」 「ですから、そういう事ではなくてですね」  神裂《かんざき》は言いづらそうに、騎士団長《ナイトリーダー》から目を逸《そ》らしつつ、 「そ、そもそも、その手の夜会や舞踏会は……ええと、出会い系のような意味合いを含んでいたような……? 曲がりなりにもイギリス清教の傘下部隊を率いる身としては、そういうのは避《さ》けるべきでして」 「しかしだな」  騎士団長《ナイトリーダー》は遮《さえぎ》るように言った。 「そもそも、英国での立ち振る舞いを教えてほしいと頼《たの》んできたのは貴女《あなた》のはずだが?」 「そ、それは……」  通勤・通学ラッシュで多くの人々が行き交う中、神裂がモゴモゴと言い淀《よど》む。  そんな様子を見ながら、騎士団長《ナイトリーダー》は怪訝《け げん》そうな表情になる。 「予定が会わずに先延ばしにしてしまったのは謝罪するが、一度任された事に関しては最後まで面倒を見たいのは本当だ。是非《ぜひ》、社交界での作法については私に頼《たよ》ってほしい」 「い、いえ、それはまだイギリスに来た直後の話であって、天草式《あまくさしき》の術式の関係上、イギリス国内の礼儀《れいぎ 》作法や環境風土について学んでおきたかっただけなのです。別段、貴族の世界に生きたいという訳ではなかったんです」  同じ日本人の土御門《つちみ かど》|元春《もとはる》の協力もあって、今ではもう『イギリス』という大雑把《おおざつぱ 》な枠はおろか、各地方の細かい方言まで学んでしまった神裂からすれば、今さら騎士団長《ナイトリーダー》から教わる事など何もなかったりする。 「しかしだな、現に貴女は夜会や舞踏会などには、ほとんど顔を出さない。やはり社交界に苦手意識があるのではないのか」 「……イギリス清教の者として特に必要性を感じないので、わざわざそういう所へ近づこうとは思わないだけなのですが」 「正しい道を生きる事と、貴婦人としての美しさを磨《みが》く事は別だろう。また、美しい事とたぶらかす事は同義ではない。それこそ、貴女自身が正しいのなら、どこへ足を運ぼうが貴女は正しいままのはずだ。聖女アグネスが連れ込まれた娼館《しようかん》が、瞬《またた》く間に光り輝《かがや》く布教の場に変わったという伝説は、そういう心の強さを示しているのではないのか」 「……たとえ話に娼館を持ち出したという事は、夜会というものが女性にとってそれなりに危険な場である事を自覚した上で誘《さそ》ってはいるのですね」  私の留守中には一輪の花を持って舞踏会に誘いに来た事もあったそうですし……、と神裂はため息をつく。  その反応を見て、何故《なぜ》か騎士団長《ナイトリーダー》は首を傾《かし》げた。 「とは言うが、貴女《あなた》も貴女で貴婦人としての生き方を模索《も さく》し始めているのではないのか?」 「どこから出たウワサですかそれは?」 「……ふむ、おかしいな。堕天便《だ てんし》エロメイドの情報はデマだったのか……?」  ポツリと呟《つぶや》かれた一言に、神裂《かんざき》がゴバハァ!! と凄《すさ》まじい息を噴き出す  騎士団長《ナイトリーダー》は眉《まゆ》をひそめ、 「その挙措《きよそ 》は貴婦人らしいとは言えないな」 「なっ、なななんなんなななななななん何を……ッ!?」 「まぁ、確かに英国紳士の一人として、エロもメイドも興味がないと言えば嘘《うそ》になるのだが……堕天使というのはいただけない。貴婦人としての美しさというのは、別に外面の妖艶《ようえん》さだけで決まるというものでもあるまい。むしろ重点を置くべきは内面的、人格的な美しさというものであってだな——」 「待ってください。ちょっと私の話を聞いてください!! アレは短めでイレギュラーな現象であって、別に己の未来予想図としてあんなふざけた衣装をまとった訳ではありません!!」 「思えば近衛次女《このえ じ じよ》のシルビア嬢《じよう》も、貴女と同じ聖人でありながら下女として武者修行中だったな。……この国の女性は女らしい振る舞いを学ぶというと、とりあえずメイドとして下積みするものなのか……?」 「ええと、シルビアの場合は王権神授制のトップに仕える巫女《みこ》としての役割も担《にな》っていますから、それなりの地位は築いているような……。 ハッ!? 今重要なのはそっちの議論ではなく、私の進路希望はやけにエロいメイドではないという事です!!」  慌てふためく神裂《かんざき》だが、騎士団長《ナイトリーダー》的にはあんまり気になるポイントでもないのか、深くは追及してこない。 「しかしまぁ、どうせなら一挙両得だ。社交界で貴婦人としての振る舞いを学ぶと同時に、武人としての名と顔を紹介してもよかろう。その意味でも、それらを隠してしまう仮面|舞踏会《ぶ とうかい》は避けるべきだと助言しておこう」 「……結局それが本音ですか」  神裂はようやく平静を取り戻し、呆《あき》れたように言う。 「何度も申し上げていますが、私は『清教派』から『騎士派《きしは》』へ移籍《い せき》するつもりはありません。この剣技は術式群の一環であって、私の芯《しん》は信仰にあります。本質としての剣の道を歩んでいる訳ではないので、私が騎士や武士としての地位を得るのは失礼でしょう。そもそも騎士の世界は女人禁制《によにんきんせい》ではないんですか」 「国家元首が女王であっても許されるのに、その下で働く騎士に女性がいてはいけないというのも矛盾した話だろう。私は、実益のない伝統と実益のある戦力を比べた場合、後者を選ぶぐらいの度量はあるつもりだ」 「だとしても、こちらの返答は同じです。今の神裂|火織《か おり》は天草式《あまくさしき》と共にいる事で本領を発揮するものです。私は私を慕《した》ってくれる仲間を捨ててまで地位を築くつもりはありませんので」  なるほど、と騎士団長《ナイトリーダー》は呟《つぶや》いた。  ならば天草式は騎士の下で働く傭兵《ようへい》扱いにするか、とかいう意味深な言葉がブツブツ漏《も》れる。 「夜の催しに修道女を誘《さそ》うのも結構ですが」  神裂は強引に話題を変えるように、手にした大きな封筒を軽く振った。  騎士団長《ナイトリーダー》に提示したのは、内務省から得た『資料』だ。 「浮かれるのは、この問題を片づけてからにするべきです」 「ふむ」  封筒の中身は透視できないはずだが、騎士団長《ナイトリーダー》は何も書かれていない表面に軽く目をやっただけで、何を言いたいかを察したらしい。  そんな彼の顔を見ながら、神裂は尋ねた。 「ユーロトンネルの方はいかがでしたか?」  それは、島国のイギリスと大陸にあるフランスを繋《つな》ぐ唯一の陸路となる、鉄道用の巨大な海底トンネルの名前だ。寄り添うように地中を走る三本のトンネルは、人員、物資の運搬《うんぱん》における生命線とも言えるインフラなのだが……。 「復旧のめどは立っていない」  騎士団長《ナイトリーダー》は端的《たんてき》に答えた。 「水没エリアでの救助活動はあらかた終了した。ここから先は原因の究明だな。明らかに人為的な事件であるのは確実だとして、魔術的《まじゆつてき》なのか、科学的なのか。どこの組織の人間が何をしたのか。その結果によっては、『騎士派《きしは》』も宣戦を布告する時が来るかもしれん」  つまりはそのレベルの危機が、イギリスでは展開されている訳だ。  ……そのために今日の勧誘《かんゆう》は強引だったのか、と神裂《かんざき》は勘繰《かんぐ 》ったが、今はそんな脇道《わきみち》に逸《そ》れている場合ではない。 「フランス側との緊《きん》|張《ちよう》が高まっているという話も開きましたが」 「色々込み入った事情もあるが……向こうも向こうで言いがかりをつけてきている。まぁ、これについてはお互い様だ。英国《ウチ》の議会でも、軍部の中でもプライドの高い連中が主張する対フランス先制|攻撃策《こうげきさく》をなだめるのに苦労しているようだ」  議会政治の掌握《しようあく》は『王室派』の仕事であり、その『王室派』を守るのが『騎士派』の務めだ。仕事の過程で様々な話を聞いているのだろう。 「こちらも、この混乱に乗じて国内組織のいくつかが不穏《ふ おん》な動きを見せています。今まで踏《ふ》み止《とど》まっていた連中が、『勝てる』と思い込み始めているようですね」 「……封筒の中身の話だな。その反政府組織の中に、本物の魔術結社が混ざっていると?」 「確定はしていませんが、仮にそうだった場合、通常の警察では制圧行動に出た所でほぼ一〇〇%返り討《う》ちに遭《あ》います。一応、一通りは精査しませんと。そのための『清教派』ですから」 「外敵に内敵。お互いにやるべき事は山積みか」 「ええ」  騎士団長《ナイトリーダー》の言葉に、神裂は領《うなず》いた。 「遊んでいる暇はなさそうです。無論、夜会に着ていくドレスの色で悩んでいる余裕も」      3  と、そんな不穏な会話など露知《つゆし 》らず、ごく普通の不幸な高校生、ツンツン頭の上条当麻《かみじようとうま》は本日最後の授業を終え、ホームルームが始まるまでの短い休み時間を満喫していた。  ここは日本の学園都市。  東京都の三分の一ほどの面積を誇る、二三〇万人弱の人口を抱える超能力開発機関だ。あっちを見てもこっちを見ても学校学校また学校な学生|達《たち》の街で、今は一一月に控えている超巨大文化祭『一端覧祭《いちはならんさい》』の準備そろそろ始めるぞーという気配がさざ波のように近づいてきている。色々あって中間テストが中止になり、心に余裕がある所も拍車をかけているのだろう。  教室のあちこちで自由に小規模のグループを作っている生徒達も、やや浮かれモードな感じである。現に今も、上《かみ》|条《じよう》の近くにいる青髪ピアスや土御門《つちみ かど》|元春《もとはる》などは、 「っつか、高校の一端覧祭《いちはならんさい》って中学の時とは何か違うんかいな。予算とかいっぱいもらえると色々やれる事の幅も広がったりするんやけど」 「にゃー。ぶっちゃけ学校見学会やオープンキャンパスも兼ねたりしてるから、そういうのに積極的なトコじゃないと予算はいっぱい出ないにゃー。ウチの高校はそういう欲が全然ない平凡学校だから思いっきり地味そうだぜい」  と、早くも金の話になってグダグダになっている二人に対し、黒髪でおでこで巨乳で実行委員に目がない女子生徒(別に実行委員の男の子を見ると飛びかかるという意味ではない)、吹寄《ふきよせ》|制理《せいり 》は腕組みして鼻からフンと息を吐《は》きつつ、 「世界最大の文化祭である一端覧祭が近いという事は、ようやくこの私の季節がやってきたという訳ね。貴様|達《たち》も時間を無駄《むだ》にしているようなら、少しは有意義な使い方をしてみたら? 自分の新しい一面を見つけられるかもしれないわよ。……特にそこで消しゴムのカスを丸めて遊んでいるツンツン頭の貴様!!」  指摘された上条|当麻《とうま 》はビックゥ!! と肩を震《ふる》わせ、 「えっ、ええー? 新しい自分とか良いっすよ。どうせあれだよ、今までメイド好きだと思っていたら実はウェイトレス好きだった事が判明するぐらいだよ」 「にゃーっ!! それは超重要な事ですたい!! メイドはウェイトレスの仕事もできるけど、ウェイトレスにメイドの仕事は務まらないという事実を忘れていないかにゃーっ!!」 「ふっ……馬鹿《ばか》やね。メイドが好きだからってウェイトレスを好きになってはならないという法則はどこにもあらへんのに。まぁ、たった一つのフェイバリットジャンルに操《みさお》を立てようとするその純粋さが悪いとは言わへんけど」  馬鹿が三者三様の反応を見せた所で、迫る一端覧祭を前に燃え上がっていた仕切り屋|魂《だましい》(?)を踏《ふ》みにじられた吹寄が毎度のように大噴火。『貴様らは……そのふざけた思考回路をどうにか変えろと言ってるんだ馬鹿ぼけクソこらーっ!!』『いやこの議論は普通の喫茶店かメイド喫茶にするかで絶対必要になるはずだゴキュ!!』などという叫びと共に、上条が頭突きで吹っ飛ばされていく。  ごろんごろんと床を転がっていく上条だったが、クラスメイトの姫神《ひめがみ》|秋沙《あいさ 》の席の近くでようやく勢いが止まる。こっちもこっちで黒くて長い髪(だが巨乳ではない)の女の子は、何か真剣な顔で分厚い本のページをめくっている。  むくりと起き上がった上条は、何を読んでいるのかしら? と姫神の肩越しに細かい文字をちょっと目で追い掛けてみようと思ったのだが、 『——パワー溢《あふ》れるクラスの中で埋もれないためには、何と言っても他者を押しのけるために放たれる光、そう、攻撃《こうげき》|力《りよく》が重要です。そしてその攻撃力を得るために必要なのは間違いなく個性。何らかの特技があるのがベストですが、急には難しいと言うのなら、部活や委員会などに所属してみるのも一つの手です。生活リズムの変化はそれだけであなたの外面や内面に変化を与える格好の材料になり——』 「………………………………………………………………………………………………………、」  上条当麻《かみじようとうま》は何とも微妙な視線で、姫神《ひめがみ》の後頭部に目をやった。 「……なあ。何か悩み事があるようなら、相談に乗るぞ」 「いい。一人で頑張ってみる」 「そ、そうか。ただ一つだけ助言させてもらうとだな、なんだかんだでお前はそつなく料理をこなすという平和的な個性があったはずだ」 「!?」 「はっはっはー。毎日自分でお弁当を作ってくるというのは、すでに強烈な攻撃力《こうげきりよく》ではないかね? 上条さんも自炊派だがそこまで本格的ではないんだからさー」 「わ。私……。もしかして。求めていたものは。すでに自分の中に備わっていた……?」 「うんうん」 「これからは私の時代。魔法《ま ほう》のお弁当を行使する事で。もうはじっこの方で無表情でいるのはおしまい……」 「い、いや……うん、多分……?」  その時だった。  担任の女教師、月詠小萌《つくよみこ もえ》が教室に入ってきた。 「はーい。それではホームルームを始めますー。今日は一端覧祭《いちはならんさい》に向けて、各自の役割分担を決めるのですよー。部活や委員会の関係で優先順位のある子は先生に申告してくださいー」 「——。」  姫神|秋沙《あいさ 》の動きがピタリと止まった。  身長一三五センチ、見た目は一二歳前後、ランドセルが似合いそうな外見のくせにビールや煙草《タ バ コ》に目がなく、専攻の発火能力《パイロキネシス》の他《ほか》にも多種多様な学問に通じ、学者の間でも扱い方が分かれるAIM拡散力場関連の研究にも余念がないという……個性が一つ二つあるないではなく、もうどこから眺めても個性しかない怪人イレギュラー先生[#「個性しかない怪人イレギュラー先生」に傍点]を目《ま》の当たりにし、改めてその特殊性を再確認させられた彼女は、 「……。はう」 「ひっ、姫神? 何で真っ黒に絶望して倒れているんだ? 姫神っ、姫神ィィいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいッ!!」  がくがくと肩を揺さぶられても、もう彼女は返事をしない。      4  御坂《み さか》|美琴《み こと》はそわそわしていた。  夕暮れというより、ほとんど夜に近い繁華街《はんか がい》だった。行動時間帯そのものに変化はないのだが、季節の移り変わりによって日照時間が変わってきたのだ。もう少しすると、完全下校時刻も繰《く》り上げられるだろう。  彼女がそわそわしている理由は明白だ。 (……とっ、とんでもない事を言ってしまった!! 後先考えずになんかものすごい事を言ってしまった……ッ!!)  脳裏にあるのは、第二二学区——学回都市最大の地下街で繰り広げられた、とあるツンツン頭の少年との一連の会話だった。  あの時はなんか上条当麻《かみじようとうま》は死にそうだったし、死にそうな体を引きずって何らかの事件の中心に飛び込もうとしていたしで、美琴の方も平静ではいられなかった。おかげで、とにかく上条を止めるために、打算も出し惜しみもせず、自分の心の中にあった言葉を全部|吐《は》き出してしまったのだが……。 (まっ、まずい。なんか思い出すと脇《わき》の下の辺りがものすごくムズムズしてくるぐらい色々とまずい!!)  と、ここ数日は一人で身悶《み もだ》えてはルームメイトの白井黒子《しらい くろこ 》に不審がられている訳だが、唯一の救いは(おそらく美琴自身の防衛本能が働いているおかげでもあるのだろうが)、件《くだん》の少年と街中で|遭遇《そうぐう》する機会がなかった事だ。  今、顔を合わせたら間違いなく意識が飛ぶ。  とりあえず自分の中で心の問題に決着がつくのを待ってから、いつもの通りいつもの感じで顔を合わせようと考えているのだが、 「んー? あれ、ビリビリじゃん。お前ここで何やってんの?」 「ッ!! !? ??」  突然後ろからかけられた声に、美琴はビックゥ!! と肩を大きく|震《ふる》わせる。  恐る恐る振り返ると、そこには例のツンツン頭が。 「べっ、別に何でも良いでしょ。いつもの通り自販機|蹴《け》ってんのよ自販機!!」 「いや、ええと、何でも良くはねーだろ」  げんなりしている上条だったが、美琴は美琴で今の状態に内心で『あれ???』と首を傾《かし》げていた。  ……そんなに嫌《いや》じゃない。  事前に色々シミュレートした所によると、上条と遭遇した瞬間《しゆんかん》に恥ずかしくて死ぬと思っていた。たとえ上《かみ》|条《じよう》の方が何も言及しなかったとしても、美琴《み こと》の方が勝手に気まずくなると予想していたのだ。  しかし、蓋《ふた》を開けてみると何ともない。  むしろ、数日ぶりの会話に安堵《あんど 》している自分がいる。 「その、アンタ……もう怪我《けが》は大丈夫《だいじようぶ》な訳?」 「まぁ一応。でも、そっか……。意識が朦朧《もうろう》としていたからあんまり覚えていないけど、やっぱお前は知っちまったんだよな」  対して、上条の方はわずかに寂しそうな表情を浮かべていた。  あまり見た事のない顔色だと、美琴は思う。 「他《ほか》のヤツらには黙《だま》っておいてもらえると、助かる。記憶《き おく》|喪失《そうしつ》だなんてさ、変に気を遣われても仕方のない問題だし。普段《ふ だん》通りの生活は送れるから、今まで通りに接してくれるとありがたいかな」 「そ、そう」  美琴が自分の感情に戸惑っている内に、上条は話題を変えてしまう。  彼女の方は、目まぐるしく変わる状況(と思うほど美琴の頭が猛烈に空回りしているだけなのだが)についていけなくなる。 「っつ−か自販機の事もそうだけどさー。人前でスカートのままでハイキックとかも自重しとこうぜ。下が短パンだからって太股《ふともも》の根元まで見えてんのに変わりはないんだからさ」 「……、」 「ありゃ? ……なんか素直だな。あの御坂《み さか》が自販機に小銭を入れ始めたぞ」  指摘されても美琴は言い返せない。せっかく分厚い心の防壁を築いていたと思っていたのに、実は壁は全部スポンジ製で、思いっきり水が浸透してきていますが、的な状況に美琴はぐるぐるぐるぐると目を回すと、 「ど、どうにゃってんのよ……。普通はここで思いっきり拒絶してとりあえず走り去る場面でしょ何で居心地良くなってんのよ私のココローっ!?」 「は? ていうか、お前、何でいきなりビリビリ出してんだ……? お、おい、暴走してるぞ。お前なんか全身がものすごくビリビリっつーかバチバチいってんだけど俺《おれ》なんか悪い事したっけかーっ!?」 「ふにゃー」 「ふにやァァあああぁあああじゃねェェええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」  バヂバヂバッヂィィィィン!! と心臓に悪いスパーク音が炸裂《さくれつ》する。      5  姫神《ひめがみ》も美琴《み こと》も何だかおかしな一日だった。  疲れにドッと襲《おそ》われた上《かみ》|条《じよう》は、学生|寮《りよう》の玄関のドアを開ける。 「……まさか、インデックスの調子もおかしくなったりしてねえだろうな」 「??? 何がなの、とうま?」  上条の独り言に反応したのは、リビングで寝転がっている白い修道服の少女だ。長い銀髪に緑色の瞳《ひとみ》を持つ幼い女の子で、『一度見たものは絶対に忘れない』完全|記憶《き おく》能力の持ち主。その特異体質を駆使して一〇万三〇〇〇冊の魔道書《ま どうしよ》を一字一句|漏《も》らさず保存している魔道書図書舘・禁書目録な訳なのだが、ここ最近はもっぱら役に立っていない。今も豚の角煮の缶詰の開け方が分からないらしく、飽きて捨てられた缶切りがその辺に転がっていた。ちなみにその近くに座っている小さな三毛猫《み け ねこ》は『諦《あきら》めるな! 豚肉を諦めるのはまだ早い!!』と大の字になったインデックスの頬《ほお》を肉球でパンチしている。  その様子を見て、上条はホッと息を吐《は》いた。 「インデックスはいつも通りだな」 「あからさまな馬鹿《ばか》にしてるサインを受け取ったんだよ」  そんな事はない、と上条は即座に否定。  薄《うす》っぺらな学生カバンをその辺の床に置くと、とりあえず適当にテレビのスイッチを点《つ》ける。二時間の特番のCMが流れていた。なんか世界各国の奇跡の救出劇などをまとめたものらしく、今も水没した海底トンネルから三七〇人を全員救出したイギリスの海中作戦部隊の話が紹介されている。 「……なんつーか、ちょっと肌寒いな。三毛猫は完全に冬毛モードだし、そろそろアレを出す時がやってきたかもしれん」 「なっ、何を!? 何を出すの!? ハッ!! もしや今日はウワサのフグ鍋《なベ》を出すという事なんだね!!」 「勝手に確定すんな!! それは体はあったかくなるが家計が氷河期に突入する!! そうではなくて、ウチもいよいよコタツを出す時がやってきたと言っているのだインデックスさんよ」 「何それ? コタツ鍋って何入れるナベ? タツノオトシゴ?」 「食べ物からちょっと離《はな》れようインデックス。コタツというのはこれの事だーっ!!」  上条は叫び、壁際《かベぎわ》の小さな収納スペースから布団《ふ とん》とテーブルが合体した例のアレをズバーン!! と大公開。ガラステーブルの代わりに部屋の中央へ設置すると、インデックスはわなわなと震《ふる》えながら、 「柿《かき》の種だーっ!!」 「コタツの上に乗ってるお茶菓子がメインじゃねえ!! 頼《たの》むからコタツに足を突っ込んでみて! そして日本発の特殊暖房器具の素晴らしさを体感しろコラーっ!!」 「?」  首を傾《かし》げつつも、両足をズボッと布団《ふ とん》の中へねじ込むインデックス。  と、 「むにゃ……。何だかとっても眠たくなってきたんだよ」 「使用五秒でコタツの真理を体得するとは恐るべしインデックス。しかしその眠気は風邪《かぜ》を誘発《ゆうはつ》する罠《わな》だから負けてはいけない」  なんだかんだでインデックスはコタツを満喫しているようだ。三毛猫《み け ねこ》もコクツの中央にチョコンと座り、『この気持ち良いポカポカ空間は俺《おれ》の城だからね!!』と自己主張している。 (良かった良かった。自信満々で出したのに『日本の文化だから分からないんだよ』で一刀両断されなくて)  などと考えながら上《かみ》|条《じよう》もコタツに足を入れる。  と、インデックスは眠気でムニャムニャした顔つきのまま、コタツの上に置いてあった籠《かご》の中から柿《かき》の種の袋を取り出した。彼女は小さな手で透明な袋を開けると、 「はい、これはとうまの分」 「……ッ!?」  奇跡である。  あの、カップラーメンを作れない少女(理由は目の前にある食べ物を三分待てないため)が、まさか自分の手の中にある食べ物をこちらに渡してくるとは[#「まさか自分の手の中にある食べ物をこちらに渡してくるとは」に傍点]……ッ!! 「なに、何で意外そうな顔してるの?」 「い、いや、何でもないぞー」 「?」  やや怪訝《け げん》な顔をしていたインデックスだったが、どうやら初めて見るコタツに対する興味の方が大きいらしい。それとも眠気を吹き飛ばすための抵抗の一環なのか、一度コタツから足を出すと、今度は頭からコタツの中へ探検を開始している。いやー、大好評みたいで本当に良かったー、と気を緩《ゆる》めた上条だったが、  ばぶう、と。  コタツ内にある上条の尻《しり》から変な昔が聞こえた。  その瞬間《しゆんかん》、コタツの中に顔を突っ込んでいたインデックスは、そのままの体勢から勢い良く立ち上がり、重量挙げのバーベルのように両手でコタツを丸ごと持ち上げた。 「とーうまァァああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」 「ひっひいいいいいいいいいいい!! すまんインデックス、今のは俺《おれ》が油断した!! だがそのコタツを振り下ろすのだけは!? 空中|要塞《ようさい》コタツの上で三毛猫《み け ねこ》も困っているぞ!!」  と、その時だった。  上《かみ》|条《じよう》の家の電話がプルルルと着信音を発した。携帯電話全盛の時代、何気に家の電話が鳴るのはちょっとレアだったりする。これでインデックスから逃げられる、っつーかなんか|緊《きん》|急《きゆう》の連絡|網《もう》かも……などと思った上条は、どうにかインデックスをなだめつつ受話器を掴《つか》む。  電話の相手は土御門《つちみ かど》|元春《もとはる》だった。 『にゃー。カミやん、ちょっと長話するけど今は大丈夫《だいじようぶ》かにゃー』 「はぁ。隣《となり》に住んでるのに何で電話使ってんだ? 訪ねてくりゃ良いのに」 『まぁやむにやまれぬ事情があってだにゃー。それにしても、夕飯時の忙しい時間帯に申し訳ないぜい』 「色々あってむしろ感謝してるぐらいなんだけど……ってもうそんな時間か!? まずい、ご飯の準備が何もできてない!! 土御門、用件あるなら手短に頼《たの》む!!」 『ん? そっかそっか。でも、まぁ、いやー……。どこから説明するべきなんだろ……? ユーロトンネルの爆破……から説明してもいきなりだし。まずは情勢の方まで遡《さかのぼ》らないとまずいんだけどなぁ……』 「手短に!! 今日のご飯は遅くなりそうだと勘付《かんづ 》き始めたインデックスさんが怒りの炎に包まれそうな感じになってるから!!」  そうかー、と土御門は釈然《しやくぜん》としない感じの声を出した後、 『じゃあ手短に言うぞ。今からイギリスに行ってこい』  ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。 「は、あの、ええと。何だって?」 『飛行機はこっちで用意しておいたから。第二三学区に着いたら、国際空港の第三受付にあるクロークサービスで三二九三番のロッカーの荷物を受け取れにゃー。パスポートとか必要な物は全部そこに入ってるから。学国都市のIDがそのままクロークの番号札代わりになってるから、受付に上条|当麻《とうま 》って名乗れば荷物は出てくるぜい』 「え、ちょ、待って! なんか色々ハショりすぎて意味が分かんない!! イギリス? 今から? お前、もっと説明するべき事がいっぱいあるはずだろーっ!!」 『だから手短にって言ったのはカミやんじゃん』 「そりゃ確かに言ったけど!! でも何だか今日のお前はやけにぶっちゃけすぎ!! っていうかそもそも何で今からイギリスに行かなくちやならな……待てよ。なんか嫌《いや》な予感がする。イタリアのキオッジア、フランスのアビニョンって感じで海外旅行が絡《から》むと大体ろくな目に遭《あ》ってない気がする!! しかも今回は魔術《まじゆつ》結社山盛りの国にしてイギリス清教総本山の国!! これは絶対にヤバ——ッ!!」 『んー、カミやん。その予想は大体合ってるけど、もう手遅れとだけ言っておくぜい』  そんな言葉の直後にベランダの方から、鉄パイプが地面に落ちるような、カコーンという甲高《かんだか》い音が聞こえてきた。どうやら、隣《となり》の部屋のスペースから何かを投げ込まれたらしい。  見ると、そちらにはヘアスプレーのような小さな缶が。  シュー、という気体の漏《も》れる音に上《かみ》|条《じよう》は、 「うぶふっ! ガハゴホ!! きっ、吸引性|昏倒《こんとう》ガスだと!?」 『そうそう、最後にもう一つ。海外だろうがどこだろうが、カミやんって基本的に大変な目に遭ってんじゃね?』  心外な台詞《せ り ふ》だったが反論する余裕もなし。  全身麻酔のような無茶《む ちや》な眠気に襲《おそ》われた上条とインデックス(+三毛猫《み け ねこ》)が、強制的にスヤスヤモードへ移行する。      6 『イギリス - フランス間を繋《つな》ぐユーロトンネルの爆発事故の影《えい》|響《きよう》が、空路の方にも広がっています。両国間で物資・人員を運搬《うんぱん》するために多数の飛行機が動員されているため、通常のスケジュールが遅延する可能性があります。詳しい発着予定については、各受付カウンターにて——』  上条|当麻《とうま 》は、そんなアナウンスで目が覚めた。  気づいたら空港ロビーにあるベンチの上だったのだ。 「……ちょっと今回は色々ダイナミックすぎねーか……」  何だか妙に重たい頭を振って起き上がると、カサリとした感触が。手元にあるのは小さなメモだ。それによると、 『にゃー。すでに完全下校時刻に合わせた終電終バスの時間は過ぎているし、財布の中身は抜いておいたからタクシー使って帰る事もできないにゃー。クロークの荷物の中にイギリスの通貨がいくらか入っているから、それを使って楽しい旅を』 (……おのれあのクソ野郎)  クロークの荷物だけ取って帰っちゃおうか、とも思ったのだが、イギリスの通貨ポンドでは日本のタクシーを利用できない。日本円に両替してしまえば良いのだろうが、こんな夜では銀行窓口も開いていないだろう。 (っつーか、学園都市の『外』に出るのって、発信機機能のついたナノデバイスを体内に入れたり、保護者を同伴させなきゃいけないんじゃなかったっけ? なんか最近、色々と裏技だらけな気がするぞ……)  一体何なんだ、と思いながら、上《かみ》|条《じよう》は同じようにベンチで眠りこけているインデックスの肩を掴《つか》んで揺さぶる。 「おいインデックス、起きろってば」 「む、むおお……。何だかこのまま三日ぐらいは眠っていられそうな感じなんだよ」 「逆にその不自然な眠気に恐れを抱け。ほら、三毛猫《み け ねこ》も」  前脚をひくひくさせて夢を見ていた小さな猫は、上条の指先に鼻をつつかれて覚醒《かくせい》完了。上条は相変わらずぐにょぐにょになっているインデックスを強引に引っ張り、指示にあった第三受付とやらまで足を運ぶ。 「上条|当麻《とうま 》様ですね。三二九三番の荷物をお預かりしております。こちらでよろしいですか?」  受付のねーちゃんがそんな事を尋ねてきたが、上条には荷物が足りているか欠けているか判断はできない。とりあえず適当に領《うなず》いてデカいスーツケースを受け取ると、パカッと開けて中身を確認してみる。  中にあるのは外国のものっぽい紙幣《し へい》とパスポート、フライトチケット、いかにも指令書っぽい紙束、後は激安チェーン店で買ったと思われる着替えが数日分だ。  上条はフライトチケットを手に取り、そこに表記されている内容を読んで思わず呻《うめ》く。 「……マジかよ。ホントにロンドンの空港の名前が書いてあるぞ」 「というか、そもそも何でこれからイギリスに行かなくちゃならないの?」 「ええっとー……なんかゴチャゴチャ書いてあるなぁ」  上条は指令書らしき紙束に目をやったが、何分《なにぶん》吸引性|昏倒《こんとう》ガスを喰《く》らってふらふら状態である。普段《ふ だん》ならもうちょっと注意して読んだだろうが、何だか文字を目で追っても頭の中できちんと理解できない。 「……うーん……。なんかー……イギリスでデカい魔《ま》|術《じゆつ》トラブルが起こったから、インデックスを国家公式に召集したいってー……」  むにゃむにゃ唇《くちびる》を動かしながら、上条は続ける。 「でー……現状のインデックスの保護者役が上条当麻だからー……俺《おれ》も一緒《いつしよ》について行かなくちゃダメとか何とか……」 「とうまに保護されているというのは心外な評価なんだよ」 「そういうのは毎日ご飯を作ってもらっている子の発言じゃありません。はぁ……行くしかねえのか。ぶっちやけ面倒|臭《くさ》いなぁ」  わざわざインデックスを呼び出すほどのデカい魔術トラブルなど、見るからに行きたくない感じなのだが、ここでぶっちぎって学生|寮《りよう》に帰ったら、炎の魔術師ステイル=マグヌス辺りがリアルに攻め込んできそうだ。問題が大きいからこそ、無視する訳にもいかないっぽい。 (っつーかイギリスってこの前どっかのトンネルでデカい爆発とか起こってなかったっけ?……なんかもう色々と嫌《いや》な予感がするなー……)  ブチブチ言っても仕方がない。  となると、搭乗の手続きをする必要がある。  ペットの猫をタグのついたケージに載せたり、金属探知器のゲートをくぐったりしている内に(キオッジアの時と同じく、インデックスが着ている安全ピンだらけの修道服はここでも引っ掛かった)、時間はどんどん過ぎていく。 「それにしても、イギリスかぁ」  スーツケース内の激安着替えの一着である簡素なワンピースを着たインデックスがそんな事を言った。  上《かみ》|条《じよう》はキョトンとした顔で、 「そういや、イギリス清教の本拠地からお呼びがかかっているって事は、お前の生まれ故郷に行くって事なんだよな」 「うーん。あんまり実感はないんだよ。私は一年ぐらい前より昔の思い出はないからね」  そんな事を言うインデックスは、特に無理をしている訳ではなく、本当に特別な思い入れはないようだ。イギリスでの行動を示す指令書すら上条にお任せである。 (……思い出がない、か)  と、そんな上条の内心など気づかず、インデックスは尋ねてくる。 「とうま、私|達《たち》の乗るひこーきってどこにあるの?」 「んー? 土御門《つちみ かど》のヤツが特別に手配しているって」  発着ロビーの一面はガラス張りで、その先は夜の滑走路が広がっている。大きな旅客機がいくつかあった。作業用の自動車がそれらの間をくぐるように進んでいる。 「ええーと、四番ゲートで待っている0001便だって言ってたけど——」  そちらの方を見た上条の動きが、ピタリと止まった。  彼らの視線の先に、旅客機が佇《たたず》んでいる。  最大時速七〇〇〇キロオーバー。  日本と西欧の間をおよそ二時間で突っ切る例の怪物飛行機だ。  その瞬間《しゆんかん》、上条とインデックスの脳裏に浮かんだのは、キオッジアから日本へ|緊《きん》|急《きゆう》帰国する際に受けた、強烈なGと内臓を圧迫する不気味な苦しみとその状況でインデックスが無理矢理機内食を注文したため全《すベ》てを後ろ方向へ吹っ飛ばしたあの悪夢だった。 「……、」 「……、」  そうこうしている間にも、超音速旅客機は順調に離陸《り りく》の準備を進めている。フォークリフトで運ばれているあのコンテナの中には、先に預けておいた三毛猫《み け ねこ》が入っているのだろうか。そんな事を考えながら、どちらともなく彼らは呟《つぶや》く。 「おいインデックス」 「なぁに、とうま」 「……あの便はわざと諦《あきら》めて、キャンセル待ちでも良いから次の飛行機に乗ろう。もっと普通で、人体の害にならない飛行機に」 「私はとにかく、ご飯が後ろへ飛ばないひこーきなら何でも良いんだよ」  上《かみ》|条《じよう》とインデックスは固い握手を交わし、超音速旅客機を静かに見送った。  薄情者《はくじようもの》という、三毛猫の叫びが聞こえたような気がした。 [#改ページ] [#改ページ]    行間 一  ついにフランスも動き出したみたいね。  それにしても、ローマ正教に後ろからせっつかれているとはいえ、随分《ずいぶん》と従順な反応じゃない。イギリスとフランスを繋《つな》ぐ唯一の陸路、ユーロトンネルが爆破されたっていうのは、フランス経済にとっても大打撃《だいだ げき》であるコトに違いはないでしょうに。わざわざ三本構成の海底トンネルを、全部まとめて爆破しちまうとはね。  それでも、イギリスに比べればマシであろう、か。  確かにね。アンタの言う通りよ。  島国イギリスにとって、唯一の陸路を潰《つぶ》されるのは生命線の半分を断たれるようなもんよ。今は海路や空路を増便するコトで物資不足になるのを防いでいるが、じきにコスト面の赤字が膨《ふく》らみ、許容量を超えるでしょう。  同じ量の荷物でも、列車で運ぶのと飛行機で運ぶのでは、費用のケタが違うからさ。  海上輸送に頼《たよ》れば解決できる——楽観的な評論家はそんなコトを言っていたけど、まぁ無理でしょ。ユーロトンネルの開通と共に、『海底トンネルを使うコトを前提に』いくつもの港が潰れちまっているもの。今さら『全部海上輸送に戻しましょう』っつったって、荷物の量が飽和しちまうのがオチよ。交通渋滞が起きたり、バーゲンやってるデパートのレジカウンターみたいに、単純な物量でパンクしちまうって寸法ね。  あの海底トンネルは復旧するのに最低でも三ヶ月はかかるでしょう。それが終わる頃《ころ》まで、店の陳列棚がいつも通りとは思えないわ。おまけに、その復旧工事にもあれこれ複雑な思惑があるっていうんだから、面倒な事態にならない方がおかしいわよ。  ん? そうそう、アンタの言う通り。  フランスの後ろ盾には、ローマ・ロシア勢力が仕切るヨーロッパ諸国がついているわ。これに対してイギリスは学園都市の他《ほか》に、アメリカにも救援を求めたらしいし。  ハッ。  ユーロとドルの戦争ってコトでしょ。  アビニョンで起きたC文書の一件で、経済的な打撃を一番受けたのはアメリカよ。おかげで投資家の注目はすでにそこから逸《そ》れているわ。彼らは自らの窮状《きゆうじよう》を自覚しているからこそ、ユーロや元《げん》の市場が活気づくコトを極端《きよくたん》に恐れている訳ね。敵の足を引っ張りたがるほどに。  我らが無能な左方のテッラが引き起こした間抜けな結未よ。  アンタだって詳しく知っているでしょう?  その手で始末したんだから。  今回の件は直接的には、イギリスとフランスの間にある数百年単位の確執が原因ね。しかし、そこにアメリカ中心の経済とヨーロッパ中心の経済がぶつかり合ったコトによって、すっかり『英仏冷戦』状態に突入しちまっているわ。  荒れるわね、欧州は。  これから始まるのは単一の国家と国家の戦争じゃない。  そんなものでは終わらないわ。  どうやら、フィアンマのクソ野郎は欧州を火の海にしてまで欲しいものがあるらしい。そして頭にくるコトに、ローマ・ロシア勢力をほぼ完全に掌握《しようあく》しているのは、そのフィアンマよ。私やアンタが命令を出した所で、もはや従う者など誰《だれ》もいない。権限がないからね。  それでも、行くの?  確かにアンタの戦力はそこそこよ。馬鹿《ばか》正直に殴《なぐ》り合うだけなら、私よりも上かもね。  ただ、国家そのものが、世界そのものが、丸ごと破壊《は かい》されるような災厄《さいやく》を前に、アンタの力は通用するのかしら。敵も味方もない、方向性なんて何もない、それこそ全方向から均等に襲《おそ》いかかるパニック映画みたいな事態に、アンタの力はどこまで通用するもんかしらね。  まぁ、アンタが行くって言うなら構わない。  私に止める権利はないし、アンタの命を気にかける義理もないんだから。  ただし、私の方針を伝えておく。私は行かない。あ? ナメた口を開くんじゃないわよ。別に怖気《おじけ 》づいたワケじゃない。例の『天罰《てんばつ》術式』が使えなくなっちまったからね。『神の右席』は——まぁ、アンタは別だろうけど——普通の魔《ま》|術《じゆつ》や霊装《れいそう》は使えないし。ちょいとあちこち立ち寄って、やっておくべき準備を済ませておくだけよ。  それに、馬鹿正直にそっちへ行くよりも、私の作戦の方がフィアンマに一泡吹かせるのに効果的っぽいからね。  この私に命令形はない。  アンタがアンタの道を行くように、私も私の道を行く。  ん?  お前の口癖《くちぐせ》は、『この私に否定形はない』ではなかったか、だって?  別に何でも良いのよ。  その時の気分で適当に言ってるだけなんだからさ。自分で自分を縛《しば》るような、器用な人間に見えんのかしら。この私が。 [#改ページ]    第二章 雲の上に浮かぶ鋼の戦場 Sky_Bus_365      1  天草式《あまくさしき》の少女、五和《いつわ 》は不機嫌《ふ き げん》そうな目つきで、頬《ほお》を膨《ふく》らませていた。  学園都市製の超音速旅客機を使ってあの少年・上条当麻《かみじようとうま》がやってくると聞いた時はドタバタと慌てて準備を整え、日本語の分かる案内役としてロンドンの空港へ向かったものだが、蓋《ふた》を開けてみれば上条当麻はいない。なんか変な手違いでもあったのか、ペット登録された三毛猫《み け ねこ》のケージだけを渡される羽目になったのだ。  これは突然のチャンス! もう大精霊《だいせいれい》チラメイドセットでも何でも買ってやる!! とまで勢い込んでいた彼女としては、この肩透かしっぷりの落胆は相当なものだった。三毛猫内蔵型小さな籠《かご》を抱えてロンドンの日本人街に帰ってきた五和(未成年)は、ちゃぶ台の上に一升瓶《いつしようびん》を置いてグビグビやっている。小皿の上にはスルメまで用意してあった。  禁書目録の管理業務の一環として、あの少年もロンドンへやってくるという話だったのに。  と、そんな五和を見て顔を真っ青にしているのは、同《どう》|僚《りよう》の小柄な香焼《こうやぎ》や女性の対馬《つしま 》などだ。特に台所の床下収納スペースにこっそりイモ焼酎《じようちゆう》を隠していた大柄な牛深《うしぶか》の衝撃《しようげき》はものすごい。 「あっあの、五和、さん……? こ、今回はちょっとした手違いがあった訳だけれども、何もそこまで落ち込む事はないんじゃないかなー……?」  あいつ! 俺《おれ》のっ!! イモ男爵《だんしやく》を!! と暴れそうになっている牛深を羽交《はが》い絞《じ》めにしながら、既婚者の野母崎《の も ざき》が愛想笑《あいそ わら》い全開で、そーっと言葉を投げかける。  対して、五和は本当に飾り気のない透明なコップにドボドボと液体を注ぎ込みながら、首が斜めの状態でドローンとした瞳《ひとみ》を向けてくる。 「ひっく……べっつにー……落ち込んじゃいませんよ……。ちくしょう、そうです、そうなんです。何で私が……」  ぶつぶつぶつぶつぶつぶっぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつ、と五和はほとんど唇《くちびる》を動かさないで何かを呟《つぶや》き、ほとんど八つ当たり気味に、 「……ったく、大体……イモ男爵って、何なんですかー……? こんな……ジャガイモか、サツマイモかも分かりづらい、面倒な名前のお酒なんて……」  じゃあ呑《の》まないで! 俺の楽しみを奪わないで!! と涙目になる牛深。  その時だった。  初老の諌早《いさはや》が血相を変えて部屋に入ってくると、開口一番こんな事を言ってきた。 「おっ、おい!! あの少年、やはり予定を戻してロンドンへ来ているらしいぞ!!」  ガタガターン!! と五和《いつわ 》が慌てて立ち上がった。その途端《と たん》に一升瓶《いつしようびん》が真横に倒れ、どっばー……とちゃぶ台の上に高級な液体が流れる。『はぎゃああイモ男爵《だんしやく》がァァああ!!』と絶叫した牛深《うしぶか》の首に女性の対馬《つしま 》が手刀を放って黙《だま》らせているが、五和としてはそれどころではない。  あの少年がロンドンに?  空港では『そんな人は乗っていない』という報告を受けたが、やっぱり何かの手違いで、あの少年は飛行機に乗っていた? すると、もしかすると……訪ねに来てくれる可能性も!?  五和の顔全体から、キラキラキラァァ!! という柔らかい光が発せられそうになったが、そこで彼女の幸せな表情が、不意に固まった。  気づいたのだ。  自分自身の惨状に。  ……まさか、こんなイモ焼酎《じようちゆう》でべろんべろんになって、息を吸って吐《は》くだけで酒臭《さけくさ》い匂《にお》いが充満するような状態で、口の端《はし》にスルメの足まで咥《くわ》えた、ここまで酷《ひど》い醜態《しゆうたい》を見られてしまう……? 「おっ、終わりだ!! そんな事になったら全部が終わりです!!」  とにかく見た目だけでも何とかするべく、五和はスルメの足を全部食べて、消臭用のキャンディを口に放り込み、顔を洗ってシャッキリ背筋を伸ばそうとする。しかしその足取りはどう考えても酔っ払いのそれだし、真っ赤になった顔は競馬場にいるおっさんみたいである。 (い、いや、ロンドンへ来ると言っても即座にこの日本人街へ足を向けるという保証はないはず。普通に考えればホテルに寄るはずですし、そのままバッキンガム宮殿の方に向かうとなれば、すぐに日本人街には来ないはず! まずは体裁《ていさい》を取り繕《つくろ》う事に全力を……ッ!!)  と、少し楽観的な事を考えた五和だったが、初老の諌早は神妙な顔つきで首を横に振った。 「駄目《だめ》だ五和。もうあの少年はここへ来ようとしている」  ビックゥ!! と五和の肩が大きく震《ふる》える。  ふらふらしながら彼女は考える。 (しかし、何故《なぜ》!? 単なる偶然でこんな所へやってくるとは思えないのに……ッ!!)  あの少年を真《ま》っ直《す》ぐ呼び寄せるための心当たりと言えば、 (そういえば空港で猫ちゃんを預かって……しまったーっ!! それなら自分の飼い猫を受け取るために、こちらへ訪ねて来てもおかしくはありません!!)  あわわあわあわわわわ、とうろたえまくる五和の耳に、ドカドカと接近してくる足音が届く。そうこうしている内に、がちゃりとドアが開く音が聞こえた。 「来たぞ!!」  初老の諫早《いさはや》の叫びが五和《いつわ 》の耳に響《ひび》く。  部屋の構造は洋室なのだが、ドアと奥を区切るように、障子戸《しようじど 》が設置されている。その障子の薄《うす》い紙に、ツンツン頭のシルエットがドバーン!! と映し出される。  どう考えてもこっちへ一直線に決まっている。 (どっどどどどどどっどどどっどうどうしっどうしよう!?)  まさに絶体絶命。  顔を全部真っ青にした五和の目の前で、障子戸が真横へスライドしていく。ぐでんぐでんになって吐《は》く息どころか毛穴からも酒臭《さけくさ》い何かが噴出しているとしか思えない五和に対し、預かってきた三毛猫《み け ねこ》すら『お嬢《じよう》さん。その匂《にお》いはいただけませんな』と逃げ出す始末。その現状を再確認した五和の頭が極限の混乱に襲《おそ》われ、 (あわーっ!!)  そして、 「じゃーん!! ツンツン頭の建宮斎字《たてみやさいじ 》さんなのぶゴゥおおおおおおおおおおおおおッ!?」  同《どう》|僚《りよう》で尖《とが》った黒髪の男が乙女《おとめ 》の心を弄《もてあそ》んだ直後、ちゃぶ台返しどころか、片手でちゃぶ台を掴《つか》んだ五和《いつわ 》が容赦《ようしや》なく建宮《たてみや》を殴《なぐ》り飛ばす。大男の体が部屋の外まで転がっていき、いらぬドッキリに付き合わされた諌早《いさはや》の顔が真っ青になった。      2  スカイバス365。  上《かみ》|条《じよう》とインデックスが三毛猫《み け ねこ》を見捨てて乗り込んだのは、極めてゆったりとした大型旅客機だった。座席部分は二階建てになっていて、単純に面積も広くなった以上、乗員の数も多いし座席一つ当たりの面積も大きい。エコノミー席というと映画館の椅子《いす》のような窮屈《きゆうくつ》さを連想させるが、このスカイバス365に関してはその法則は通じない。一番格安の座席であっても足を伸ばせる程度の広さがあり、マッサージチェアとしての機能も有していた。  ただ一つ、問題があるとすれば……。 「いやあ……まさかロンドン行きの飛行機が一機もなかったなんてなぁ」  上条はボソリと呟《つぶや》いてしまう。  ロンドン行きの飛行機は予約で一杯だったのだ。なので、上条達は同じイギリス行きだが、スコットランドのエジンバラ行きの飛行機に一度乗って、そこから国内線の飛行機に乗り換えてロンドンへ行こう、という話になったのだ。……全《すベ》ては空港のサービスカウンターのお姉さんが色々アドバイスしてくれたおかげである。  ちなみに、スコットランドはイギリス北部、ロンドンはイギリス南部である。  とにかくキャンセル待ちの飛行機を探してイギリスへ向かった上条達だが、当然ながらフライトチケットの購入には金がかかる。土御門《つちみ かど》に『タクシーで空港から逃げるの禁止作戦』の一環として財布の中身を奪われていた上条だったが、不幸中の幸いにも、お財布ケータイの機能でフライトチケットの精算ができたので事なきを得た訳だ。 (……ただ、お財布ケータイってクレジットカードみたいなもんだからなぁ。後で請求書見て悲鳴を上げたりしなきゃ良いけど……)  そんな庶民的な事情で頭を抱えている上条とは対照的に、安全ピンだらけの修道服から簡素なワンピースに着替えた(じゃないと危険物だらけで飛行機に乗れない)インデックスは極めて楽観的だ。『ひこーき』というイレギュラー空間に夢中になってしまっている。 「とっ、とうま。この椅子にはピコピコがついでいるんだよ!!」 「確かにボタンはいっぱいついてるけど、それはゲームじゃないっての。っつーかただのテレビだろうが……じゃねえ!? 今すぐその手を離《はな》せインデックス!  お前が操作しているのは有料チャンネルだ!!」 「ビーフオアフィッシュ!! ビーフオアフィッシュ!!」 「今から機内食が心待ちなのは分かったから!! うわーっ!! 最新映画チャンネルとか超高そう!!」 「このボタンはなーに? わひゃあ!! 紐《ひも》のついた透明なカップが出てきたんだよ!!」 「それは緊急時《きんきゆうじ》用の酸素マスクだーっ!!」  超シリアスな信号を受け取ったのか、金髪ナイスバディのフライトアテンダントさんが血相変えて走ってくる。相変わらずあちこちのボタンをポチポチ押すのに夢中なインデックスに代わって、上《かみ》|条《じよう》がペコペコと頭を下げる羽目に。  インデックスに機内のマナーを一通り教えていると、彼女は首を傾《かし》げて、 「お金を取られるピコピコとお金を取られないピコピコがあるの?」 「だからその画面でゲームはできないって。ボタンの数がやけに多いのは有料チャンネルの罠《わな》だ。ほらほらー、無料の番組だってこんなに面白《おもしろ》いのが……ううっ!?」 「とうま。カブとか何とか細かい数字が並んでいるだけなんだよ」 「くそう。わざとつまらん番組を流す事で、有料サービスに目を向けさせるつもりだな」  ややげんなりしている上条の耳に、テレビに映るにしては華のなさすぎるおっさんが、世界の経済についてあれこれ持論を語っている。なんかユーロトンネル爆破の影《えい》|響《きよう》で市場にも色々な混乱が起きているらしい。  と、インデックスはおもむろに背筋を正すと、 「ところで、とうま。ひこーきのご飯はいつになったら届くの?」 「機内食? んー、夕食の時間は終わってるし、次の機内食は九時間後ぐらいじゃねえの? 周りの人|達《たち》は乗る前に食べてたっぽいし、遅めのご飯はないプランだから安いんだよ」 「……ッ!! !? ??」 「ノーッ! 衝撃《しようげき》を受けたのは分かったから思わず上条さんの頭に噛《か》みつこうとするなインデックス!! そういう仕組みなのだから仕方がないのだよ!!」  しかし夕食前に土御門《つちみ かど》からガスを喰《く》らって空港に運ばれたため、上条だってお腹《なか》はすいている。旅客機って売店とかないよなー……と辺りを見回すと、何か座席の群れの一番前の方に、フリードリンクコーナーの案内板があるのが分かる。  上条|当麻《とうま 》は静かに言った。 「インデックス。俺《おれ》は旅に出てくる」 「おっ、おにぎりの国!?」 「そんなに素敵《す てき》な穀物国家ではないが、とりあえずコーヒーぐらいはゲットしてこよう」  座席からすっくと立ち上がった上条は、フリードリンクコーナーへ向かう。スカイバス365は超大型の旅客機で、二つ一組の座席が縦三列にズラリと並んでいる。総勢五〇〇席を超える客室空間は、エコノミー、ビジネス、ファーストと三つのクラスによって、壁で仕切られている。さらに各座席スペースは一階と二階に分かれているため、実質的には二倍の容量を誇るというのだから、とんでもない話だ。  こうして見る限り、乗客は外国人が多い。NASAが作ったらしい厚さ三ミリでテカテカした素材の毛布を体の上に被《かぶ》せて居眠りしている人|達《たち》の大半は、日本の学園都市で営業活動を行い、帰国する途中のビジネスマンだろう。  上《かみ》|条《じよう》がいるのは一番後方にあるエコノミー。フリードリンクコーナーは、エコノミーとビジネスを区切る壁の部分に取り付けられているようだ。 (……あれも確かテロ対策だっけ?)  確か、液化爆薬を持ち込ませないように、イマドキの飛行機はペットボトルどころか歯磨《は みが》き粉のチューブも持ち込んではいけないらしい。その代わりに、航空会社側は無料のドリンクコーナーを設置する事で、『自由を奪われた』お客様をなだめようという訳だ。  ドリンクコーナーには、そこらのファミレスにでも置いてありそうな機材が置いてあった。あの、紙コップを置いてボタンを押すと、ジャーと飲み物が出てくるアレである。ただ、種類はそれほどない。コーヒーと紅茶とオレンジジュースと世界で一番有名な炭酸飲料の四つぐらいだ。コーヒーは『コーヒー』とあるだけで、産地とか苦味とか酸味とか、そういったこだわりはバッサリ省略されていた。ホットとアイスの選択すらない。 (まぁ、何もないよりはマシだけど、夕飯抜いてるからちょっとキツいかなー……っと?)  そこで上条の目が留まる。  縦に合体した紙コップタワーのすぐ近くに、紅茶のお供なのか、四角いクラッカーのようなものがたくさん置いてある。薄《うす》い塩味の利《き》いたそれは本来お茶を引き立てるためにあるはずなのだが……いっぱい食べればいっぱいお腹《なか》が膨《ふく》らむ事に間違いはあるまい。 (へぇー、最近の飛行機はこんなのもタダなんだなー。おっ、バターとかブルーベリーとか、上に乗っけるものも結構|揃《そろ》ってる。海外旅行は燃料費だなんだで伸び悩んでて、今はサービス戦争になってるって話は開いた事があるけど、こういうトコでも頑張ってるんだなー)  そういう事ならいただいておこう、今までそんなに意識してなかったけど、食べ物を前にすると急に胃袋がギリギリ訴えてきてるしな!! と上条はクラッカーに手を伸ばそうとしたが……そこでふと彼の動きがピタリと止まった。 「——、」  クラッカーの皿の横に、小さな箱が設置されている。  そして、クラッカーの皿にはフライトアテンダントさんの手書きらしき可愛《か わい》らしい字で、こんな言葉が書いてあった。  有料[#「有料」は底本では極太ゴシックPOP体] 。      3  九時間後。  結局、有料のクラッカーには手が出せず、空腹のままの上《かみ》|条《じよう》とインデックスを乗せた大型旅客機スカイバス365は、一度フランスの空港に着陸した。  燃料を補給したり、直行便がないために他《ほか》の空港を経由する……という事はありえる。しかし今回はそういう訳ではないらしい。  ポーン、という柔らかい電子音の後に、女性の声のアナウンスが流れる。英語や中国語など、複数の言語で同じ内容の説明を行った後、上条の耳にも日本語のアナウンスが聞こえてきた。 『——ユーロトンネル爆破事故の影《えい》|響《きよう》で、当機もフランス - イギリス間の物資|運搬《うんぱん》サービスに協力しております。乗客の皆様にはご迷惑をおかけいたしますが、荷物の追加積載が完了するまで、今しばらくお待ちください』  アナウンスを聞いていた上条は、座席にくっついている小さなテレビを操作しながら呟《つぶや》く。 「そういや、デカいトンネルが使い物にならなくなってるから、船や飛行機で荷物を運んでいるってニュースでも言ってたっけ」 「とうま、まだ出発しないの?」 「まぁ、困った時はお互い様だからなー」  窓の外は闇《やみ》に包まれている。日没後に飛行機に乗って、九時間|経《た》って日没後というのでは計算が合わぬ……ッ!! と上条の体内時計が訴えているが、それこそ地球規模の時差ボケマジックなのだった。  この窓からでは見えないが、おそらく旅客機の胴体の一部分がパカッと開いて、たくさんのフォークリフトがコンテナを積み込んでいる事だろう。 「とうまー。ビーフとフィッシュはまだなのー?」 「機内食はどちらか片方を選ぶのであって、いつの間にか両方とも一緒《いつしよ》に食べる事を前提にしてんじゃねえよ。まさか俺《おれ》の分まで食べる気まんまんなんじゃねえだろうな……」 「んんっ! あそこで作業服着たおじさんがサンドイッチ食べてる!!」 「メシ食いながら仕事するなんて、空港の人|達《たち》も大変そうだなぁ……って、何でケダモノ状態になってんだインデックス!? お前がここでどれだけ暴れた所でサンドイッチはワープしてきませんよッ痛って!! ……ん?」  バタバタと暴れる上条は、そこで何かが肘《ひじ》にぶつかった。  見ると、ついさっきまでなかったものが存在している。窓際《まどぎわ》の内壁の一部が四角く切り取られていて、それが車のダッシュボードのように、ひとりでにオープン済み。そして中には二〇本以上のデンジャラスなケーブル類が。  おや。  へんなものがかってにひらいたよ? 「……、」  上条はちょっと考え、それから全身を使って、バタム!! と蓋《ふた》を閉じる。  と、上《かみ》|条《じよう》|達《たち》の会話を聞いていたのか、通路を歩いていた金髪ナイスバディのフライトアテンダントさんが丁寧《ていねい》な日本語で話しかけてきた。 「申し訳ありません。お客様のご予定について最大限に配慮《はいりよ》させていただいているのですが」 「だっ、だっ、だっ、大丈夫《だいじようぶ》っす。別にクレームとかそういうのじゃないんで」  上条はパタパタと手を振り、慌てて否定する。  ごまかすように、彼は話題を変えた。 「それにしても、飛行機で日用品を運ぶっていうのは、割に合うものなんですか?」 「いえ、その……」  フライトアテンダントさんは言いづらそうな感じだった。 「ただ、当然ながら、わざわざ外国から輸入している物ですから、イギリスでは調達できない物も多いみたいですね。海底鉄道トンネルが封じられた事で、現在は船舶と航空に割り振っているようですが……」 「イギリスでは調達できない、ねえ……」 「英国は島国ですが、魚介類の半分近くは輸入に頼《たよ》っています。そうした物は、船でのんびり運んでいると傷《いた》んでしまいますから、飛行機を使う必要があるみたいです。あとは、そう、この便のコンテナだと……オートミールなんかも含まれていたような気がします」 「流動食《オートミール》?」 「ええと、病名までは分かりませんが……普通のご飯が食べられない人達のために、色々と調整された食品だそうです。フランスにある食品会社の付属施設でしか作られていないものらしいのですが」  色々大変そうだな、と上条は改めて窓の外を眺める。  今も飛行機の中にいろんなコンテナが載せられているが、当然ながら、必要のない荷物などないのだ。この荷物の追加作業の時間の分だけ、イギリスでは困っている人達がいるはずだ。  と、 「……しょくひん……」  ボソリとインデックスが言った。 「……しょくひん……食べ物……ひこーきのご飯……きないしょく……ビーフ……ビーフオアフィッシュ!!」 「ぐおおっ!! インデックス、夕飯抜きで空腹がマックスになっているのは分かったからとりあえず気を鎮《しず》めろ!! ご飯の時間まであとちょっとだ!!」 「あとちょっとってどのくらい!?」 「……一時間ぐらい?」 「——ッ!! !? ??」 「ばっ、馬鹿《ばか》|者《もの》!! 上条さんの頭はビーフ味でもフィッシュ味でもなガボッ!!」  肉食精神に支配されたインデックスに襲《おそ》われる上《かみ》|条《じよう》。フライトアテンダントさんが『すっ、すぐにお持ちします!!』と叫んで走り去るのがとても心苦しい。  空腹のインデックスに襲撃《しゆうげき》された上条は思わず叫んだ。 「こらインデックス!! お前が大暴れするから迷惑かけちゃっただろ!! というか機内食を一人だけ早弁状態って、相当のクレーマーですよ!?」 「そんな事を言われた所で私の空腹はすでに限界地点を三周ぐらい回っているんだよ!! もう一分一秒すら待てない切迫した状況を理解して欲しいかも!!」  インデックスはフライトアテンダントさんから去り際《ぎわ》にもらった笛のおもちゃ(多分フライトチケット料金とかで溜《た》まるポイントの景品みたいなもので、ボールみたいな形をしている)をぎゅむぎゅむ握ってぴーぴー鳴らし、気を紛《まぎ》らわせている。  と、そんなこんなで色々言い合っていた上条とインデックスだが、予想に反していつまで経っても金髪ナイスバディなフライトアテンダントさんは帰ってこない。  ? と首を傾《かし》げる上条の耳に、こんなアナウンスが聞こえてきた。 『——お待たせいたしました。追加荷物の搬《はん》|入《にゆう》が完了しました。これより当機は離陸《り りく》準備に入ります。乗客の皆様は座席に着席の上、シートベルトを着用してください』 「ん? そうか。離陸時は飛行機がナナメになるから、通路に立ってたりすると危ないんだよな。機内食を運ぶカートとかも金具で固定したりするみたいだし、ご飯はきちんと空を飛ぶまでお預けみたいだな」 「……、」 「まあ二〇分ぐらい経てば機体も安定するし、それまで我慢《が まん》すれば良いんじゃね? つて、あれ? インデックスさん、俯《うつむ》いてどうし——」  返事はない。  ただ、『ぐるる……』という獣《けもの》ライクな音が漏《も》れた。  イッコクもハヤくキナイショクをハコんでキてください!! と身の危険を感じた上条は念を送るが、無《レ》|能《ベ》|力《ル》|者《0》にテレパシーは使えない。  インデックスの歯が、カチカチと音を鳴らす。      4  スカイバス365は無事に離陸した。  飛行機の角度も安定し、乗客に対するシートベルトの制限も解かれる。  大型旅客機は、再び快適な天空のサービスを提供する。  と、そんな上条とインデックスの様子を、少し離《はな》れた所から観察している男がいた。  いや、呆然《ぼうぜん》としていた、と表現した方が正しいかもしれない。  男は通路に立っていた。  本来、その男は上《かみ》|条《じよう》|達《たち》のいるエコノミークラスの乗客ではない。余計な疑いを持たれぬよう、隣《となり》のビジネスクラスのチケットを取っていた。彼はビジネスクラスとエコノミークラスの間を分ける『壁』のエリア——つまり機内トイレを経由して、自然な挙動でエコノミークラスへやってきたのだが……。 (どういう事だ?)  男は疑問に思い、それから手帳を取り出した。  できるだけ手帳は見るなと、事前に念を押されていた。本当に重要な案件にぶつかった時だけ、再確認の意味で手帳を使えと。今がその時だと感じた男は、様々な単語や数字がバラバラに書かれたページを急いでめくる。  そこに記されているのは座席番号だ。  確認したが、間違いない。  あのツンツン頭の東洋人が座っている場所は、空席でなければおかしい。  男の仲間が、偽名を使ってチケットを取っているはずなのだから。 「……、」  手帳に書かれた座席番号を人差し指でなぞりながら考える男は、一つの答えを出す。 (くそ、キャンセル待ちで座席が埋まったのか……ッ!?)  あらかじめ座席を予約しておいても、搭乗|締《し》め切り後にも乗客がやってこなかった場合、その座席はキャンセル待ち扱いになり、他《ほか》の客へと移されてしまう事がある。あのツンツン頭の東洋人はそういう経緯で、空席でなければならない座席に着いているのだろう。  状況は分かった。  しかし、打開策までは浮かばない。 (どうする……)  いつまでも通路の中央に立っていては怪しまれる。男はゆっくりと通路を歩くと、ひとまずその奥にある階段を目指す。大型旅客機スカイバス365は二階建てだ。一度階段を使い別の階層に移動してから通路を引き返せば、『あの人、さっきも見たな』と不審がられる危険も滅る。  手帳を懐《ふところ》へしまい、通路を歩き、ツンツン頭の東洋人のすぐ横を通り過ぎながら、男は頭だけをフル回転させる。 (どうする。あの座席が使えなければ、『計画』を実行に移せないぞ)      5  機内食の時間は延び延びだ。  滑走路を離《はな》れた旅者機が大空を飛び、機体の傾きが安定しても、相変わらずフライトアテンダントさんはやってこない。……そもそも、機内食を前倒しする事なんて可能なのだろうか。もしかすると同《どう》|僚《りよう》や上司などに怒られたりしていないだろうか? 「うーん、心配になってきた。俺《おれ》、ちょっとフライトアテンダントさんの所まで行ってみるわ」 「私だってビーフオアフィッシュが心配なんだよ!!」 「ややこしくなるから、お前はそこでじっとしてろ」  そもそも、ガチで金髪ナイスバディのフライトアテンダントさんが説教|喰《く》らっていた場合、『やっ、やっぱり良いです、大丈夫《だいじようぶ》です!!』と止めに入る予定なのだ。そこへ空腹丸出しのインデックスがビーフオアフィッシュ! ビーフオアフィッシュ!! と怒涛《ど とう》のスローガンを放ったら、状況がメチャクチャになるに決まっている。  そんな訳で窓際《まどぎわ》の席からインデックスの膝《ひざ》の上を大きくまたぎ、やっとの事で通路へ出る上《かみ》 条《じよう》。行き先はエコノミーとビジネスクラスの間にある『壁』の区画……機内トイレやフリードリンクコーナー、機内食用のエリア、他階層への急な階段など、複数の設備が集まった場所だ。 (ううむ。マジで説教されてたらどうしよう……?)  と、ちょっとビクビクしながら通路を一直線に進み、『壁』の区画に入る上条。相変わらず、客席よりも薄暗《うすぐら》い空間だ。  少し辺りを見回してみるが、フライトアテンダントさんは見当たらない。 (ありゃ? こっちじゃなかったのか)  機内食の準備をしていると勝手に予測していたから、てっきりここにいるかと思ったが、どうやらそうではないらしい。  機内食をまとめているエリアらしき小部屋のドアも見つけるが、何となく、乗客が勝手にドアを開けて良いものか分からなかったので、踏《ふ》み止《とど》まってしまう上条。  とりあえずドアに耳を近づけてみるが、中で誰《だれ》かが作業しているような物音は聞こえない。 (他《ほか》のエリアの方を捜すっつーのもな……。別に迷惑かけてる訳じゃないなら、わざわざあちこちを歩き回ってまで、フライトアテンダントさんを追い掛ける事もないだろうし)  一度インデックスの所へ帰るか、と上条がきびすを返した時だった。 「きゃあっ!?」  いきなり甲高《かんだか》い声が聞こえたと思ったら、ドン、とぶつかるような感触があった。どうやら上条のすぐ横を通り過ぎようとした何者かを床へ突き飛ばしてしまったらしい。  見れば、例の金髪ナイスバディなフライトアテンダントさんだった。  何やら両手で紙束を抱えていたようだが、上条とぶつかった時に、盛大にぶちまけてしまったみたいだ。A4の大きな紙の表面にはワープロの細かい文字がズラリと並んでいたが、外国語なので上条にはサッパリ分からない。  そもそも、文章なんて読んでいる場合ではない。 「わっ! すみません、だいじょう——」  思わず頭を下げる一瞬前《いつしゆんまえ》に、フライトアテンダントさんが、ババッ!! と動いた。床に崩れた体勢のまま、ものすごい速度で辺りに散らばった紙をかき集める。  そして、金髪ナイスバディなフライトアテンダントさんはこう言った。 「み、見ました……?」  上条当麻《かみじようとうま》は素直に答えた。 「スカートの中は見えていません!!」 「?」  キョトンとするタイトスカートのナイスバディ。  どうやらそういう方面の心配をしている訳ではないらしい。 (??? じゃあ、何を『見ました?』なんだ……?)  今さらながら、フライトアテンダントさんが抱えている紙束へ目をやろうとする上条。  しかし文字を追うより早く、彼女は慌てて立ち上がった。 「もっ、申し訳ありません。機内食の方は、その、すぐにお持ちいたしますからっ!!」 「はぁ、ええと」  上条は何か言おうとしたが、その前に、フライトアテンダントさんはさらに『申し訳ありません!』と頭を下げて、そのままどこかへ行ってしまった。 (……何だったんだ……?)  上条は首をひねる。  彼にはインデックスのような完全|記憶《き おく》能力はない。だから、チラリと見ただけの紙切れの内容など、そう簡単には頭の中で反芻《はんすう》できない。  ただ、アルファベットの羅列《ら れつ》を見た上条が、わずかに覚えているのは、 (何だあれ? 飛行機の便名か?)  というだけだった。      6  スカイバス365は、機首から順に、ファースト、ビジネス、エコノミーと三つのクラスに分かれている。  しかし当然ながら、ファーストクラスよりもさらに先に、もう一つの区画がある。  コックピットだ。  正面や側面はおろか、天《てん》|井《じよう》にまでびっしりとボタンやスイッチで埋め尽くされた小さな空間には、四脚の椅子《いす》があった。前の二脚は操縦用、後ろの二脚は待機用だ。現在は機長と二人の副操縦士の三人が常駐しており、一つはスペアとして空いていた。 「管制からのレポートの出力、終わりました」  そう言ったのは、金髪のフライトアテンダントだった。  使っている言葉は、日本語である。  本来なら、コックピットに入るような人物ではない。それは単にモラルの問題ではなく、社の規則で入ってはいけないと記載されている。にも拘《かかわ》らず、フライトアテンダントがコックピットに足を踏《ふ》み入れている理由は単純。  今が緊《きん》|急《きゆう》事態だからだ。 「それが、航空会社に届いた脅迫《きようはく》メールの全文ってヤツか」  呟《つぶや》いたのは、白を基調にした軍服のようなものを着込んだ大男。  この旅客機の機長を務めるパイロットだ。  短く刈った黒髪に、わずかに浅黒い肌。  その言葉が示す通り、彼は日本人だった。  そして、彼が声をかけた相手は、フライトアテンダントではない。  ヘッドセット越しに繋《つな》がっている、日本の学園都市国際空港の管制センターだ。 『最悪な内容だろう?』  航空警備員とやらの言葉に、機長は低く呻《うめ》いた。 「確かに、最悪だ。こんな要求を呑《の》むヤツはいない」 『ただし、その場合はその機に「攻撃《こうげき》」が加えられる恐れがある訳だ』  航空警備員は苦い口調で続ける。 「敵は……フランス系の反イギリス組織、ねぇ」 『元々、歴史的にはイギリスとフランスは敵になったり味方になったりした訳だが、どうやら彼らはその内のマイナス的な感情のみを凝縮《ぎようしゆく》させているらしい』  どういう経路で情報を集めているか知らないが、学園都市の航空警備員がもたらす情報はやたらと正確だ。 『今回のユーロトンネル爆破も、連中は「全《すべ》てはイギリスが行った自作自演の謀《ぼう》|略《りやく》。フランスは一方的に被害を受けたから、イギリスにも同等の損害を受けてもらう」と考えているらしい』 「それでイギリス側の空路を徹底的《てつていてき》に潰《つぶ》す……って訳か」  ナメた要求だ、と機長は低い声を出す。  ユーロトンネルは、フランスにとっては『重要な陸路の一つ』に過ぎないが、イギリスにとっては『他国に繋がる唯一の陸路』だ。イギリス側に、進んであのトンネルを爆破する理由などないはずなのだが……。 『脅迫メールを送った人物そのものは、フランス当局の手で逮捕されているが、どうも実行犯は別にいるらしい。もっとも、取調室の彼はだんまりで、普通のやり方じゃ情報を引き出すのは難しそうだがな』 「時間|稼《かせ》ぎされると面倒だな。パリからエジンバラまでは、四〇分から一時間程度で着く」  機長は操縦桿《そうじゆうかん》を握りながら、静かに告げた。 『テロリストが本気なら、その間に動きがある可能性が高い』 「しかし、本当に?」  機長は思わずそう返した。 「これから落ちる機に、ヤツらの仲間が乗っているだって?」 『彼らの第一目標は、そっちへ送った脅迫《きようはく》メールにある通りだろう。ただし、要求が果たされなかった場合に自殺するぐらいの覚悟はあると考えた方が無難だ』 「……、」 『無事に要求が呑《の》まれても、呑まれずにスカイバス365が落ちても、いずれにしてもテロリストが目標とするダメージは与えられる。なら、どちらの結末にしても、彼らにとっては「成功」という扱いなんだろうな』 「……最悪だな。今すぐパリの空港に引き返したい気分だ」 『機を急旋回させれば、不審に思ったテロリストが即座に「動く」リスクが生じる。かと言って、旋回を気づかせないように「大回り」をするほどの燃料の余裕はない。……航空産業も原油高の影《えい》|響《きよう》を受けているからな。その辺の事情は、あなただって分かっているはずだが?』 「結局、テロリストが動く前に、こちらで潜伏者《せんぷくしや》を見つけるしかないって訳か」  クソッたれ、と機長は呟《つぶや》く。  スカイバス365は客席エリアを二階構造にした、世界でも稀《まれ》な大型旅客機だ。乗客は五〇〇人以上。一人ずつチェックするだけで『一時間』のリミットは過ぎてしまう。いや、事情|聴取《ちようしゆ》もできず、ただ遠方から観察するだけで犯人を特定するなど、警察でも難しいだろう。 「……こっちは素人《しろうと》の集まりなんだぞ」 『それでもやってもらうしかない。学園都市の空間移動系能力者でも使えれば話は別だが、現状、その機内に警察機関の人間を投入する事はできないだろうからな』  航空警備員の言葉に皮肉はない。  なまじ、『具体的な方法』としてテレポートという単語が使えるからこそ、学園都市の人間の言葉には、苦渋しかない。 『後は……そうだな。分かっているとは思うが、くれぐれも、こういう問題が生じている事を乗客には漏《も》らすなよ。逃げ場のない機内が混乱と暴動で地獄になるからな』 「分かってる。これでも機と乗客の命を預かっている身だからな。客にすがって自分の盾にするほど、腐っちゃいねえさ」  機長がそう言った時だった。  ヘッドセットに、航空管制官以外のチャンネルが割り込んだ。  それは機内からだ。 『緊《きん》|急《きゆう》です。動きがありました。おそらく例のテロリストです!!』 「ッ!?」  乗務員の言葉に、機長の体が強張《こわば 》る。  報告はさらに続いた。 『負傷者一名。意識はあります。背後から突然|襲《おそ》われたらしく、襲撃者《しゆうげきしや》の詳細は見ていないとの事ですが。どうしますか、機長!?」      7  インデックスの空腹がマキシマムだ。 「きーないーしょくー、きーないーしょくー。びーふおあふぃーっしゅー……」 「……すぐ横からひしひしと感じるこのプレッシャー。隣《となり》の座席にかしこまった顔のライオンが座っているニュアンスなのですが、上《かみ》|条《じよう》さんは一体どうしたら良いのですか?」 「ビーフオアフィッシュがいつまで経《た》ってもやってこないのに加えて、すぐ近くのブルジョワジーが有料のクラッカーをボリボリ食べているので私の胃袋がグラグラと煮えているんだよ」  そう言われても土御門《つちみ かど》に財布を奪われたからどうにもならんしなー、荷物にはイギリス通貨のポンドしか入ってないし……と頭をボリボリ掻《か》いていた上条、そこでピタリと動きを止める。 『?』と首を傾《かし》げるインデックスに、上条は呟《つぶや》く。 「……待てよ。この飛行機は学固都市発イギリス行きなんだから、もしやイギリスのお金も普通に使えるのでは……?」 「ッッッ!! !? ??」 「ノォ!! インデックスさんのお怒りはごもっともですが、ここで俺《おれ》の頭蓋骨《ず がいこつ》を噛《か》み砕いたら有料のクラッカーは永遠にやってこないぞ!!」  ガパーン!! と目の前で大きく開いた猛獣の口を、土壇場《ど たんば 》で牽制《けんせい》する上条。  かろうじて命を繋《つな》ぎ止めた彼は、席を立ってフリードリンクコーナーへ。 (……っつーか、さっきからウロチョロしてるなー俺。不審者と思われてないだろうか)  いらぬ心配をする上条だが、通路を歩きながらあちこちを見回してみると、長時間座席に座るのに疲れた人達が簡単なストレッチをしていたりと、結構通路に出ている人も多い。座席にはマッサージチェアとしての機能もあるが、所詮《しよせん》は一番安いエコノミークラス。全身をくまなくほぐすほど高性能ではないようだ。  エコノミーとビジネスクラスの間を分ける『壁』の区画に、フリードリンクコーナーはある。有料クラッカーの横に置かれた透明な箱には、いろんな国の紙幣《し へい》が収められていた。小さな黒板に、各国の通貨レートが書かれている。どうやら、イギリスのお金も通用するらしい。 (えーと……三ポンドで一〇枚もらえるのか。っつか、三ポンドって何円だ?)  外国のお金なので、いまいち物の価値が分からなくなっている上《かみ》|条《じよう》。高いか安いかも分からないまま紙幣を投入してしまう。  お金を収めた上条は、透明なフィルムでパッケージされた一〇枚入りのクラッカーを掴《つか》む。  と 「……、あれ?」  インデックスの元へ引き返そうとした彼は、ふと足を止めた。 『壁』の区画には、フリードリンクコーナーの他《ほか》にも、機内トイレや清掃用具を入れるスペース、機内食を保管したり温めたりする小部屋など、いろんな設備が集まっている。  そんな中、一枚のドアが半開きになっていた。  先ほどは閉まっていたはずのドア。  機内食スペースの小部屋の扉だ。 (……こういう飛行機のドアって、半開きにしておいて良いんだっけ?)  旅客機は離着陸時《りちやくりくじ》に機体が大きく傾くし、乱気流などで揺さぶられる事もある。そういった時、ドアが半開きだと急に大きく開閉して指を傷つけたり、ドアの金具を壊《こわ》してしまったりといったトラブルを起こす……とか、ドキュメント番組で観《み》た事があるのだが。 「閉めといた方が……良いのか?」  何気なく呟《つぶや》き、ドアの方に近づく上条。  まぁ、閉めるだけなら怒られないだろうし、とノブを掴《つか》む直前、上条の眉《まゆ》がわずかに動いた。  見たのだ。  半開きになったドアの向こうに広がる光景を。  部屋自体は狭かった。どうやらたくさんの機内食を温めるためのスペースらしく、金属製の棚の上に、たくさんの電子レンジがボルトで固定されていた。  問題なのはそこではない。  壁一面に固定されている電子レンジに、何か赤黒いものがべったりとこびりついていた。幅は一五センチ程度、長さは五〇センチ程度。少し考えて、上条は、それが『何者かが汚れた手を壁につけて、立ち上がろうとしている』ように思えてきた。  赤黒いものの正体は何だろうか。  機内食を温めるスペースなのだから、何らかのソースやシチューなどがこぼれたのかもしれないが……。 「見てしまいましたね」  不意に、背後からそんな声が聞こえた。  女性のものだった。  上《かみ》|条《じよう》が振り返ると、金髪ナイスバディのフライトアテンダントさんが立っていた。  申し訳なさそうな顔で、彼女はもう一度言った。 「その血痕《けつこん》、見てしまいましたね」  彼の知らない事まで告げるフライトアテンダントさん。 「これは——」  上条は何かを言おうとしたが、言葉はロから出なかった。  ゴン!! という音が聞こえた。  それが、自分の腕をねじられた上で、床に体を倒された音だと気づくまでに、上条は一秒以上の時間を必要とした。  ほとんど馬乗りになったフライトアテンダントさんは、うつ伏せに倒れた上条に耳を寄せ、彼にしか聞こえない声でこう謝った。 「(……すみません。武器を持ち込めない機内で各種トラブルに対応するために、乗務員は全員この手の格闘《かくとう》マニュアルを叩《たた》き込まれているんです。訓練程度ですけどね)」 「なっ、なに、何が……?」  目を白黒させる上条にそれ以上言わず、フライトアテンダントさんは上条の腕をひねるのとは別の手で、無線機のようなもののスイッチを入れた。 「機長、|緊《きん》|急《きゆう》です」  フライトアテンダントさんは日本語で言う。  ひどく冷徹《れいてつ》で事務的な口調だけだった。 「血痕を拭《ふ》き取る前に、乗客の一人に確認されました。彼に機内で進行中の『事件』について知られてしまったと判断しますが、対応はいかがいたしましょう」      8  上条を組み伏せた金髪ナイスバディのフライトアテンダントさんは、どうやら誰《だれ》かが来るのを待っているらしかった。  空白の時間が続く。  その間に、フライトアテンダントさんはこう言った。 「テロリストです……」 「フライトアテンダントさんが!?」  ちっ違います!! と金髪ナイスバディは慌てて否定する。 「機内に潜伏《せんぷく》しているらしい、という情報を空港の管制から伝えられました。ある要求が呑《の》まれない場合、犯人はスカイバス365の構造的な欠陥を突いて、この機の着陸を失敗させる——つまり、墜落《ついらく》、炎上させると」 「……マジかよ」 「あなたが見た血痕《けつこん》は、私の同《どう》|僚《りよう》の添乗員のものです。いきなり背後から襲《おそ》われたらしくて、おそらく、それもテロリストによる犯行だと」 「まさか、俺《おれ》が犯人とか考えてるんじゃないだろうな……?」  嫌《いや》な予感がした上《かみ》|条《じよう》だったが、どうやらフライトアテンダントさんは首を横に振ったようだ。もっとも、うつ伏せの上条の上に馬乗りになっているので顔は見えないのだが。 「そこまでは考えていませんが……。しかし、こういった情報を、他《ほか》のお客様へ伝えられては困るんです。ただでさえ危険な状況なのに、そんな情報が広まってしまえば、逃げ場のない機内で大パニックが起こります。多くの血が流れる危険もありますし、最悪、そのパニックが犯人を刺激してしまったら……」  口調は困り果てているようだった。  色々教えてくれたのも、負い目があるからだろうか。  護身術のようなもので上条を完全に封じているにも拘《かかわ》らず、彼女の方が劣勢に思えた。 「具体的に、どうするつもりだ」 「それは……」  彼女が言い淀《よど》んだその時、増援は来た。  上条の、ではなく、フライトアテンダントさんの、だが。  そいつはかなりの大男だった。白い軍服みたいな格好をしているから、おそらくパイロットなのだろう。  どうやら機長らしい大男は、床に潰《つぶ》された上条の顔を見るなり、日本語でこう言った。 「……他の客から切り離《はな》すしかねえか」 「し、しかし、そこまでやってしまって良いのでしょうか? 確かに私|達《たち》には乗客の安全を守る義務がありますが、そのためにお客様を隔離《かくり 》するほどの権限はないはずです」  上条を組み伏せた張本人である金髪ナイスバディなフライトアテンダントさんの方が、何やら戸惑っているようだ。  対して、機長の方は揺るがない。  わずかな苦渋が見え隠れするが、それで意見まで曲がるようには思えない。 「適当に口止めして、座席に帰せば済む話か? こいつは絶対に騒《さわ》ぐ。そうなったら機内は大パニックだ。……お前だって分かっているから、押し倒して指示を仰いだんじゃなかったのか」 「……、」 「事態が収束するまで、こいつには留《とど》まってもらうしかない。協力の謝礼として、フライト料金はタダにする。それでも騒ぐようなら、会社の弁護士部門に任せるしかないな」 「ちょ、ちょっと待てよ!!」  上《かみ》|条《じよう》は途中で割り込んだ。  うつ伏せに倒され、後ろ手に片腕を極《き》められながら、それでも彼は大声で言う。 「テロリストがいるかもしれないって話は聞いたけど、それが本当だとしたら、こんな事をしている場合じゃないだろ!? アンタ達《たち》だけで確実に犯人を見つけられるのか? 少しでも戦力は多い方が良いだろ。だったら俺《おれ》も——ッ!!」  言いかけた上条の言葉は、機長の舌打ちで途切れた。  彼は、フライトアテンダントさんを一度だけジロリと睨《にら》み、それから再び上条の顔を見る。 「……そういう事を言いかねねえから、ここでお前の動きを封じているんだよ」 「何だって?」 「良いか。この機には乗客だけで五〇〇人以上いる。その中に紛《まぎ》れ込んだテロリストは、その全員の命を握っている。こんな最悪な状況で、お前みたいな素人《しろうと》にぴーちくぱーちく騒《さわ》がれて、好き勝手に動き回られちゃあ困るんだよ」  ケンカを売るような言い方に思わずカッとしかけた上条だったが、機長はそこへさらに冷たい言葉を言い放った。 「お前はその五〇〇人の命を預かる事ができるのか」 「……ッ!?」 「俺には機長として、それを行う義務がある。だからそのためなら、この件が大きくなって会社をクビにされても、必ず乗客全員の命を守るために考え、行動する。協力なんて言葉は、そこまでの覚悟をもって放つモンだ。お前にそれはできないだろうし、できる必要もない」  機長は身振りでフライトアテンダントに『どけ』と指示を出す。  それは上条を解放するためのものではない。  別の場所に、上条を隔離《かくり 》するためのものだ。 「ちょうど、すぐ近くの機内食の加熱スペースが空いているな。そこに放り込んでおけ。のちに大きな問題に発展した時は、俺のせいにしてもらって構わない」      9  ドアが閉められ、何らかのロックがかかる鈍い音が響《ひび》く。  電子レンジと血痕《けつこん》しかない部屋で、上条は金属棚の適当な段に腰を引っ掛けるように体重を預ける。  機長が去って、フライトアテンダントさんの手でこの小部屋に放り込まれる寸前に、彼女は申し訳なさそうに頭を下げてきた。 『す、すみません。機内の混乱を避《さ》けるために、どうしても必要な処置なんです』  せめて置かれた状況の説明ぐらいはするべきだ、と彼女は考えたのだろう。  上《かみ》|条《じよう》は、フライトアテンダントさんの言葉を思い出す。  どうやら『テロリストが入り込んでいるらしい』という情報は相当正確なもののようだった。  航空会社に届いた脅迫《きようはく》メールの内容は次の通り。  スカイバス365モデルの旅客機には、構造的な欠陥が存在する。我々はいくつかのテストを行い、それを実証した。イギリスの大手航空会社四社のマスターレコーダーを破壊《は かい》しなければ、学園都市発エジンバラ行きのスカイバス365の欠陥を突き、確実に機を落とす。 『マスターレコーダー?』 『乗客のフライトチケットや、荷物の荷札などを集中管理するコンピュータです。それがないと、航空業務は完全にストップしてしまいます。手作業でどうにかなる情報量でもありません』  具体的な破壊方法については、脅迫メールに添付されていたコンピュータウィルスをマスターレコーダーに感染させる事、とあるらしい。 『ネットワークに繋《つな》がった状態でウィルスに感染すると、マスターレコーダーのデータを完全に破壊した上で、破壊完了のログファイルを大手ブログのコメント欄へ一斉に送りつける機能があるそうです。ログの形式さえ解析できれば「ダミーのログ」を放って、マスターレコーダーが壊《こわ》れたように装《よそお》う事もできるそうですが、問題のログは暗号化されていて、解析に数日かかるらしいです』 『そう』とか『らしい』とかいう言葉が多いのは、おそらくそっちの分野についてはフライトアテンダントさんも不慣れだからなのだろう。 『……構造的な欠陥ってのは?』 『分かりません。ですが、脅迫メールに記載されていた便名を改めて調査してみたところ、この機と同型のスカイバス365モデルの内、パリ発モスクワ行き5991便、ニース発ニューヨーク行き4135便、マルセイユ発ペキン行き7558便で……いずれもフライト中に一五秒間ほどエンジンが停止していた事があったそうです。各々《おのおの》の件は部品単位で分解して調査を行ったそうですが、特に原因らしい原因は見当たらず、現在もそのまま使用されているようで』  以前の三機は、テロリストによる予行練習。  そして今回が本番。  捜査当局はそういう風に解釈しているらしい。 『じゃあ、さっきの血痕《けつこん》は? 確か、同《どう》|僚《りよう》が襲《おそ》われたとかって話だったけど』 『真意までは……。そもそも、機内のテロリストがどういう手順で「欠陥を突く」のかも判明していませんから。でも、もしかすると、「計画」に必要な事なのかも……』  ドアを閉める直前の彼女の表情には、疲れの色があったように思えた。 「……テロリストの目的は、イギリスの空路の完全|封鎖《ふうさ 》、か」  誰《だれ》もいない小部屋で、上条は思わず呟《つぶや》いた。  要求を呑《の》めばマスターレコーダーの完全破壊、拒めばスカイバス365の墜落《ついらく》。いずれにしても、イギリスの航空業界には大打撃《だいだ げき》だ。  まして、ユーロトンネルという『唯一の陸路』を潰《つぶ》された現状で、そんな事になれば……。 (となると、やっぱり『陸路』もテロリストが関《かか》わっているって事なのか……?)  上《かみ》|条《じよう》は少し考えたが、やがて首を横に振った。  情報が何もない状況で、素人《しろうと》があれこれ考えた所で真実が分かる訳もない。  狭い小部屋に放り込まれた、という現状についても、 (……客の扱いとしちや最悪の一言だけど、でもまぁ、確かに五〇〇人の命を抱えられるかって尋ねられると、厳しいよなぁ……)  上条は、ふっと肩の力を抜いた。  次にドアが開く時には、良い知らせでもあるだろうか、とポジティブに考える事にする。      10  スカイバス365は機首の方から順番に、ファースト、ビジネス、エコノミーの三クラスに分けられる。さらに客席は二階建ての構造になっているので、合計六つの区画で成立する訳だ。  一階と二階を行き来するための階段は、各クラスを隔《へだ》てる『壁』のエリアにある。『壁』と言っても厚さは七メートル以上あって、そこには機内トイレやフリードリンクコーナーなど、小さな設備が集まっていた。  そんな『壁』のエリアの中に、とある一つのハッチがある。  貨物室に繋《つな》がる、防火用のハッチだ。  スカイバス365の貨物室は、客席一階のさらに下に広がっている。本来、客席と貸物室を繋ぐ必要性はないのだが、万が一貨物室で火災が発生した時に、消火活動ができないのでは墜落《ついらく》を待つだけだ。なので、緊《きん》|急《きゆう》用のハッチが用意されている訳だが……。 「……、」  男はハッチの前で立ち尽くしていた。  ピー、という小さな電子音が、男の行動を拒絶する。  彼の手にはカードキーがあった。  わざわざフライトアテンダントを背後から襲《おそ》ってまで手に入れた、カードキーだ。 (……くそ)  もう一度、男はカードキーを読み取り機のスリットに挟み、一直線に下ろす。  だが、やはり聞こえるのは先ほどと同じ、拒絶の電子音だ。 (ちくしょう。ここが開かなきゃどうにもならないっていうのに……)  男は喉《のど》から、呻《うめ》きに似た音を漏《も》らす。  彼の手には、黒い色の携帯電話があった。そこに、『必要なプログラム』は全《すべ》て入っていた。後は携帯電話の下部コネクタにケーブルを繋《つな》ぎ、このスカイバス365に『必要なプログラム』を流せば、『構造的な欠陥』を突いたテロの準備は整うはずだった。  そのための『プログラムを流すポイント』は、本来ならエコノミークラスの空席だった。仲間が偽名を使って座席を確保しているはずだったが、そこはツンツン頭の東洋人がキャンセル待ちで陣取ってしまっている。  腕力を使って強引に退《の》けさせる事もできるが、下手に暴れれば一〇〇人単位の乗客を一斉に敵に回す羽目になる。  もうこの方法は使えない。  よって、『計画通りに行かなかった場合の予備プラン』に計画を移行するため、どうしてもこのハッチを開けなくてはならなかったのだが、 (くそ、くそ、くそっ!! やっぱりフライトアテンダント程度のセキュリティ権限じゃ、このハッチは開けられないか。かといって、もっと権限の高い操縦士クラスの人間は全員コックピットだ。あそこへ殴《なぐ》り込みをかけられるようなら、最初っからスカイバス365の構造的な欠陥を突く、なんて回りくどい手を使う必要もねえし……)  未練がましく、男は『壁』のエリアの出口方向……エコノミークラスの通路の方へ目をやる。そもそも、あそこにツンツン頭の東洋人さえいなければ、フライトアテンダントを襲撃《しゆうげき》するなどという『目立ちすぎる行動』に出る必要もなかったはずだったのだが……。 (ちくしょう。そもそも貨物室の『アレ』を使うなんて、最悪の事態だ! あの座席さえ空いていれば、もっともっとスマートに事を運ばせられたのに……ッ!!) 「……あれ?」  と、そこで男は思わず声を出した。  いない。  機内トイレでも使っているのか、問題の座席に座っているはずのツンツン頭の少年がいない。しかも、その連れ合いらしき銀髪|碧眼《へきがん》の少女も、席を立って通路でウロウロしている。  チャンスだ、と男は思った。  貨物室の『アレ』を使わずにスカイバス365を制圧するための、ラストチャンス。  男はポケットから手袋を取り出す。このまま通路を進むと、あの銀髪の少女とぶつかる。ここは一度階段を使って別の階層へ行き、そこの通路を経由して、少女の後ろを回り込むように問題の座席へ近づく方が良さそうだ。      11  上条当麻《かみじようとうま》が帰ってこない。  少年及び有料のクラッカーを待っていたインデックスは、ついに空腹に耐えられず席を立つ。  捜しに行こう。  もしかしたら、とうまは美味《おい》しいのを一人占めしているかもしれないし。  ……などと考えていたインデックスだったが、早々に探索は難航する。上《かみ》|条《じよう》が直線の通路を歩いて、『壁』となるブロックへ入っていったはずだ。大した距離《きより 》ではないのだが、何故《なぜ》か上条を発見する事ができない。 「?」  首を傾《かし》げつつも、来た道を引き返すインデックス。  と、ここでも彼女は足を止める事になる。  上条|当麻《とうま 》の席に、他《ほか》の誰《だれ》かが座っている。  地味な色合いのスーツを着た、色白の男だった。歳は二〇代前半だろうか。背丈はそこそこ。フランス語で書かれた新聞を大きく広げているため、顔の下半分が隠れていて、人相は良く分からない。  座席を間違えているのかな、とインデックスは思った。  彼女には完全|記憶《き おく》能力がある。インデックスの方が間違えているという事はない。  なので、インデックスはためらいなく自分の席に座ると、隣《となり》で新聞を広げている男に言った。 「そこはとうまの席だよ」  声に、ピクリと新聞男はわずかに肩を動かした。  改めて確認すると、彼は片手で新聞を広げていた。もう片方の手は空いている。新聞に隠されていたその手の行方を目で追ってみると、何やら黒っぽい色のケータイデンワーを握っていた。同じく新聞に遮《さえぎ》られていた男の膝上《ひざうえ》には、デンワーのパーツなのだろうか……細いケーブルのようなものや、爪切《つめき 》りのようなものがあって……。 「……くそ。何で一二〇秒も待てねえんだ」  呟《つぶや》く声はフランス語だった。  インデックスがキョトンとした顔で、次の言葉を放つ前に、男の方が動いた。  男は広げた新聞を畳《たた》んで膝上に載せると、彼女に向けて、さりげない調子で手を差し出す。  その手には、何かが握られていた。  鋭く尖《とが》った物が、他の乗客には見えないように、インデックスの脇腹《わきばら》に押し付けられていた。 「空港のセキュリティは、基本的に金属探知をメインに行う」  男はフランス語でそんな事を言った。 「だから、意外に気づかない。……動物の骨を削って作ったナイフだって、内臓を刺せるし動脈を切る事もできるっていう、簡単な事実がな」  と、ひとまず目撃者《もくげきしや》の動きを封じた男だったが、 (……最悪だ。一番最初の一手で間違えてから、何一つ計画通りに進まない!!)  この状況、男にとってチェックメイト寸前である。  すぐ隣《となり》で固まっている少女が大声で騒《さわ》いだら、それでおしまいなのだ。この少女を殺す事はできるが、ここでそれをやってしまえば、最低でもエコノミークラスの乗客一〇〇人以上を一気に敵に回す羽目になる。そうなれば、正義感からの行動というよりは、パニックを起こした人の群れに巻き込まれるだろう。小さな刃物一本でどうにかなる状況ではない。 「……何してるの?」  隣の少女が言う。  男に答える義理はないが、ほとんど独り言のような声で彼はこう告げた。 「プログラムを流す。携帯電話のデータ通信機能を使って不時着安定装置に干渉できるようにするためのプログラムだ」 「ふじちゃく?」  眉《まゆ》をひそめる少女を無視して、男は窓際《まどぎわ》の座席の横……窓のすぐ下にある壁に手をやる。丸めた針金を引き延ばし、壁に空いた隙間《すきま 》に滑《すベ》り込ませると、そのまま横へ動かしていく。まるでカッターで切り取るように、一直線のラインが生まれる。  男がそのラインに爪《つめ》の先を当て、手前に引くと、まるで自動車のダッシュボードのように蓋《ふた》が開いた。その先にあるのは、二〇本以上のケーブル類だ。 「要求が無事に呑《の》まれれば、こいつを使う必要はなくなる。そうだ、俺《おれ》だって好きでこんな事をやっている訳じゃ……」  言いかけた男の言葉が、いきなり途切れた。  携帯電話の下部コネクタから伸びたケーブルを、旅客機の壁の中にあるメンテナンス用ケーブルに接続する手はずだったのだが、それが上手《うま》くいかない。ケーブルとケーブルを繋《つな》ぐコネクタに、小さな亀裂《き れつ》が走っているのだ。  カチャカチャガチャガチャ、というプラスチック同士の擦《こす》れる音だけが神経質に響《ひび》く。男の眉間《み けん》に皺《しわ》が寄り、時折舌打ちが混じる。しかし何度試しても同じだった。  ケーブルは繋がらない。プログラムは流せない。 「あれ、それはとうまが」  隣の少女が何か言っていたが、男は聞いていない。 「くそっ!!」  男がフランス語で叫ぶと、周りにいた乗客|達《たち》がチラリとこちらを見た。男は壁から開いた蓋を乱暴に閉めると、隣の少女に動物の骨のナイフを突き付けたまま、静かに天《てん》|井《じよう》を見上げる。  どうする。  エコノミークラスの座席からプログラムを流す事はできない。構造的な欠陥を使った『交渉』はもう続行できない。  やはり、この方法は使えない。 (……最悪だ。もうこれで、計画の意味は半分近く消えたと言っても過言じゃねえ。あと残された方法は……やっぱ、使いたくねえが、『アレ』に頼《たよ》るしかねえか……ッ!!)  そこまで考えて、男は気持ちを新たにした。  エコノミークラスの座席はもう使えない。となると、やはり貨物室へのハッチをこじ開ける方法を探すしかない。フライトアテンダント以上のセキュリティ権限を持つカードキーを手に入れる方法を、残りの短い時間で考えるべきだ。  さらに、男にはもう一つの問題がある。  すぐ隣《となり》で身を強張《こわば 》らせている少女。  このまま解放すれば、テロの進行を周囲へ知らせてしまう事になる。どうにかして、完全に黙《だま》らせる必要がある。  やるしかない。  男はゴクリと喉《のど》を鳴らすと、膝上《ひざうえ》の工具や携帯電話をポケットにしまい、フランス語の新聞で刃物を隠すようにしながら、すぐ隣の少女を促す。 「立て。少しでも逆らえば刺す」  計画は、壊《こわ》れ始めていた。  その首謀者《しゆぼうしや》たる男自身にすら、事態の制御ができなくなるほどに。      12  たくさんの電子レンジが壁際《かべぎわ》に並ぶ機内食の加熱スペースで、上《かみ》|条《じよう》はピクンと顔を上げた。 (……足音?)  ふと、ドアの向こうから、そういう風に聞こえる音があった。  一つではない。  最低でも二つ。  一体|誰《だれ》だろう、と思う上条の耳に、さらなる音が届く。  ぴーぴー、という笛のような音だ。 (……これ、インデックスの?)  確か、彼女がいつまで経《た》っても機内食の時間にならない事にイライラしていた時、金髪ナイスバディのフライトアテンダントさんから安っぽいボールのようなおもちゃをもらっていた。おそらく何らかの景品であろうそれは、握ると笛の音が出る仕組みになっていたのだ。  自発的にぎゅむぎゅむ握っているとは思えない。規則的な音は、おそらく衣服のポケットに入れたおもちゃが体と擦《こす》れて、勝手に鳴っているだけだろう。  あのおもちゃが航空会社のポイント景品か何かなら、別にインデックスだけが持っているとは限らない……のだが、何となく簡素なワンピースを着ている彼女の事を連想してしまう上《かみ》|条《じよう》。  もし本当にインデックスだとしたら、彼女と一緒《いつしよ》にいる人物は誰《だれ》だろう? 金髪ナイスバディのフライトアテンダントさんでも捕まえているのかもしれない。  しかし、そこで上条はふと、別の考えを思い浮かべた。  楽観的な意見に、自ら冷や水を浴びせるような思考だ。  待てよ、と彼は思う。  本当に、そんなほのぼのしたものなのか。  危険ならあるではないか。  そもそも、上条|当麻《とうま 》はどういう理由でこんな所に放り込まれているというのだ。 (いや、そんな訳が……)  上条は否定しようと思ったが、そこで二つの足音は止まった。  ぴーぴーという笛の音も止《や》む。  どこかの扉が開く音が聞こえる。  ここは『壁』となるエリアだ。他《ほか》の乗客から目撃《もくげき》されるような事はない。  そして、 「入れ。刺されたくなかったらな」  声はフランス語で、上条に内容は分からなかった。  しかし野太い男の声は、どう考えてもサービス業の添乗員のものではなかった。 (ふざけんなッ!?)  上条は思わず叫んでドアに飛びつこうとしたが、下手《へた》に騒《さわ》いでも、確実にドアを破れなければ犯人を刺激するだけだ。  ドアは金属製ではないようだが、単に体当たりするだけで壊《こわ》せるようなものではなさそうだ。カギは電子ロックで、針金|如《ごと》きでどうにかなるとも思えない。  そうこうしている間にも、ドアの向こうでは動きがある。  恫喝《どうかつ》している者とされている者は、すぐ近くの別の小部屋に入ったらしい。 (くそっ!!)  上条は軽く周囲を見回し、機内食を運ぶためのアルミ製のカートに目をつける。乳母《うば》|車《ぐるま》を四角くしたような物だ。  乱暴にカートのハンドルを掴《つか》むと、その矛先《ほこさき》をドアへ向ける上条。  弁《べん》|償《しよう》とか何とか、そんな事を考えている余裕はなかった。 「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」  叫び、思いきり前進する。  そして激突。  グッシャア!! という凄《すさ》まじい音が炸裂《さくれつ》して、アルミ製のカートの前面が大きく潰《つぶ》れた。しかしドアの方もただでは済まなかった。ロック部分がバチンと弾《はじ》け、蹴破《け やぶ》るようにドアが大きく開かれる。勢いに負けて、上《かみ》|条《じよう》は壊《こわ》れたカートごと通路に転がり出た。  上条はカートを放り、辺りを見回す。 『壁』となるエリアには複数の小部屋があるが、閉じているドアは一つしかなかった。  ノブを掴《つか》み、勢い良く開け放つ。  掃除用具入れだった。モップが数本と、プラスチック製のバケツが入った小さなスペース。  そこに、見知った顔があった。  インデックスだ。  彼女は仰向《あおむ 》けに転がされており、そこに見知らぬ男が馬乗りになっていた。男の両手には用具入れにあったであろうゴムホースがあり、それがインデックスの細い首に巻き付いている。  何をしているのか。  考えるより早く、上条の両手は動いていた。 「っ?」  インデックスの首を絞めていた男は、その行為に夢中になっていたのか、自分の襟《えり》の後ろを上条に掴まれるその瞬間《しゆんかん》まで、自分の危機に気づかなかったようだ。  上条は男のスーツを掴んだまま、勢い良く体を回す。  遠心力の力を受けた男の体が、掃除用具入れから外へと放り出された。床に落ちる事なく、そのままノーバウンドで壁に激突する。  ゴドン!! という轟音《ごうおん》が炸裂した。  男の肺から強引に酸素が吐《は》き出される。ズルズルとその体が床へ崩れていく。  上条は無視した。  自分でも訳の分からない絶叫を喉《のど》から迸《ほとばし》らせながら、上条は勢い良く足を振り上げ、男の胸板目がけて、肋骨《ろつこつ》を叩《たた》き潰すように突き入れる。  今度は避《よ》けられた。  横へ転がるように、男が動く。  原油高の影《えい》|響《きよう》で重量削減でも考えたのか、内壁は薄《うす》い。上条の足の裏がそのままめり込む。  そこへ、男は腕を振るった。  上条のふくらはぎの後ろの辺りに、何か熱い感触があった。  見れば、金属探知器対策なのか、男の手には動物の骨を削って作られたナイフがあった。 「……、」  上条は拳《こぶし》を握らなかった。  彼は通路で傾いたまま停止している、機内食用の壊れたカートから、ハンドルに使われていたアルミ製のバーを引き抜いた。  殴《なぐ》ればただでは済まないだろうが、上《かみ》|条《じよう》は気に留めなかった。  明らかな鈍器を手にした上条に、男の方が、じりっ……と後ずさる。  そこへ、ドタドタという足音が聞こえてきた。  テロリストに気づいた……というよりは、上条がドアを破った轟音《ごうおん》に、フライトアテンダント達《たち》が勘付いたのだろう。  それで、男の方針は決まったらしい。  彼は刃物を懐《ふところ》へしまうと、近くにある急な階段を使って別の階層へと逃げていく。そちらを追うべきか迷うが、上条は掃除用具入れでぐったりしているインデックスの方へ向かう。 「インデックス!!」  上条が彼女の耳元で大きな声を出すと、インデックスはわずかに身じろぎした。首には青黒い痕《あと》が残っているが、命に別条はないらしい。  彼女の小さな口が、わずかに動いた。 「なに? 不時着、安定装置……?」  そこから出てきたのは、聞き慣れない単語だった。  増して、機械音痴のインデックスから出てくるとは思えないものだ。  その時、ようやく増援がやってきた。  フライトアテンダントさんと大男……この旅客機の機長もいる。どうやら機内のテロリストを最優先しているらしく、操縦桿《そうじゆうかん》は他《ほか》の副操縦士に任せているらしい。  彼らは機内食の加熱スペースのドアが壊《こわ》されている事に不快な顔つきになったが、ぐったりしているインデックスや、上条のふくらはぎにある切り傷などを見て、ただごとではないと察したのだろう。  ここであった事を説明した上条は、機長達にこう質問した。 「不時着安定装置っていうのは何の事だ? インデックスが犯人から聞いた可能性がある」 「……胴体着陸って知っているか」  機長はゆっくりと息を吐《は》いて、そう答える。 「たまにテレビのニュースで見るだろ。車輪を出せないまま着陸態勢に入って、滑走路でバチバネ火花を散らすヤツ。あれがどうして危険なのかは分かるか?」 「そりゃ……火花が燃料タンクに引火するから、とか」 「旅客機の燃料タンクは左右の主翼《しゆよく》の中だ。胴体を擦《こす》った所で、普通なら引火しない」 「じゃあ」 「エンジンだよ。主翼の下にぶら下がっているだろ。スカイバス365モデルは胴体着陸時にもエンジンを地面に接触させないように設計されているが、それでもものすごい振動がエンジン内部に伝わるんだ。回転中のエンジンの中は、ただでさえ燃えやすい航空燃料を空気と反応させて、爆弾みたいになってる。そこに不安定な振動が伝わると、一気に爆発する恐れがある。エンジンでの出火から燃料パイプを伝って、主翼《しゆよく》のタンクにまで火が回ればドカンだ」  事情を呑《の》みこめない上《かみ》|条《じよう》に、機長は少しずつ告げる。 「そこで、スカイバス365には不時着安定装置が組み込まれている。胴体着陸時の衝撃《しようげき》をセンサーが自動で検出して、全《すべ》てのエンジンを自動停止。燃料パイプを完全に塞《ふさ》いで、エンジンからの出火と燃料タンクへの引火を阻止《そし》、後は慣性の力だけで滑走路を進み、減速していく……って感じだな」 「全てのエンジンを、自動停止させる……?」  上条は胸の奥に生まれた嫌《いや》な予感を、そのままロに出す。 「じゃあ、もしもその装置が、今ここで誤作動したら……」  その言葉に、全員が黙《だま》る。  機長はわずかに呻《うめ》き、それから言った。 「……事情は大体分かった。お前の知り合いが傷つけられた事もな。こちらの力が及ばなかったのは残念だったが……」  何が分かったんだ、と上条は口の中で呟《つぶや》いた。  機長は気づかず、さらに続けた。 「大事にならずに済んで何よりだった。しかし、添乗員に加えて乗客まで具体的な被害を受けた事を、他《ほか》の人間に知られる訳にはいかない。そんな事になったら、五〇〇人以上の乗客が一斉に『安全』を求めて大パニックを起こしてしまう」  冷静な口調が苛立《いらだ 》ちを募《つの》らせる。  どこまでいっても他人《ひと》|事《ごと》のくせに、他人の意志を決定させようとするのが気に食わない。 「お前|達《たち》には申し訳ないが、やはり、引き続き別の場所で一時的に隔離《かくり 》させてもらう。俺《おれ》には乗客の命を預かる義務があるからな。そのために必要ならば、俺は何だって——」  気がつけば、上条の右手は動いていた。  拳《こぶし》を振り上げてから、自分がアルミ製のバーを握ったままだと思い出した。  しかし、上条はそのまま手を止める事はなかった。  ゴン!! という轟音《ごうおん》と共に。  機長の体が、思いきり後ろへ仰《の》け反る。 「……ふざけるんじゃねえよ」 低く唸《うな》るように、上条は言った。 「何が乗客の命を預かる、だ。テメエらの言葉に従って、大人しく言う事を聞いてりゃこのザマだ! どういう状況か分かってんのか!? 偉そうな台詞《せ り ふ》を吐《は》くだけ吐いて、失敗しても反省しねぇっつーのはどういう理屈だ!!」 「っ」  鼻を押さえ、何か言いかけた機長に、上《かみ》|条《じよう》はもう一度鈍器を突きつける。 「こっちは知り合いに手ぇ出されてんだ!! 五〇〇人の命を預かるとか言っておきながら、しっかり漏《も》れてんじゃねぇか!! 書類上の名簿《めいぼ 》で人間を区別しやがって。テメェみてえな赤の他人を仕事の規定で守るのとは話が違うんだよ!! 俺《おれ》にはあのクソ野郎を叩《たた》き潰《つぶ》す権利がある。アンタらは勝手にやってろ! こっちも自分のやり方でやらせてもらうからな!!」  上条は金髪ナイスバディなフライトアテンダントさんに介抱されているインデックスを一度だけ見て、それから鈍器をその辺に投げ捨てた。 (……ちくしょう。俺がしっかりしていれば)  それから、スーツの男が消えた急な階段の方へ足を向ける。 「……クツッたれ。気絶するまで殴《なぐ》り倒してやる」  暴力的な口調は、いつもの上条のそれではなかった。  そして、普段《ふ だん》と様子が違うのは上条だけではなかった。 「……痛ってえな」  低く呟《つぶや》いたのは、突然鈍器で殴られた機長だ。彼は殴られた鼻の辺りを指で撫《な》でて確認する。  彼は上条の消えた方を睨《にら》み、ゆっくりとした動きで壁に手をつくと、そこに引っ掛けてあったマイクを手にする。フライトアテンダントが乗客にシートベルトを装着するよう全体に指示を出したり、コックピットだけに直通で指示を仰いだりするためのものだ。  機長はコックピットのみに聞こえるようチャンネルを調節すると、低い声で言う。 「ワッシュ……」  それは、彼の部下である二名の副操縦士の内の片割れの名前だった。 「機の操縦はリッチモンドに任せておけば良い。そう、そうだ。緊《きん》|急《きゆう》事態だよ。お前はボックスの鍵《かぎ》を開けて、『アーチェリー』をここまで持って来い」  その言葉に、ギョッとした顔で機長を見る金髪ナイスバディなフライトアテンダント。 『アーチェリー』というのは、操縦桿《そうじゆうかん》を奪われないようにコックピットに用意された、スカイバス365で唯一の『武器』だ。日本の銃刀法に配慮《はいりよ》して、分類こそ『ボウガンの一種』という事になっているが、実質的に弓矢としての機構や仕組みはほとんどない。引き金を引くと窒素《ちつそ 》ガスの力で全長四〇センチ強の金属矢を高速で射出する、ほぼ猟銃《りようじゆう》も同然の『武器』だった。  フライトアテンダントの呆然《ぼうぜん》とした視線を受けて、機長は鼻を鳴らした。 「……あいつは誰《だれ》の命令も聞かない。機長の俺にも手を上げた。認識として危険人物とみなす。テロリストが一人増えたようなもんだ。何をするか分からないような人間を、野放しにするつもりはねえ」  聞いている方がゾッとするような声だった。 『アーチェリー』は、すぐに届けられた。      13  上《かみ》|条《じよう》は階段を通って別のフロアへ辿《たど》り着くと、辺りを見回した。日没後の機内は柔らかい照明の光に照らされていたが、彼のいる『壁』の区画は若干簿暗《じやつかんうすぐら》い。  スーツの男はいない。  前はビジネスクラス、後ろはエコノミークラスの座席だ。  いずれの座席にしても、乗客は新聞を広げたり、席に取り付けられたヘッドフォンを耳に当てたり、小型モニタを操作していたりと、広い空間の中で各々《おのおの》の時間を過ごしていた。 (……どっちだ? どっちに行った?)  とりあえず『壁』のエリアから、後ろのエコノミーの方へ移動する上条。犯人たるスーツの男の人相は覚えているはずなのだが、どいつもこいつも座席でかしこまった顔をしていて、迷彩のように思えてくる。  上条には、インデックスのような完全|記憶《き おく》能力はない。  このままだと、せっかく見たはずの男の顔のイメージがグチャグチャになりそうだった。 (分かりやすく動揺してくれりゃ、すぐに見分けがつくものを……)  舌打ちする上条だったが、そこで彼はピタリと動きを止める。  犯人はマスターレコーダーの破壊《は かい》だか何だかで、イギリス側と交渉を行っていたはずだ。逆に言えば、交渉の是非《ぜひ》が明確になるまで、大きなアクションを起こしては困るという事になる。  例えば。  旅客機が落ちるか落ちないかの瀬戸《せと》|際《ぎわ》になるとか。 (なるほど)  上条は一人で頷《うなず》くと、再び『壁』のエリアの方へ引き返す。 (揺さぶる方法が見えてきた)  ビィィィ!! という甲高《かんだか》いブザーが男の耳を打った。  実は彼は、上条が向かったエコノミーとは逆方向——つまりビジネスクラスにある自分の座席に、ごくごく自然な調子で座っていた。旅客機に逃げ場はない。追っ手の目を欺《あざむ》くには、 『他《ほか》の乗客に紛《まぎ》れる』のが一番効率的なのだ。  そこへ、彼の胸を貫くような電子音だ。  どうやら緊《きん》|急《きゆう》|用《よう》のものらしく、全《すべ》ての座席が自動的に連動し、酸素吸入用の透明なマスクが一斉にこぼれ出した。それを見た乗客|達《たち》は一《いつ》|瞬《しゆん》キョトンとして、それからまるで髪に火が点《つ》いたような大騒《おおさわ》ぎを起こす。 (何だ、おい。何だ、どうなってる!?)  男は座席の肘掛《ひじか》けを掴《つか》みながら、辺りを見回す。 (酸素マスクが出たって事は、機体がヤバい事になってる……? でも、俺《おれ》はまだ『必要なプログラム』を流していない。スカイバス365の不時着安定装置を掌握《しようあく》した覚えはない!!)  そうこうしている間にも、甲高《かんだか》いブザーは続いている。  周りで他《ほか》の乗客達が騒いでいるからか、何だか機体が変に揺れているような錯覚《さつかく》さえ感じるようになってきた。  仮に。  もしも本当に、何かのイレギュラーで機体の調子がおかしくなったとしたら……? (まずい)  男の……いや、彼の所属するテロ組織の目的は、イギリスの大手航空会社四社のマスターレコーダーの破壊《は かい》だ。イギリス側からの返答はまだない。こんな状態で、スカイバス365が組織の思惑とは関係なく、勝手に墜落《ついらく》事故を起こしてしまったら……。  マスターレコーダーは破壊されない。  いや、『単なる航空事故』扱いになってしまったら、テロ事件そのものが消えてしまう。 (まずい、まずい、まずい! くそ、どうにかしねぇと!!)  男は座席から立ち上がる。  事態を打開しなければならないのだが、そのための具体的な方法は、ない。  一方、機長の方も苛立《いらだ 》っていた。  スカイバス365唯一の飛び道具『アーチェリー』を手にした機長は、甲高いブザーの音に顔をしかめながら、壁に掛けられたマイクを掴み取る。  回線は、コックピットのみと繋《つな》がっていた。 「どうなってる!! テメエ、高度を急に下げたりしたんじゃねえだろうな!?」 『いっ、いえ。機体のバランスは保持しています。これは計器類の自動警報ではありません。機内の手動スイッチによるアラームです』 「クソッたれ。あのテロリストども!!」 『アーチェリー』を手に大声を出す機長。もはや、彼の中ではテロリストどころか上条当麻《かみじようとうま》についても一般の乗客であるという認識はないようだった。 「これ以上、俺《おれ》の機で好き勝手にやるようなら、こっちにも考えがある……。おいリッチモンド!! テメェもこの警報を切れ! 計器に問題ないのが分かってんなら、さっさと自動音声を流すんだよ! これは誤報だから問題ありませんってヤツをな!!」  叫ぶだけ叫ぶと、機長はマイクを床に叩《たた》きつけ、『アーチェリー』を構え直す。あの東洋人は、階段を使って別の階層へ行った。しかし、いくら広いと言ってもスカイバス365は旅客機だ。虱潰《しらみつぶ》しに調べれば、すぐに見つかるはずだ。 「ちくしょう。あの馬鹿《ばか》ども、手足をブチ抜いてでも動きを止めてやる」  吐《は》き捨てるように言って、機長が急な階段に向かおうとした時だった。  床に投げ捨てたマイク兼小型スピーカーから、切羽詰《せつぱ つ 》まった副操縦士の声が飛んできた。 『きっ、機長!! 緊《きん》|急《きゆう》です!!』  本来、そのマイクは顔に寄せてやり取りをするためのものだ。床にあるマイクから聞こえてきたという事は、それだけ副操縦士の声がなりふり構わないものだった、という証拠である。 「何だ? またあいつらが何かやったのか!?」 『分かりません!』  副操縦士は叫びに叫びを返す。 『とっ、とにかく、コックピットまで戻ってください! 俺一人だけじゃどうにも……ちくしょう。どうなってんだ。どうなってんだよこれ。ねっ、燃料メーターがっ!! この減り方はおかしい! タンクに穴が空いているとしか思えません!!』 「マジか……」  機長の腹の辺りに、冷たい緊張が渦巻く。  ただ単純に機内のブザーを押しただけで、そんな変化が訪れるはずはない。それともまさか、不時着安定装置に関《かか》わる何かが起こっているのか……? (……どうなってやがる)  丸腰の相手なら一撃《いちげき》で射殺できるであろう『アーチェリー』を両手で抱えたまま、テロリストを追うかコックピットに戻るか逡巡《しゆんじゆん》していた機長だったが、 『機長、指示を!! このままだと空港まで保《も》ちません! 最悪、幹線道路に不時着するための準備を進めておく必要があります!!』 「ちくしょう!!」  その言葉で、機長は決断した。  彼は急な階段ではなく、『アーチェリー』を届けに来た副操縦士の一人と共に、コックピットの方へと全力で走る。      14  ロンドンのランベス区には、聖ジョージ大聖堂という名の教会がある。  聖ジョージというのは有名な名前で、学校や病院、公園、そして教会など、様々な施設に冠せられているものだった。聖ジョージ大聖堂という教会自体、ロンドンにはいくつもある。これはそうした教会の中の一つだった。  夜の教会と言えば、揺れる蝋燭《ろうそく》の光やステンドグラスによって色づいた月明かりが、冷たくも荘厳《そうごん》な空気を作り出すものだが、今日に限ってその法則は通じなかった。科学サイドの総本山・学園都市の協力機関から提供された、様々なモニタ類が説教台や長《なが》|椅子《いす》などの上に置かれ、地面には四角いボックス型の通信機器があったり、ケーブル類が這《は》い回っている。液晶やパイロットランプの光が、夜の教会が作る柔らかい闇《やみ》をかき乱す。  多くのシスター達《たち》が、慣れない機材の扱いに戸惑いながら右往左往《う おうさ おう》している中で、ゆったりと椅子に座る影が二つある。  片方は『清教派』のトップ、最大主教《アークビシヨツプ》のローラ=スチュアート。  片方は『騎士派《きしは》』のトップ、騎士団長《ナイトリーダー》。  柔らかい表情のローラに対して、騎士の長《おさ》の表情は険しい。 「結局、『王室派』のトップはやりてこなかったわね。一応、三派閥が揃《そろ》いて協議をせねば示しがつかぬと思いしけど」 「……女王陛下を始め、『王室派』の方々は、警察や議会など、様々な関係機関を掌握《しようあく》し、適切に動かすために尽力なさってくださっている。このような場所に来るほど暇ではないのだ」  その言葉を受けて、ローラは息を吐《は》く。  イギリスの三派閥には、明確な力関係がある。 『王室派』は『騎士派』に強く、 『騎士派』は『清教派』に強く、 『清教派』は『王室派』に強い。  だからこそ、それぞれの代表が会議の場に出席する事によって、各々《おのおの》が対等に発言できるようになる訳なのだが……『王室派』が欠けてしまうと、『清教派』のローラとしては色々とやりにくい。わざと逃げたんじゃないだろうな英国女王《あのオンナ》と内心では毒づくほどである。  騎士団長《ナイトリーダー》はそうしたローラの懸念《け ねん》に気づかす、実直な調子で言う。 「……それより、貴様達が仕掛けた幻術[#「貴様達が仕掛けた幻術」に傍点]が効果を表し始めたようだな」 「ふふん。確かに、科学の塊《かたまり》なりける旅客機の制御を遠隔地《えんかくち 》から丸ごと乗っ取りたるのは難しいけど、その計器の一つを幻影でごまかしたる事ぐらいは簡単なのよ」 「つまり、コックピットの燃料メーターに細工をした訳だ」  言いながら、彼は大聖堂に設置されたコンピュータに目をやる。  二脚の椅子《いす》を取り囲むように、複数の液晶モニタや計器類がある。スカイバス365のコックピットと同じ、訓練用のシミュレータだ。これを元に、幻術の『狙《ねら》い』を定めているらしい。 「今頃《いまごろ》、向こうは大騒《おおさわ》ぎなりけるでしょうね。タンクに穴が空いているとしか思えぬほどの速度でメーターが急速に減じているのだから。もう空港までは絶対に保《も》たぬと認識したるはずよ」 「そうして空港ではなく、建物の少ない田舎《い な か》の幹線道路へ不時着させるという訳か」  騎士団長《ナイトリーダー》は眉《まゆ》を不快そうに動かした。 「確かに、報告ではテロリスト自身は即座に機を落とすつもりはないと聞いている。しかし、ヤツらの口に上っている『旅客機の欠陥』についても分かっていないはずだ。不時着は難易度が高い。そこへ妨害が入れば、ただでは済まねと思うが」 「ほう。ならば大都市や住宅地、国際空港の滑走路上や管制ビルで爆発させたる方が好みなの? 最悪の場合、乗員乗客の数倍を超えたる被害者が生まれたると思うけど」 「……、」  騎士団長《ナイトリーダー》はわずかに黙《だま》った。  ローラはレポートを持って近くを歩いていたシスターの一人を捕まえ、こう尋ねた。 「不時着に使いける道路は?」 「ロンドンからスコットランドへ向かう直線道路の内、ケンドル - カーライル間の辺りとなるでしょう」  報告を聞くと、ローラはパチンと指を鳴らした。  騎士団長《ナイトリーダー》は眉をひそめる。 「……それは何の合図だ?」 「該当せし幹線道路の封鎖《ふうさ 》と、そこへ乗り入れたる全《すべ》ての道路の遮断《しやだん》。あとはテロリストを抑えたるための装備一式。『騎士派《きしは》』には狙撃用《そ げきよう》の『ロビンフッド』がありしと思いけるけど?」 「宗教を騙《かた》る策士|如《ごと》きが、一国を守る騎士に指図をする気か」 「華を持たせてやると受け取りてほしいけどね。報告では、件《くだん》のテロリストは魔術師《まじゆつし》ではないし、銃や爆弾などを携帯したる素振《そぶ》りも見せぬのよ。機が無事に着陸してしまいければ、五〇〇人強の乗員乗客を抑えたる事すらできぬでしょう。経験値|稼《かせ》ぎにはピッタリの雑魚《ざこ》を譲《ゆず》りてやると言いけるんだけど?」  くだらん、と騎士団長《ナイトリーダー》は吐《は》き捨てた。 「……事を急ぐのは構わんが、仮に旅客機が空中分解でもした場合はどうするつもりだ」 「その場合は、同乗したる禁書目録だけは回収しないとね。なぁに、こちらにはチャーター機を使いて逃走しようとしたリドヴィア=ロレンツェッティ捕縛時《ほ ばくじ 》の術式がありけるし。仮に空中で爆発するような事になりけるとしても、一人だけなら[#「一人だけなら」に傍点]地上で受け止められたるわよ」 「心の底から言おう。貴様は早死にするべきだ」      15  ガクン、と機体が大きく傾くのを、男は感じた。  機首方向を下に——つまり、高度を急激に下げるために、だ。 (不時着? まずい!!)  男の目的はマスターレコーダーの破壊《は かい》。その要求を呑《の》むか否《いな》か、イギリス側が判断する前にどこかへ不時着されてしまうのでは、『交渉』を続けられなくなる。  そして、伝統的に『どこかへ着陸した旅客機』は大勢の警察機関に取り囲まれて籠城戦《ろうじようせん》になるのがオチだ。航空機の窓や壁が軽くて簿《うす》いのは、原油高の問題を解消するための重量削減の他《ほか》に、大型ライフルで確実に狙撃《そ げき》を成功させるためだというウワサもある。  イギリスの空港や幹線道路など、敵地のど真ん中だ。  そんな所に不時着し、立《た》ち往《おう》|生《じよう》する訳にはいかない。 「くそっ!!」  男は弾《はじ》かれたように走る。ビジネスクラスから前方……ファーストクラスを経てコックピットまで殴《なぐ》り込みをかけようかと思ったが、途中で踏《ふ》み止《とど》まった。テロ対策の一環として、コックピットのドアは最も頑丈に作られているはずだ。何の策もなく、打ち破れるものではない。  そうこうしている間にも、機体はぐんぐん高度を下げていく。  それはエレベーターに乗っているような、奇妙な浮遊感を男に伝えてくる。 「どうにか、どうにかしねえと……」  男は一人で呟《つぶや》き、ビジネスとファーストクラスの間にある『壁』のエリアへと飛び込んだ。ここにも他の『壁』のエリアと同様、フライトアテンダント用のマイクが壁に掛けられている。  男はマイクを手に取った。  震《ふる》える手でチャンネルを操作し、コックピット直通になるよう調整した上で、彼はフランス語で開口一番こう叫んだ。 「不時着はやめろ!! 今すぐこの機を落とすぞ!!」 『ッ!?』  向こうで息が詰まるような音が聞こえた。  唐突な恫喝《どうかつ》に、どう反応すれば良いのか判断できないのだろう。  構わず男は大声で続けた。 「俺《おれ》はスカイバス365の構造的な欠陥を掌握《しようあく》している。いつでもこの機は墜落《ついらく》させられる! 五〇〇人以上の乗客を殺されたくなかったら、今すぐ高度を元に戻せ!!」  それは完全なハッタリで、実際にはエコノミークラスの座席は使い物にならなかったし、予備の計画についても、貨物室へ繋《つな》がるハッチを開けられなければどうにもならなかったのだが、男は嘘《うそ》をつく事にためらわなかった。 『駄目《だめ》だ』  しかし、そのハッタリを受けてなお、返答は予想していたものではなかった。  声は緊《きん》|張《ちよう》していたが、それでもはっきりとこう答えた。 『どういう訳か、燃料メーターの数字が急激に減っている。おそらく燃料が漏《も》れているんだ。このままじゃエジンバラの空港まで辿《たど》り着けない。ロンドンの空港に引き返すのも無理だ! それどころか、下手すると燃料に火が点《つ》いて、エンジンそのものが爆発するかもしれない!!』  そんな事はどうでも良い。  機体が爆発しようが、男には関係ない。  彼にとって重要なのは、これがテロ事件という形で華々しく結末を飾る事なのだ。 「クソッたれ。殺してやる。良いか、三分だ。三分以内に高度を元に戻さなければ、乗客を一人ずつぶっ殺してやる!!」 『事態が分かってんのか!?』  ほとんど金切り声の返答だったが、男はさらに錯乱《さくらん》した声を覆《おお》い被《かぶ》せた。 「そっちこそ分かってるんだろうな! 乗客の命を握っているのは俺《おれ》なんだ!! 人質は五〇〇人以上いる。半分ぐらいぶっ殺したって、人質のストックは十分保てる事を忘れるな!!」  言うだけ言うと、男は叩《たた》きつけるようにマイクを壁に掛ける。  そのまま、ずるずると床に腰を下ろした。  懐《ふところ》にある、動物の骨のナイフへ手を伸ばす。  高度は上がるか、それとも下がるか。  カチカチと歯を鳴らし、男は機体の傾きに全神経を集中させる。      16  聖ジョージ大聖堂の一角で、最大主教《アークビシヨツプ》ローラ=スチュアートは眉《まゆ》をひそめた。 「……妙なりけるわね」 「何がだ」  応じたのは、騎士団長《ナイトリーダー》だ。  ローラはモニタではなく、傍《かたわ》らにあるホワイトボードへ目をやる。イギリスの地図といくつかの丸い磁石が貼《は》り付けてあるのだが、磁石はひとりでに地図の上を進んでいる。 「例の旅客機が高度を上げたるのよ。不時着を取りやめたるとしか思えぬわ」 「貴様の命令で幻術を解いたのではないのか?」 「違いけるわよ」  ローラは独り言のように呟《つぶや》いた。 「幹線道路に不時着させたるまで、幻術を解きたるはずがないでしょう。にも拘《かかわ》らず、この機に仕掛けたる遠距離《えんきより 》からの幻術は効果を失いたりける。これは……」 「最大主教《アークビシヨツプ》! 緊《きん》|急《きゆう》です!!」  と、そこへ駆け込んできたのは、『清教派』の幼いシスターだ。 「スコットランド方面から大規模な妨害を確認しました。我々の幻術は、第三者の手によって封じられています!! これでは燃料メーターの表示は元に戻っているはずです!!」 「妨害、だと……?」  ローラの眉《まゆ》が、初めて不快げに歪《ゆが》む。 (誰《だれ》が、何の目的で……?)  当然ながら、それは魔術的《まじゆつてき》な『妨害』という事になる。しかし、件《くだん》のテロリストが魔術とは無縁の『単なる犯罪者』であるのも事実。犯人|達《たち》と協力関係にある魔術師がいるとも思えない。  まして、 「スコットランド地方……。よりにもよって、イギリス国内からの妨害か」  騎士団長《ナイトリーダー》の表情は、ローラよりも分かりやすく変化した。  それは怒りだ。 「フランスの魔術師がいつの間にか紛《まぎ》れ込んでいたのか、あるいはイギリスの魔術結社が寝返ったのかは知らん。だが、これは貴様の失態だぞ、最大主教《アークビシヨツプ》。こういうトラブルを未然に回避《かいひ 》するために、貴様はイギリス清教の全権を任されているはずなのだからな」 「……分かりているわよ」  そして、表情には出ないものの、ローラ=スチュアートの中にも確かに激情が渦を巻いていた。彼女は何らかの感情を含みながら、告げる。 「この件、ただの派手好き不良どもだけでなく、まだ何かありけるわね」  ローラは指をパチンと鳴らした。  気がつくと、彼女の真後ろにオレンジ色の光点があった。それは煙草《タ バ コ》の先端《せんたん》に点《つ》いた火だ。口の端《はし》で煙草を咥《くわ》えた魔術師に向かって、ローラは言う。 「念のため、例のスカイバス365に布石を打ちておきたいわね。必要な物は?」 「そうですね」  煙を吐《は》き出し、赤い髪の神父は静かに言った。 「では、輸送機を一機ほど。武力を司《つかさど》る『騎士派《きしは》』の方から空軍へ連絡していただけますか?」      17  男は顔を上げた。  機体の傾きが変わった。先ほどまでとは反対に、機首の方が上になる。  高度が再び上がっているのだ。 (不時着は……回避《かいひ 》された?)  はぁはぁと荒い息を吐《は》きながら、男は周囲を見回す。  コックピットの方で何らかの操作をされたのか、甲高《かんだか》いブザーが途切れた。様々な国の言語で、『今のは誤報なので心配はない』という旨《むね》の自動アナウンスが流れていく。 (何とか……なったか)  ビジネスクラスとファーストクラスの間にある『壁』のエリアで、男はようやく肩の力を抜いた。テロ計画はほとんど手詰まりだが、まだ決定的な『失敗』とはなっていない。貨物室へ繋《つな》がるハッチの開け方さえ分かれば、十分に挽回《ばんかい》できる。  そこへ、 「ここにいたのか」  男はギョッとした顔で、声のした方を見た。  ビジネスクラス側の入口に、ツンツン頭の東洋人が立っていた。  上条当麻《かみじようとうま》は、実はあまり事情を理解していなかった。  緊《きん》|急《きゆう》ブザーを押したのは彼自身だが、その後、旅客機の高度が急激に下がった事については身に覚えがない。もしかすると、機長|達《たち》が何かしたのだろうか。  とにかく、機内にある程度の混乱を起こして犯人を揺さぶった上条は、男が何らかのイレギュラーなリアクションをしないかどうか、あちこちを見て回っていた。  そして、見つけたのだ。  ビジネスクラスとファーストクラスの間にある『壁』のエリア。  そこにあるマイクを掴《つか》み、コックピットに向けて怒鳴り声を出している男を。 「……、」  男はほんの数秒・上条の顔を呆然《ぼうぜん》と眺めていた。  それから懐《ふところ》へ手を伸ばす。  おそらく入っているのは動物の骨のナイフだろう。  丁寧《ていねい》に削って角度をつけ、動脈を切断したり内臓を突き刺す程度の鋭利さを秘めた、金属探知器では見つけられない刃物。  だからこそ、上条は男が懐から手を抜く前に動いた。  ダン! と勢い良く至近|距離《きより 》まで近づくと、ナイフを抜くために曲げていた肘《ひじ》へ、自分の掌《てのひら》を思い切り押し付ける。  ぐぐっと押し出される自分の腕の動きを見て、男の体が強張《こわば 》った。  日本語が通じるかどうかもお構いなしに、上条は男の間近でこう言った。 「自分の刃で腹を刺されたいか」 「ッ!?」  冷や汗をかいた男は、上条の腕を振り払うように、自分の体を大きく回そうとした。しかしその前に、上条は自分の頭を一度後ろへ引くと、勢い良く額を男の頭へ打ち付ける。  ゴン!! という轟音《ごうおん》が炸裂《さくれつ》した。  男の体がふらつく。  上条はさらに開いた距離を埋めるように、勢い良く膝蹴《ひざげ 》りを放つ。  直撃《ちよくげき》し、腹を中心に男の体が浮いた。そのままゴロンと床を転がる男へ追撃を仕掛けようとしたが上条だつたが、 「……、」  男の手が、今度こそスーツの懐へ伸びた。  そうしたまま、男はうっすらと笑う。 「文句はねえよな」  フランス語で上条には分からなかったが、何やら勝ち誇った台詞《せ り ふ》らしい事だけは伝わった。  身動きを取れない上条に、男は懐から勢い良くナイフを抜く。  どう考えた所で、素手と刃物なら、刃物を持っている方が有利だ。最悪、相打ち覚悟で突っ込んでしまえば、男は殴《なぐ》られるだけで済むが、上《かみ》|条《じよう》の方は腹を刺されて死ぬ。  ……はずだったのだが。  問題の動物の骨のナイフは、上条の膝蹴《ひざげ 》りを受けて根元から折れていた 「……、マジかよ」  男はグリップだけになったナイフを、未練がましく睨《にら》みつける。  それから、彼はハッと顔を上げた。  岩のような拳《こぶし》を握り締めた上条|当麻《とうま 》が、ゆっくりと近づいてきた所だった。  彼は言う。  伝わらないだろうと分かっていながら、敢《あ》えて日本語で。  「文句はねえよな?」  ガンゴンバギン!! と、拳《こぶし》を振り下ろす音が連続した。  上条当麻にしては珍《めずら》しく、一撃《いちげき》では済まさなかった。      18  ビジネスとファーストクラスの間にある『壁』のエリアにある小さな部屋で、テロリストの男は上条の手で縛《しば》られ、転がされていた。  燃料メーターの数値が急速に減じていた、というのはどうやら機長|達《たち》の誤読だったらしく、問題はなかったようだ(とはいえ、機長はやたら不機《ふき》|嫌《げん》で上条と話す気はないらしく、金髪ナイスバディなフライトアテンダントさんから伝え聞いた話なのだが)。今は不時着をやめ、高度を上げて、当初の予定通りエジンバラ空港へ向かっている。  男に首を絞められていたインデックスの事が心配な上条だったが、当の本人はというと 「ビーフオアフィッシュ、ビーフオアフィッシュ! 問題が解決したなら後はひこーきのご飯を食べるだけなんだよ!!」 「……インデックスさんよ。ナイフ突きつけられて首絞められて喉《のど》に青黒い痣《あざ》を残している訳ですが、随分《ずいぶん》と平和的なコメントですね」  そんなこんなで、全《すベ》ては順調のはずだった。  だが、 「……、」 「どうしたの、とうま?」  何かがしっくりこない。一つ一つピースをはめていたはずのジグソーパズルなのに、絵が完成する前にピースがなくなってしまったような、不自然な感じだ。 「そういえば、あいつは何でこんなタイミングでテロを起こそうとしたんだろう」 「それは、反イギリス系のグループらしいですから、イギリスの上空で問題を発生させたかったのでは?」  フライトアテンダントさんが怪訝《け げん》な顔になる。もしかすると、乗客の上《かみ》|条《じよう》にこれ以上動き回ってほしくないのかもしれない。しかし上条は首をひねったまま、 「でも、あいつはイギリス国内に不時着されそうになったり、時間切れで交渉を中断せざるを得ない状況に陥《おちい》る事を恐れているみたいだった。……さっさと事を起こしていれば、それだけ『交渉時間』にもリミットにも余裕を持たせられた。そうすれば、『犯人側からのアクション』をいっぱい起こして、イギリス側を揺さぶる事もできたかもしれないのに」 「どっちみち、もうテロリストはいないんだよ。気にする必要はないんじゃないの?」  それよりもビーフオアフィッシュ!! と叫ぶインデックスを、フライトアテンダントさんが笑顔でなだめている。 (考えすぎなのか……? さっさとハイジャックをしていたとしても、パイロットの手で空路上にある国の空港へ強制着陸させられた可能性もあるし。でも……)  上条はゆっくりと歩きながら考える。 (もしも、このタイミングでなければテロを起こせないような必然性があったとしたら、それは何なんだろう。イギリスの航空会社に脅迫《きようはく》メールを送る、マスターレコーダーを指示通りに破壊《は かい》させるっていうだけなら、イギリス上空で問題を起こす必然性はない。どこで墜落《ついらく》しようが、『イギリスに向かう便が攻撃《こうげき》された』という事実は維持できるはずなんだから)  そもそもテロリスト達《たち》だって、その場限りで適当に思いついた事を実行している訳ではないはずだ。現に、他《ほか》の便で一五秒間ほどエンジンを止めて、不時着安定装置をきちんと使えるかどうかをテストしているぐらいなのだから。  彼らは何度も何度も計画をシミュレートし、考えられる限り様々な状況に対応できるように練ってきたはずだ。それが、『不時着安定装置が使えないから計画は中止』で終わるのか。  何か。  保険となるべき第二プランは存在しないのか。 (……一〇時間近いフライトの内、わざわざ最後の一時間を狙《ねら》ってテロが決行された理由)  その間に、何か特別な事が起こったかと言われれば……。 (そうか。途中でパリの空港に寄って、追加の荷物を積み込んでいる!!)  ついに、上条は立ち止まった。  怪訝そうな顔をするインデックスとフライトアテンダントさんに、彼は言う。 「……まだいるぞ」 「?」 「貨物室だ!! あいつは、パリの空港で荷物の積み込みが終わるのを待ってから、テロを実行しようとした。その理由は何故《なぜ》か。荷物に紛《まぎ》れ込んで、あいつの仲間がスカイバス365に入ってくるのを待っていたからだ!!」  上《かみ》|条《じよう》の言葉に、インデックスとフライトアテンダントさんの二人はギョッとした。 「普通の乗客として飛行機に乗ると、武器を持ち込めない。だからあいつの仲間はコンテナの中に紛れる形で、このスカイバス365へ乗り込んだ。問題が起きて第一プランが実行できなくなった時は、外からしか開かないハッチを開けてもらって第二プランに移れるように」 「九時間近くもフライトしておいて、一切|攻撃《こうげき》がなかったのは、フランスで仲間と合流するためだった……? だからコンテナを積み込んでから行動を始める事になった、という事ですか」 「だとすると、このままじゃマズい」  上条は靴底で床をコツコツ叩きながら言う。 「普通のチェックを潜《くぐ》り抜ける形で貨物室に乗り込んでいるんだ。ボディチェックなんてしている訳がない。貨物室の敵は、銃や爆弾で武装している可能性が高い。そして計画が失敗したと分かれば、その火力でみんなを道連れにするかもしれない」  大型旅客機の飛んでいる一万メートルの高空は、とにかく空気が薄《うす》い。人間では呼吸が難しいほどだ。そのため、旅客機の中は人工的に気圧を調整して、人間が過ごしやすいようにされている。ちょうど、風船の中に空気を入れるようなものだろうか。  銃弾は、その風船である旅客機の胴体へ、簡単に風穴を空けてしまう。そうなったらおしまいだ。飛行機の中にある空気は一斉に外へ逃げ出すために動き、結果として小さな穴を内側からめくり上げ、飛行機そのものを大破させてしまう。 「……貨物室への入ロは、あそこしかないのか?」 「え、ええ。ロックを開けるには、副操縦士以上のカードキーが必要になりますけど」  貨物は専門ではないのか、フライトアテンダントさんは、やや不安そうな表情で答える。 「カードキー、か。……あの機長に協力を求めるのは、もう難しそうだな」  そもそも、機長は『アーチェリー』という飛び道具を持っているのだが、それも貸してもらえないだろう。一応はテロリストを倒して名誉を回復した上条だが、個人的な感情まで修復できているとは思えない。  すると、フライトアテンダントさんはこんな事を言った。 「……機長は難しいかもしれませんけど、副操縦士の方に頼《たの》めば、カードキーは何とかなるかもしれません」 「……そうなのか?」 「流石《さすが》に、『アーチェリー』までは無理でしょうけどね」  申し訳なさそうに言うフライトアテンダントさんだが、上《かみ》|条《じよう》としては、貨物室のハッチが開くだけでもありがたい。 「それから、スカイバス365の貨物室は三つのブロックに分かれています。フランスで積んだ荷物は全《すべ》て、真ん中のブロックに集中されているみたいですね」  となると、やはりそこにいる可能性が一番高い。  しかし、入口が一つしかないとなると……。 「……ドアを開けた直後が一番ヤバそうだな」 「でも、他《ほか》に出口なんて……」  言い淀《よど》むフライトアテンダントさんに、上条は言う。 「そうだ。通気用のダクトは使えないか?」 「そんな、映画のようにはいきませんよ。スカイバス365のダクトの口径は、三〇センチ四方しかありません。とてもではありませんが、人が通れるようなスペースは……」 「いや、それで良いんだ」 「?」 「どういう事、とうま?」  キョトンとするフライトアテンダントさんとインデックスに、上条は言う。 「フリードリンクに、コーヒーと紅茶のボトルがあったよな。あれを持ってきてくれ。冷めているなら、電子レンジでも何でも良いから、とにかく温め直してもらえると助かる。とにかくムチャクチャ熱いヤツを頼《たの》む」      19  貨物室には、四角いコンテナがいくつも並べられている。  といっても、港のタンカーに乗せられるような、細長いものではない。一辺が二メートル程度の、サイコロのような立方体だった。素材も鉄ではなく、もっと軽いアルミ製。銀色の表面に、航空会社のロゴが貼《は》り付けられている。  それらのコンテナの一つだけ、扉が開いていた。そして、開いたコンテナの壁に背中を預けるように、一人の男は佇《たたず》んでいた。  エーカー=ルゴーニ。  パリ国際空港の作業服を着込んでいるものの、その手には最新の拳《けん》|銃《じゆう》が握られていた。足元のバッグの中には、手榴弾《しゆりゆうだん》やプラスチック爆弾などの爆薬も詰まっている。とはいえ、これらを使うのは本当に最悪の場合なのだが。  可能なら、ありきたりな武器は使わない方が良い。  実はエーカー達は、今回の計画を実行に移すにあたって、複数の組織から情報や隠れ家の提供など様々な協力を受けている。それは『銃器の持ち込みの難しい旅客機で、武器らしい武器を使わずにハイジャックを成功させる方法を確立し、協力してくれた組織へノウハウを教える』事を条件としていた。  従って、『不時着安定装置』を利用した未知のテロを成功させなければ、彼らは笑い者になってしまう訳なのだ。  だが、その第一候補は成功する兆《きざ》しがない。  おそらくスカイバス365を使った『交渉』は失敗した。イギリス側はこちらの要求には答えないだろうし、このままではダメージを与える事にもならない。  第二候補、つまり最悪の時は近づきつつあった。 (……頃合《ころあ 》いか)  簿暗《うすぐら》い貨物室で、エーカーは太い腕に巻いた腕時計に目をやる。そろそろエジンバラ空港に着く計算になるが、未《いま》だに客室にいるはずの仲間のミュッセに動く様子はない。怖気《おじけ 》づいたか、何らかのへマをしたか。どちらにしても、計画が順調に進んでいる感触はない。  最悪でも、この機だけは落とす。  爆薬を使えばハッチを破る事もできるかもしれないが、彼はそんな回りくどい事はしない。  エーカーは、あと五分、と己に定めた。動きがなければ、貨物室の壁へ攻撃《こうげき》を加える。外壁に風穴を空ければ、後は空気の力が勝手にスカイバス365を破壊《は かい》してくれるだろう。中途《ちゆうと》|半端《はんぱ 》な結果しか出せず、エーカー達《たち》は後々まで笑い者にされるだろうが、それでも何も結果を残せないよりは良い。  その時だった。  ベコン、という音が聞こえた。金属の板をへこませるような音だった。それは一回ではない。二回、三回と音は連続している。  音源を探したエーカーは、やがて頭上に顔をやった。  金属板の音はそこから聞こえた。天《てん》|井《じよう》に張り巡らされているのは、ダクトだ。その板が、歪《ゆが》むのだ。一ヶ所だけでなく、まるで少しずつ移動しているかのように。 (……まさか、本気で……? 奇《き》|襲《しゆう》のつもりなのか……?)  映画などでは良くある話なのだが……スカイバス365のダクトは、人間が通るにはあまりにも小さく、そして簿《うす》かった。一つしかない出入り口を使って正面から突っ込んでくるのが自殺行為……というのは認めるが、狭すぎるダクトの中で詰まって身動きが取れなくなる、というのも同等の間抜けさではないだろうか。  エーカーは頭上に拳《けん》|銃《じゆう》を向けた。  ベコン、ともう一度鳴った。  彼は慎重に狙《ねら》いを定め、金属板が歪んだその一点へと立て続けに銃弾を放った。  ダンダンダン!! という銃声が連続した。  原油高で燃料費も高騰《こうとう》しているのか、ダクトの壁はやたらと薄《うす》かった。そして、簡単に空いた指先ほどの穴から、熱い液体がこぼれてきた。  そう、熱い。  ただし、人間の血液にしても熱すぎる。 「な……ッ!?」  刺すような痛みは、硫酸《りゆうさん》に触れたように強烈だった。薄い朱の液体の正体は、匂《にお》いで分かった。紅茶だ。今も湯気を放つ、熱湯状態の紅茶が垂れてきているのだ。  そして、エーカーは気づいていなかった。  銃声によって開閉音が隠れるようにタイミングを合わせた上《かみ》|条《じよう》が、真正面から扉を開けて貨物室に飛び込んできた事を。 「ようテロリスト。熱膨《ねつぼう》|張《ちよう》って知ってるか?」  物体は加熱する事で体積を変える。分かりやすい例が、ステンレスの流しに熱湯を捨てた時にベコベコ音を立てる、あれだ。上条はエーカーの気を引くためダクトに紅茶を流したのだ。 「ッ!!」  自分に向かって放たれた声に対し、エーカーは迷わず銃口を向けた。  しかしその前に、上条は焚《た》き火に向かって水をぶっかけるように、両手で掴《つか》んだバケツの中身を思い切りエーカーに浴びせかけた。  中身はグツグツに煮えたコーヒー。  頭から被《かぶ》ればどうなるか、いちいち説明する必要もない。 「ぐああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」  絶叫し、のたうち回るエーカーに、空のバケツを捨てた上条は笑う。エーカーが手放した拳《けん》|銃《じゆう》を、軽く蹴飛《けと》ばす。銃は熱湯のようなコーヒーの水溜《みずた 》まりの中へと沈んでいった。  しかし、エーカーはそこで止まらなかった。  彼は絶叫しながら両手で上条の襟首《えりくび》を掴むと、そのまま持ち上げたのだ。両足が宙に浮く感覚に上条がゾッとした直後、エーカーは思い切り床へと叩《たた》きつけた。ドッパァン!! という轟音《ごうおん》と共に上条の背中に衝撃《しようげき》が走り、彼の口から空気が漏れる。 「ごっ、ぶ……ッ!?」  上条の息が詰まるが、ご丁寧《ていねい》に咳《せ》き込んでいる暇さえなかった。  エーカーは腰の後ろへ手を回すと、大振りなナイフを抜いたのだ。 「ッ!!」  顔面目がけて真《ま》っ直《す》ぐ振り下ろされたナイフに、上条は首だけを強引に振る。耳のすぐ横で、ガキィィン!! という甲高《かんだか》い音が響《ひび》いた。どうやら床を突いたナイフは半分ほど折れたようだが、エーカーは構わず二撃目を振り下ろそうとする。  上条は床へ手を伸ばす。  折れた方の刃を指で掴《つか》み、のしかかるエーカーの太股《ふともも》に突き刺す。  絶叫が迸《ほとばし》った。  ぐらりと横によろめいたエーカーとは反対の方へ転がり、どうにか距離《きより 》を取ろうとする上《かみ》|条《じよう》。  しかし、それが失敗だったとすぐに気づいた。  片膝《かたひざ》をついたエーカーの近くには、コーヒーの水溜《みずた 》まりがあった。そして今も湯気を出し続けている水溜まりの中央には、上条が先ほど蹴《け》った拳《けん》|銃《じゆう》が沈んでいたのだ。  エーカーは迷わず掴んだ。  一口に拳銃の材質と言っても色々だが、エーカーが持っていたのはステンレス製だ。当然、熱を良く通す。熱湯の中に沈んでいた銃は、まるで灼熱《しやくねつ》の石のようになっているはずだったが、エーカーはそれを強く握り締《し》めた。そこには憤怒《ふんぬ 》の表情しかなかった。 「……この機は、落とす」  全身に火傷《や け ど》を負ったエーカーは、自分に話しかけられた言葉に合わせたのか、わざわざ日本語で上条に言った。 「ユーロトンネルの爆破によって、我々フランスは多大な損害を被《こうむ》った。だからこそ、ヤツらにも同じ分だけ財を失ってもらう。陸路に続いて、空路も封じる形でな……ッ!!」 「イギリスがやったなんて証拠は、どこにもねえんだろ」  周囲には多くのコンテナがある。その中には武器になる物だってあるかもしれない。しかし、わざわざ開けて中を確かめるだけの時間を、エーカーは許さないだろう。 「そもそも、島国のイギリスが唯一の陸路を自ら破壊《は かい》する訳ねえだろ!! そんな事をしたって、自分で自分が損をするだけだ。現に今だって苦しんでいるじゃねえか!!」 「それが、そうとも限らない」  灼熱の拳銃に、ほとんど掌《てのひら》の表面を融合《ゆうごう》させながら、エーカーは言う。 「ユーロトンネルは過去に建造中止された事がある。軍事や政治の問題でな。あのトンネルはフランスとイギリスを繋《つな》ぐ重要な陸路だが、未《いま》だにその有効性を認めようとせず、ユーロトンネルを遮断《しやだん》しようとしている連中もいる訳だ」 「……、」 「我々はイギリスと手を結ぶ友好の証《あかし》として、ユーロトンネルの管理業務を共同で行う事にした。にも拘《かかわ》らず、連中は一方的にその流れを断ち切ったのだ!!」 「……その話には、根拠があるのかよ?」  上条は、慎重にロを開いた。 「イギリスが悪いとか、フランスが悪いとか、いがみ合う理由なんて、本当にあるのかよ! ここにあるコンテナの中身については、フライトアテンダントから話を開いた。普通のご飯を食べられない人|達《たち》のための流動食なんだろ。フランスの食品会社の人達が作って、イギリスの人達を助けるために届けられるはずの荷物なんだ!! イギリスとフランスの関係って、そういうものなんじゃねえのかよ? 世界中にいる全《すべ》ての人間が、テメエみたいに陰謀《いんぼう》だの何だのに付き合うとでも思ってんのか!!」 「確かに、イギリス国民の全てが悪いのではないかもしれないが、どこにでも馬鹿《ばか》はいる。善良な民衆の中に混じっているからと言って、その馬鹿を見逃してやるつもりはない」  エーカーは言いながら、拳《けん》|銃《じゆう》の引き金にかかった指に力を込める。  感覚が麻痺《まひ》したのか、彼はどこか笑っていた。 「どのみち、お前はここで死ぬ。だからお前が悩むような問題じゃない」 「……撃《う》てんのかよ。コーヒーの中に沈んでいた拳銃だぞ」 「近頃《ちかごろ》の拳銃は、泥水の中に三〇分|浸《つ》け込んでも、そのまま取り出して発砲できる。水で濡《ぬ》らした程度で弾が出なくなるとは思わない事だ。この辺りが、銃に疎《うと》い日本人の考え方だな」  言いながら、エーカーは迷わず引き金を引いた。  上《かみ》|条《じよう》は思わず目を瞑《つぶ》りそうになったが、かろうじてそれを押さえつけた。  そして、  ガキッという音が聞こえた。  それ以上は何も起こらず、銃口から弾が飛び出す事はなかった。  安全装置がかかっているのではない。弾が切れている訳でもない。  二度、三度と引き金を引き、呆然《ぼうぜん》とするエーカーの目の前で、上条は右《みぎ》|拳《こぶし》を握り締《し》める。  彼は言った。 「熱膨《ねつぼう》|張《ちよう》って知ってるか?」 「ッ!?」  返事を待つより早く、上条の拳が飛んだ。ゴッ!! という鈍い感触が、エーカーの顔から全体へと拡散した。それでも彼は倒れない。上条はさらに左の拳を握る。 「さっきのダクトと同じだよ。物体は加熱すると体積を変える!」  左の拳が飛ぶ。  殴《なぐ》られたエーカーの頭が、後ろへ揺らぐ。 「銃のパーツだって似たようなモンだ! 熱湯の中に浸け込んでりゃ、細かいパーツの一つ二つは歪《ゆが》んじまうだろ!!」  さらに続けて放たれた上条の右拳が、今度こそエーカーの体を薙《な》ぎ倒した。  ふう、と上条は息を吐《は》く。  元々、銃器は火薬を破裂させる事で、その小さな爆風を使って弾丸を射出する。一〇〇発、二〇〇発と撃ち続ける事で加熱される事もあるため、ある程度は熱に強くできている。しかし逆に言えば『普通に銃を撃っているだけでは熱くならない場所』は弱点になりかねないのだ。 (……とはいえ、本当にきちんと動作不良を起こすかどうかは、ほとんど賭《か》けだったんだけどな。不幸なのか幸運なのか……いや、テロリストと遭遇《そうぐう》している時点ですでに幸せじゃねえな)  ともあれ、ここから怒涛《ど とう》の三人目が現れたりしない限り、ひとまずスカイバス365の危機は去ったと考えて良いだろう。  ようやく肩から力を抜いた上《かみ》|条《じよう》だったが、  ガサリ、という物音が聞こえた。  上条はそちらを見る。  殴《なぐ》り飛ばされたはずのエーカーが、静かに起き上がろうとしていた。そして彼の足元には、バッグがあった。その中をまさぐっていた手が、抜かれる。中から出てきたのは、手榴弾《しゆりゆうだん》だ。 「……ッ!!」  上条は慌ててエーカーの腕を押さえつけようとしたが、エーカーの動きの方が早い。彼はものすごい笑顔を浮かべると、片手で持った手榴弾のピンへ、もう片方の手を伸ばす。  このままでは起爆する。  狭い空間では、上条に逃げ道はない。それに、おそらく対人殺傷用だろうが、確実にスカイバス365の外壁にダメージが加わる。もしそうなったらおしまいだ。この旅客機は落ちる。  その時だった。 『まったく、相変わらずの素人《しろうと》だね。君は殺す事を迷うから、周りまで危険にさらすんだよ』  声が、聞こえた。  それは上条の見知った男の声だった。  エーカーはこの不可思議な状況に眉《まゆ》をひそめたが、それでも手榴弾のピンを抜く動きを止めようとはしなかった。  そして、      20  コックピットで操縦桿《そうじゆうかん》を握っていた機長はまず音に気づき、怪訝《け げん》な顔でレーダーを見て異様に小さな点を発見し、それから窓に視線を移し、ビクリと肩を震《ふる》わせた。  ステルス性能でもあるのか、真っ黒で巨大な輸送機がすぐ近くを飛んでいた。  互いの間隔《かんかく》は一〇メートルもない。まるで空中給油を受けるような格好だが、それは小さな戦闘機《せんとうき 》だからこそ許される芸当だ。八〇メートルクラスの大型航空機同士がこの間隔で空を飛ぶなど、アクロバットどころの騒《さわ》ぎではない。ほとんど自殺行為だった。  ビジネスクラスの通路を歩いていた金髪ナイスバディのフライトアテンダントは、窓の外を見て驚《おどろ》いていた。輸送機の後部が開き、そこから何かがばら撒《ま》かれていた。紙吹雪《かみ ふ ぶ き》のように高空を舞っているものの正体は分からなかったが、彼女は無邪気に綺麗《き れい》だと思った。  貨物室に繋《つな》がるハッチの前で上《かみ》|条《じよう》の帰りを待っていたインデックスは、周囲の騒《さわ》ぎに引き寄せられるように窓の外へ目をやり、そして愕然《がくぜん》とした。彼女の持つ一〇万三〇〇〇冊分の魔道《ま どう》|書《しよ》の知識は、紙吹雪のように舞うものの正体が、ルーンのカードである事を看破していた。  そして、  貨物室では、エーカーのすぐ近くの壁で、異変があった。  ズン!! という音。  オレンジ色の何かが、壁から噴き出した。それは剣だった。炎で作られた一本の剣が旅客機の外壁を貫通し、機内にまで到達したのだ。  炎剣はエーカーの服を焦《こ》がしたが、肉体までは破壊《は かい》しなかった。  そして炎剣を生み出した張本人は、結果の善《よ》し悪《あ》しなどお構いなしに、炎剣を引っ込める。  直後だった。  ゴッ!! と空気が荒れ狂った。  貨物室にある全《すべ》ての空気が、エーカーの間近に空いた穴に向かって動き出したのだ。  当然、真っ先に被害を受けたのはエーカーだった。  まるで乱暴にドアを開閉するように、エーカーの体が壁に突っ込んだ。彼の腹が、航空機の穴に吸われていた。普通なら内部からバラバラになるはずだったスカイバス365という大型旅客機は、エーカーという蓋《ふた》を得る事でかろうじて崩壊を免れているのだ。  ただし、 「ぐごごごごごごごごごががががががががががががががががァァあああああああッ!?」  常時肉体を吸われ続けるエーカーが絶叫する。  それは文字通り、腹の肉を毟《むし》り取られるようなものだった。  無《む》|茶《ちや》|苦《く》|茶《ちや》な状況に目を瞠《みは》る上条に、炎の魔術師《まじゆつし》の声だけが聞こえる。 『エジンバラ空港まであと一〇分だ。それぐらいならそいつの命も保《も》つんじゃないかな。……まったく、曲がりなりにも「あの子」の管理業務を負っているんだから、これぐらいの覚悟は見せてほしいものだね』  言うだけ言うと、通信のような声は唐突に消えた。  しばし呆然《ぼうぜん》としていた上《かみ》|条《じよう》だったが、絶叫するエーカーがまだ手榴弾《しゆりゆうだん》を手にしている事に気づいた。彼はほとんど泡を吹きながらも、必死でピンを抜こうとしている。  それを、上条は片手で払った。  手榴弾は、面白《おもしろ》いほど簡単に遠くへ転がっていった。  最後の抵抗を失ったエーカーの背中を押さえつけながら、上条は笑ってこう言った。 「頑張れ」      21  黒幕はそんなニュースをテレビで観《み》ていた。  イギリス北部、スコットランド地方にあるエジンバラ空港に着陸したスカイバス365は、一時的に危険な状態にあったものの、乗員乗客の協力によって無事に問題を解決したようだ。そんな明るいニュースを眺める一方で、黒幕は様々な資料に目を通す。  黒幕が気に留めたのは、輸送機という項目だった。  事件を解決するために、イギリス空軍の輸送機が一機貸し出されている。  それもレーダー断面積の極めて小さい、学園都市の技術を借りたステルス輸送機だ。  思わずため息をつく。  イギリスという国は限界だ、と黒幕は考えていた。  この程度の問題を解決するのに、学園都市の力や技術を借りなければならないという事態に、落胆していたのだ。こんな状態で、本当に強い国になどできるものか。イギリス清教とローマ正教の戦争などというのは、やはり夢物語だったのだ。……少なくとも、他人の力を借りて戦うような連中に舵取《かじと 》りを任せているようでは。  黒幕はテレビを消して、資料を束ね、丁寧《ていねい》に整理しながら静かに思った。  ——やはり、我々が動くしかなさそうだ、と。 [#改ページ]    行間 二  よう。  これで二回目か。またアンタに助けられるとはな。  そうだよ。ロシア成教の支配地域から無事に亡命できたと思ったんだけどさ。ローマ正教とロシア成教が手を組んじまっただろ。おかげでローマ正教の支配地域だったはずのフランスにもロシア成教のヤツらの手が伸びてきた。ま、そんなこんなで大ピンチだったって訳だ。こういう逃走劇は、じーちゃんの老体には堪《こた》えるぜ。  せっかく組織を再編して名前も変えたっつーのに、占星施術旅団《せんせいせじゆつりよだん》はおかげさまで大人気だ。  で、今度は礼ぐらいはさせてもらえるんだろうな。前ん時は……そりゃ、ワシらも自分|達《たち》の事で必死だったが、それにしたってアンタが何も言わずに消えちまったモンだから、これでも結構後悔していたんだぜ。  そうそう、アンタはワシらを頼《たよ》ってくれれば、それで良い。  必要なのは……武器ねえ。  しかしまぁ、アンタが自分の武器を失うってのは、一体どんな事情か……ってのは聞かねえ方が良いのか。睨《にら》むなよ。ヤバいエピソードだっつーのは想像がつく。  ただまぁ、武器については良いもんが揃ってるよ。こっちもロシア側からの束縛《そくばく》が消えて、自由に世界を渡ってきた身だ。古今東西のいろんな道具に触れて、仕入れて、取り引きしている。アンタ好みの、怪物サイズの珍品《ちんぴん》だって取り扱ってる。  いくつか出しておくから、好きにテストしてみりゃ良い。  武器の方が壊《こわ》れるって? あのな。アンタに借りを返すって場面で、そんな半端《はんぱ 》なもんを持ち出す訳ねえだろ。今から見せんのは一級品なんつー、そんな次元の安物じゃねえんだよ。正真正銘《しようしんしようめい》の業物《わざもの》だ。歴史に名を残すどころか、歴史を作りかねないレベルのな。  ……いや待てよ。ここまで下手に前振りしてあっさり壊れちまったら、ワシの立場がねえな。ちょっとこっち来い。今から出し惜しみなしのナンバーワンの武器がある所まで案内してやるから。  あん? 別にもったいぶってんじゃねえよ。ありゃあワシ一人じゃ持ち運べるような物じゃねえんだ。重機使えば移動できるけど、そんならアンタを連れて行った方が手っ取り早いだろ。  こっちだこっち。  そうそう、この荷台。ローブを解いて、布を取り外してっと。  どうだ。  自分で言うのもなんだが、すげえだろ?  聖剣アスカロンだよ。  ハハッ。怪訝《け げん》な顔をしてんじゃねえよ。ワシだって分かってる。本物の伝承に、そんな名前の聖剣は存在しない。こいつは一六世紀未にとある作家が勝手に作っちまった『聖剣の物語』に基づいて、本物の魔術師《まじゆつし》が手掛けた霊装《れいそう》さ。『作中に登場する全長五〇フィートの悪竜が実在するものとして、その悪竜を斬り殺すために必要な剣の理論値とは何か』を徹底的《てつていてき》に計算し尽くして作り上げた、正真正銘《しようしんしようめい》の怪物兵器だよ。  全長三・五メートル、総重量二〇〇キロの鋼《はがね》の塊《かたまり》。  とある作家は片手で扱えるフォールションだって書いてやがったが、ちゃんと理論に基づいて悪竜殺しの聖剣を算出すると、こんな馬鹿《ばか》げたサイズになっちまうって訳さ。  持って行きな。アンタほど似合う持ち主もいねえだろ。  だがまぁ、そっちも大変だな。  アンタがワシら『元』占星施術旅団《せんせいせじゆつりよだん》を助けたのは、単なるイレギュラーな出来事だったはずだ。本来接触する予定じゃなかったワシらに武器の調達を依頼《い らい》している時点で、アンタが急いで戦う準備を整えようとしてんのは目に見えてる。  まぁ、何を言ってもアンタは戦いに行くんだろうけどな。それならワシは止めねえよ。ただ、出かけていく前に一つだけ、アンタに渡しておく物がある。イギリスに住んでる、とある職人から預かっていた物だ。あいつもワシと同じで、いきなり消えたアンタを簡単には忘れられなかったみたいだな。アンタは図面を破棄《はき》しろと言ったみたいだが、あのジジィ、こっそり完成させてやがったぞ。  ハハ、何だよ。  物を見るなり、そんなにしかめっ面《つら》するんじゃねえ。  いろんな事情があったとはいえ、元はと言えば、アンタが職人に依頼したものなんだろう?  その|盾の紋章《エスカツシヤン》。 [#改ページ]    第三章 イギリス迷路の魔術結社 N∴L∴      1  そんなこんなでエジンバラ空港に到着である。  エジンバラはスコットランド——イギリスの北の地方にある街の名前だ。ちなみにロンドンは南。今からさらに国内線の飛行機に乗り換え、ロンドンの空港へ行く必要がある。 「しっかし、いっぱいテレビカメラが来てたな。やっぱテロがあったからか?」  出入国ゲートを片言の英語で何とか乗り越えた上《かみ》|条《じよう》は、携帯電話の画面で現在の時刻を確認しようとして、 「ん? ああそうか、時差の調節しなくちゃならねえのか」  おそらく世界の主要都市の時間に一発で切り替えられる機能みたいなものもあるのだろうが、生憎《あいにく》と上条は携帯電話の分厚い説明書とかあんまり読まない人である。彼は携帯電話をポケットにしまうと、辺りをキョロキョロと見回し、壁に掛けられた時計を発見する。 「……夜の八時かー……。また最終便に近かったりしないだろうな……」  飛行機の事情にあんまり詳しくない上条は思わず呟《つぶや》いてしまう。  と、 「……とうグルまグルル……」 「ひっ!? い、インデックスさん!! わたくしの名を呼ぶ合間合間に獣《けもの》のような唸《うな》り声を感じるのですが!?」 「何故《なぜ》なら空腹で空腹で空腹でぶっ倒れそうだからなんだよ!! なんか結局ビーフオアフィッシュは有耶無耶《うやむや》にされて何にも食べていないし! これ以上は死んじゃう!! 何か食べなきゃホントに死んじゃうーっ!!」  相変わらず修道服ではなくワンピースを着ているインデックス(国内線とはいえ、飛行機にあの安全ピンだらけで乗り込むのは色々マズそうなので)は、両手をバタバタ振って全力のアピール。対して、上条はスーツケースに腰掛け、うーむと両腕を組んで、 「国内線でも機内食は出るんじゃね?」 「出ない気がする!! 根拠はないけど次も出ない気がする!!」  ……確かに、国内線のフライトスケジュールを見る限り、エジンバラ - ロンドン間の飛行時間は一時間もない。もしかすると、わざわざご飯なんて用意していないかもしれなかった。  上条、さらにうーむと考えて、 「……駄目《だめ》だ。お腹《なか》がすいた。なんか食べに行こう」 「とーォうまアァあああああああああああああああああああああああああああああッ!!」 「喜び過ぎてて怖えよ!! ヒトミん中が星だらけ! お前、ここ一番のダイナミックな笑顔になってるぞ!!」  とか何とか言い合いながら、上《かみ》|条《じよう》はインデックスを引き連れて、空港内の軽食コーナーを探すためにウロウロ開始。携帯電話のアプリである程度英語を勉強し始めているものの、相変わらず『実用』には程遠い。が、案内板にあるナイフやフォーク、コーヒーカップみたいな記号を頼《たよ》りに広い空港を歩いていく。 (……確か、土御門《つちみ かど》から渡された荷物の中に、イギリスの通貨が入ってたっけ。まぁ、ここで少し使っちまっでも必要経費だよな) 「とっ、とうま! 向こうの方からコーヒーの匂《にお》いがするんだよッ!!」 「ええー? そんなん別に感じないん——なにィ!? 本当に角の向こうに喫茶店が!!」  上条の視線の先に、全面ガラス張りになったちょっとお酒落《し や れ》なコーヒーショップが。……本当に旅慣れた人から言えば、わざわざイギリスまでやって来て、日本にも展開されているチェーン店っていうのもアレだろう、というさらなるツッコミが待っていそうな気もするが、平凡な小市民(テロ事件解決に尽力)である上条|当麻《とうま 》からすれば『ワーォご飯だーっ!!』という感じである。  まるで普段《ふ だん》のインデックスだな、と言うなかれ。当の彼女はと言えば、 「☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆!!」 「うわっ、うわっ、うわぁーっ!! インデックス、なんか言葉にならなくなってるぞ!! すごい瞳《ひとみ》! すごい眉《まゆ》! すごい唇《くちびる》! 総じて言えばすごい笑顔!!」  これは一刻も早く喫茶店に入って、ハムとレタスのサンドイッチでもロに放り込むしかないな、と上条は決意を新たにし、彼女の手を引っ張ってガラスの入口へと向かっていく。  その時だった。  唐突に、上条は後ろから、ポンと肩を叩《たた》かれた。  振り返ると、そちらにいたのは一人の女性だった。年齢は一八歳ぐらい。東洋系の顔立ちをしているものの、平均身長よりも長身だ。長い黒髪はポニーテールにしてあって、束ねた状態でも腰まで伸びている。服装は、片脚だけ根元からスッパリ切ったジーンズに、へそが見えるように絞ったTシャツ。さらにその上から、同じく片腕だけ露《ろ》|出《しゆつ》するよう切断されたジャケットを羽織《はお》っている。……そうした特徴的な服装以上に、何よりも西部劇のガンマンのようにベルトで提《さ》げた馬鹿《ばか》デカい日本刀『七天七刀《しちてんしちとう》』が全部をかっさらってしまっている。  お久しぶりです、と彼女の唇が動いた。  それを聞いた上条は、こう返答した。 「な、何故《なぜ》、堕天使《だ てんし》エロメイドがこんな所に……ッ!?」  その声を聞き、日本刀ガール神裂《かんざき》|火織《か おり》はブゴゥ!! と、いきなり咳《せ》き込んだ。ガハゴホと呼吸困難に陥《おちい》っている神裂は、半ばあえぐように息を吸い込みながら、必死に唇《くちびる》を動かし、 「えっ、英国王室からの要求で、あなたとインデックスをロンドンにある王家の住居・バッキンガム宮殿まで連れてくるよう頼《たの》まれたからです。そもそも、学園都市が用意した超音速旅客機の直行便に乗っていれば、こんな事をする必要もなかったのに……」 「いや、理由になっていない。この局面で、堕天使エロメイドでなければならない必然性は特にないはずだ……ッ!!」 「私は堕天使でもエロでもメイドでもありませんッッッ!! た、確かに、アックア戦の後に、恩を返すために、い、い、色々やりました。それは認めます。だが人の顔を見るなり第一声が堕天使エロメイドとはどういう事なのですか!?」 「仕方がないだろ!! 実際に堕天使みたいなエロメイドだったんだから!!」 「詳細に思い出しながら錯乱《さくらん》するのはやめなさいっ!! かっ、顔を真っ赤にするなーっ!!」  神裂は上《かみ》|条《じよう》が両肩を掴《つか》んでがくがくと揺さぶったが、何だか上条の方は神裂の目を見れない感じである。 「とっ、とにかく!! 今の私はそんないかがわしい存在ではありません! イギリス清教の使 いにして、新生|天草式《あまくさしき》|十字《じゆうじ》|凄教《せいきよう》の|女教皇《プリエステス》としてあなた達《たち》のお迎えに来たんです恥ずかしくないっ!!」 「それもそれで色々マズいっつーか、そもそも日本刀ぶら提《さ》げたまま空港の中をウロウロしているってどうなんだ!? もう、今日は何しに来たんだお前! 大体マジュツシってのが二人か三人ぐらい集まるととんでもない事が起こるんだ!! 上条さんに言ってみなさい!!」  ぎゃあぎゃあと叫び合う上条と神裂。  と、そこへインデックスが言った。 「とーうーまー……」  彼女の目は、すぐ近くにいる上条や神裂になど向いていない。その視線の先にあるのは、例のお酒落《し や れ》な喫茶店だ。 「……これ以上延ばし延ばしにされたら、私はとうまを許さないんだよ?」 「ええーっ!! 俺《おれ》のせい!? 違うと思うよ! 旅客機でテロが起こったのも、ここで神裂に話しかけられたのも、俺のせいじゃないと思うよ!!」  なんと弁解しようが、空腹に支配されたインデックスには届かない。わー、もう一刻も早く神裂との話を切り上げるか、彼女にも一緒《いつしよ》に喫茶店に来てもらうしかねーなーと上条は打算を始めていたのだが、 「そっ、そうですね。ごほん。急ぎましよう。時間も差し迫っています」  と、エロいメイドこと神裂《かんざき》|火織《か おり》がそんな事を言ってきた。  おおっ、話の分かるヤツ!! 空気の読める子ってステキです!! っつーか実は俺《おれ》も腹が減ってる事に変わりはないんだし!! と上《かみ》|条《じよう》は感動し、早速《さつそく》喫茶店の方へ足を向けようとした所で、神裂はさらに言う。 「先ほどのテロ事件の影《えい》|響《きよう》で、旅客機は全便が再点検のために一時欠航しています。ヘリとパイロットを用意していますので、それでロンドンへ向かいましよう」  ………………………………………………………………………………………………………。  上条はしばし沈黙《ちんもく》し、それから神裂の顔へ目をやった。 「……どういうこと?」 「元々、学園都市の超音速旅客機で直接ロンドンの空港へ向かう予定だったでしょう。それを急遽《きゆうきよ》、他《ほか》の旅客機に乗り換えてしまうものですから、おかげで予定を七時間もオーバーしています。もはや一刻の猶予《ゆうよ 》もありません。今回は英国の正式命令によって禁書目録を召集しているのですから、保護管理責任を負うあなたにもその辺りは自覚してもらわないと。……ちなみに、その子は修道服『歩く教会』の方へ着替えていただきますよ。ヘリの後部座席に着替えるためのスペースは確保させますから」 「……ごはんは?」 「食べている暇などあるはずがないでしょう。さあ、参りますよ。まったく、我々を待たせるだけなら問題ありませんが、事が英国王室の皆様にまで及ぶとなれば話は別です。それにしても、王家の血を引く者との約束を連絡なしで七時間もすっぽかすなんて……『王室派』自身よりも、頭の固い『騎士派《きしは》』の連中が知ったらと思うとゾッとします……」  まったくイミのワカンナイ事を言いながら、ずるずるずるずるーっと上条の手を引いて歩き出す神裂火織。上条としては、最優先に伝えるべき事柄は以下の通りである。 「っていうか現場から繰《く》り返しお伝えしますがご飯は!? さっきからインデックスさんが限界なのです!! このままでは空腹が生み出す怒りのエナジーがものすごい勢いで放出されそうな予感が……ッ!?」 「この子の管理業務はあなたの領分でしよう。あなたが何とかしてください」 「他人《ひと》|事《ごと》だと思って!! ……っつーか、キレてるでしょ? 堕天使《だ てんし》エロメイドでいじりまくったからちょっとキレてるでしょそこのお姉さん!!」 「いえ全く。完璧《かんぺき》と言って良いほど平然としていますからさっさとヘリに乗りますよ」  世界で二〇人といない『聖人』の握力を使って、神裂は上条の腕を掴《つか》んで移動していく。      2  英国第三王女・ヴィリアンは広い部屋に佇《たたず》んでいた。  テニスコートの半分ぐらいの大きさのこの空間が、ヴィリアンのテリトリーだった。有《あ》り体《てい》に言えば、彼女の私室である。国の内外どころか自宅の内側でさえ権謀術策《けんぼうじゆつさく》が繰《く》り広げられる英国王室において、ここだけが全《すべ》てを締《し》め出し、一人になれる『安全な場所』だ。 「……そうですか。はい、はい。何にしても、旅客機が無事にエジンバラ空港に着陸できたようで、何よりです」  ヴィリアンは表面が陶器でできた、アンティークな電話の受話器を握っていた。実際にはバッキンガム宮殿内にある最新鋭の交換器を通じて、巌重なセキュリティ暗号を施《ほどこ》されているらしいが、詳しい技術については知らない。  電話の相手は、エジンバラ空港の責任者だ。  そして、ヴィリアンが目下気にかけているのは、旅客機に積まれた荷物である。 「はい。テロ事件の直後という事で、色々と調べるとは思いますが……可能な限り、迅速《じんそく》に流動食を各家庭へ配れるように、お願いします。普通の食品をロにできない方々にとっては、文字通りの死活問題でしょうから……はい。一刻も早く、安心させてあげてください」  ゆっくりと受話器を置くと、ヴィリアンは軽く息を吐《は》いた。  正直、諜報《ちようほう》機関の人間に(暗号の有無などお構いなしに)盗み聞きされていた可能性もあるのだが、聞かれて困るような事は何も言っていない。  イギリスは複雑な国家だ。  イングランド、スコットランド、ウェールズ、北部アイルランドの『四文化』。  王室派、騎士派《きしは》、清教派の『三派閥』。  この二つの相関図が絡《から》み合って、『連合王国《United Kingdom》』という統治体制が確立されている。場合によっては同じ『騎士派』でもイングランド出身とスコットランド出身でいがみ合ったり、『王室派』と『清教派』でも同じウェールズ出身者の間でパイプが築かれていたりする。  第三王女・ヴィリアンが所属しているのは、当然ながら『王室派』。これは、彼女が王室の者として生まれた時からの定めでもある。そもそも、『王室派』の加入条件は、王の家系に連なる者か、その側近として政治的手腕を発揮できる者かの二択になる。国家を代表する三派閥と称されているが、単純な人口だけで言うなら、『騎士派』や『清教派』に比べると極端《きよくたん》に少ない。  『王室派』の役割は、議会政治を干渉・掌握《しようあく》し、実質的に国の舵取《かじと 》りを行う事。『騎士派』や『清教派』のように陰ながら活動するのではなく、警察や軍にも干渉できるため、最も表立った『力』を行使する勢力と言えるだろう。  とはいえ、第三王女・ヴィリアンには、特に何の権限もない。  英国の女王の娘である三人の娘は、上から順にこう評されている。  長女は頭脳。  次女は軍事。  三女は人徳。  ……つまり、ある程度の人望を得ているものの、ヴィリアンには『国を動かす』ほどの切り札が存在しないのだ。先ほどの電話の相手——エジンバラ空港の責任者にしても、『こんなにも気を配ってくれるなんて、お姫様はなんて優しいんだろう』などと思っているかもしれないが、だからと言って、『じゃあ忠誠を誓って一生仕えよう』とは決して考えないはずだ。  彼女の人徳は、派閥の拡大には繋《つな》がらない。  他《ほか》の姉|達《たち》から言わせれば『無駄《むだ》な努力』だけを続けるのがヴィリアンなのだ。  公務では『王室の顔』としてメディアに取り上げられ、下世話な週刊誌では『最も結婚したい姫君』などと書かれたりもするが……結局の所、英国王室における彼女の役割は『それ』しかなかった。  本気でする気もない政略結婚の餌《えさ》をチラつかせ、相手国の重鎮《じゆうちん》の集中を乱す。その隙《すき》を突いて、女王や二人の姉達がイギリスにとって有利な条約を締結《ていけつ》させる。  王室としての礼儀《れいぎ 》作法や、しとやかな挙措《きよそ 》などでそつなく『公務』をこなしているが、やっている事はほとんど精神的なストリッパーだと、ヴィリアンは思う。そして、いつかイギリスが回避《かいひ 》のできない危機に見舞われた時には、本当に政略結婚させられるだろうとも。 「……、」  広い部屋の中で、ヴィリアンは重たい息を吐《は》く。  ここ最近起こっているイギリスとフランスの間の諍《いさか》い。それは、彼女に『最悪の切り札』を連想させるには十分だった。  その時、彼女の考えを断つように、小さなノックの音が聞こえてきた。 「——ヴィリアン様」  分厚い扉の向こうから声を放ったのは、若い使用人の一人だった。彼女は民間出身の一般人で、魔《ま》|術《じゆつ》にも疎《うと》い。王室の補佐役には、王権神授——神の力の一部を権限という形で王に授ける、という伝統に則《のつと》り『神聖なモノの世話をする人員=ある種の巫女《みこ》』という役割を担《にな》う『近衛次女《このえ じ じよ》』という特別な役職もある訳だが、ヴィリアンは敢《あ》えて民間出身のメイドを従えている。 「——『騎士派《きしは》』『清教派』それぞれの長《おさ》と、日本の学園都市より訪英した『ゲスト』の少年達が当宮殿に到着いたしました。間もなく『謁見』です。ヴィリアン様も、ご準備のほどを」 「……分かりました」  彼女は返事をするが、今さら準備をする事などない。というより、私室の中であってもヴィリアンは最低限の公務を行える服装を解かない。彼女の人生は、常にある種の緊《きん》|張《ちよう》と共にある。  広い部屋を歩き、ドアを開けて外に出ると、扉のすぐ側《そば》でありながら、ヴィリアンの進路を塞《ふさ》がない位置に緑色のメイド服を着た女性が立っていた。目礼する使用人を従え、廊下を歩くヴィリアンは、ふと足を止めて頭上を見上げた。  長い長い直線の廊下は、天《てん》|井《じよう》も高い。そして、トンネルの照明のように、壁の左右には、盾の形をした紋章が等間隔《とうかんかく》にズラリと並んでいる。  歴代の騎士《きし》|達《たち》の紋章だ。  英国王室の別宅であるウィンザー城にも似たような廊下があるが、バッキンガム宮殿にあるのは魔術的《まじゆつてき》な派閥という意味での『騎士派』の紋章だけだ。この廊下に家の紋章を飾れる事こそが『名門』の第一歩であるとされ、英国のために剣を持つ者の憧《あこが》れであるという。  元々が『戦場で見分けがつくように』と開発された紋章であるせいか、各々《おのおの》の紋章は自己主張が激しく、ともすれば空間の調和を乱しかねないほどだ。しかし、それらを押して、この廊下の調和を最も乱しているものが一つある。  空白だ。  等間隔に|盾の紋章《エスカツシヤン》が飾られている中で、一ヶ所だけ、何も飾られていない場所がある。それは歯の欠けた櫛《くし》のように、ヴィリアンに強烈な違和感を突きつけてくる。  彼女は、その空白の正体を知っている。  本来ならば、英国のために戦い、その功績が認められて騎士の一員となるはずだった、一人の男。『傭兵《ようへい》』のままこの国を去った彼に、『騎士派』のトップは敬意を表し、今でもそこは欠番となっているのだ。  その空白を見つめ、ヴィリアンの唇《くちびる》は自然と動く。 「……ウィリアム……」  傍《かたわ》らにいる使用人は、何も語らない。      3  上《かみ》|条《じよう》達を乗せたヘリコプターが、ロンドンの一角にあるデカい公園に着陸する。……と上条は思っていたのだが、どうやらこれがイギリスの女王様が暮らしているバッキンガム宮殿とかいう住居の敷地《しきち 》らしい。実際に隣接《りんせつ》する二つの公園と融合《ゆうごう》するように存在し、英国の首都の一区画が丸々開けているのだから、まぁ勘違いしても無理もない話なのだが。  本来なら、そのスケールのデカさに感嘆の声をあげるであろう上条だったが、ぶっちゃけ今はどうでも良い。それをはるかに凌《りよう》|駕《が》する事態に見舞われている。  それは、 「とうまー……ごォォはァァんゥゥゥゥンンンンンンンンンンンンンンンンンンン!!」 「ひがぎゃああああぁああああぁあぁ!? もう噛《か》みつくとかそういう次元じゃなくて咀《そ》|嚼《しやく》が始まってませんかインデックスすわぁーん!!」  上《かみ》|条《じよう》の背中によじ登り、恐るべし意思表示を放つ銀髪|碧眼《へきがん》モンスター(ヘリの中で修道服に着替え済み)。それを横目に見ながら、神裂《かんざき》|火織《か おり》は一足先にヘリから降りる。 「……向かい風の影《えい》|響《きよう》で到着予定時刻を過ぎてしまうとは、我ながら失策。急ぎましょう。もう皆様お集まりのはずです」 「ねえ!! この惨劇《さんげき》を前にして、なんかコメントねえの!? 例えばサンドイッチぐらいならありますが的な!! もうそろそろ空腹にやられすぎたインデックスが別の生き物に変わりそうになっているんですがーっ!?」 「うふふ禁書目録の管理業務はあなたの領分でしょう。その様子だと想像以上にそつなくこなしているようで安心しました」 「やっぱキレてるよね!? 堕天使《だ てんし》エロメイドの件でぶちキレてるよね!? でも、そもそもあんな格好で病室へ飛び込んできたのは神裂じゃぐぎゅぅうううううう!!」  上条の言葉が唐突におかしくなったのは、神裂が彼の口を塞《ふさ》いだからだ。 「(……パイロットや他《ほか》の皆がいる場所でその会話は禁止です。分かりましたか?)」 「もぐぐががが砕けがごご聖人ごごごがぐぐ聖人の握力ってぐぐぐっ!?」  神裂はミシミシいってる上条を引きずるようにして、こっそり誘導灯《ゆうどうとう》を設置して書類上はヘリポートとしても使える四角い休憩スペースから件《くだん》のバッキンガム宮殿へと歩いていく。ちなみにインデックスは上条の背中に張り付いているので、何とも奇妙なエスコートに見える。  神裂が出入りに使おうとしているのは、表にあるであろうデカい門ではなく、いわゆる小さな裏口だった。  が、彼女がドアノブを掴《つか》む直前に、上条が口を開く。 「ちょっと神裂さんお待ちを!!」 「何ですかバレーボールのように顔を掴まれたまま」 「掴んでいる張本人が言う台詞《せ り ふ》じゃないよね! あと、この宮殿に上条さんが入っても大丈夫《だいじようぶ》でしょうか!? わたくしの右手には|幻想殺し《イマジンブレイカー》という力が宿っている訳ですが、足を踏《ふ》み入れた途端《と たん》に国宝のアレやコレが片っ端《ぱし》からぶっ壊《こわ》れて不幸な弁《べん》|償《しよう》ライフじゃないですよね!?」 「……何だ。そんな事ですか」  神裂はようやく上条の顔から手を離《はな》しつつ、 「それについては大丈夫ですよ。イギリスは魔《ま》|術《じゆつ》の発達した国ですが、現在、このバッキンガム宮殿はその手のセキュリティ機構が全《すべ》て撤去《てつきよ》されていますから」 「え、そうなの? 女王様が住んでいる所とかって言うから、てっきりとんでもない魔術|要塞《ようさい》になってるもんだと思ってたんだけど」 「確かに、そういう城塞《じようさい》もあります。王室の別宅であるウィンザー城などが典型例ですが」  言いながら、神裂は軽く息を吐《は》いた。 「このバッキンガム宮殿は他国との会談などにも使われますから。下手に魔術的《まじゆつてき》な機構を組み込んでしまうと、相手国の重鎮《じゆうちん》を罠《わな》の中へ誘《さそ》い込む構図になるため、外交上問題が生じます。別宅のウィンザー城でも公のパーティは開かれますが、こちらの場合は『英国女王《クイーンレグナント》は我々を罠にはかけない』という信頼《しんらい》を持つ者だけが招待される形になっていますね」  危険というのは物理的なものだけではないという事です、と神裂《かんざき》は言った。  彼女はインデックスを頭にくっつけたままの上《かみ》|条《じよう》の方から目を逸《そ》らし、 「それに」 「?」 「あの女王に関しては、そういうセキュリティは必要ないでしょう」  意味深な事を呟《つぶや》きながら、神裂は裏口のドアを開ける。  ドア自体は小さなものだったが、その先に広がっている景色は半端《はんぱ 》ではなかった。そもそも室内の表現に『景色』と使っている時点で、どれだけスケールがぶっ飛んでいるか、その片鱗《へんりん》が見えると思う。  宮殿——と名のつくぐらいだから、ピッカピカの成金ワールドでも広がっているものだと思っていた上条だったが、現実はそんなものではなかった。ちょっとした部屋ぐらいの幅のある廊下、踏《ふ》むのではなく眺めるためにあるような絨毯《じゆうたん》、あっちこっちに掛けられた絵画とか彫刻とか、おまけになんか紅茶のセットを運んでいるメイドまでいるのだから尋常ではない。 「来たか」  と、そんな景色とかメイドとかに圧倒されている上条の耳に、男の声が届いてきた。日本語だ。やってきたのはスーツの男だった。と言っても満員電車に揺られてヨレヨレになっているようなものではなく、パーティで己のステータスを誇示するために着こなすような……ぶっちゃけ上条には一生緑のなさそうなスーツだった。  その男を見るなり、神裂が口を開いた。 「騎士団長《ナイトリーダー》。移動手段の供与には感謝します」 「ヘリの事なら気にする事はない。我らにとっても必要な支出だった」  ナイトリーダーと呼ばれた金髪の男は、それから視線を上条の方に移した。 「ふむ。君が禁書目録の管理業務を負う者か」 「え、ええ? 管理業務とかって言われると微妙ですけど……」 「あの一〇万三〇〇〇冊を保全する人物とは、どのような者かと興味を抱いていたのだが……まさか頭に張り付ける形で管理していたとはな。恐るべし東洋の神秘」 「やっぱ変ですよね!? このようなイレギュラーに陥《おちい》った原因はズバリ空腹一本勝負!! もしよろしければ、わたくしの頭が本格的に噛《か》み砕かれる前に食パンなどをいただけないでしょうか!?」  はしたないですよ、と神裂が目で注意しようとしたが、騎士団長《ナイトリーダー》は片手で制すると、紅茶のセットを運んでいたメイドを引き留める。上《かみ》|条《じよう》|達《たち》はメイドからスコーンとかいう、パンとクッキーの中間みたいな食べ物をいただく事に。 「ん。——んん!? 何だこれ! しっ、染《し》みる、こう胃袋にじわじわーっと染みていくよこのスコーン!」 「そうか、それは良かった。では、皆も集まっているのでそろそろ行こう……」 「えっ、タダなの? これタダなの!? そうと分かれば遠慮《えんりよ》はしねえ。インデックス! 思いっきりやってしまいなさい!!」「こちとらハナから手加減するつもりはないんだよ!! スコーンスコーン!!」「そうだインデックス、やっちまえ!! 全部食っちまえ!!」 「……、いや、だからだな。事態は今も進行しているので、そろそろ出発……」 「バターをつけるとさらにレベルアップだな!!」「ブルーベリーもいけるんだよ!!」「だが敢《あ》えてなにも付けずに食うね!! 素材の美味《おい》しさを堪能するね!!」「じゃあバターとブルーベリーとイチゴジャムとハチミツは全部私のだからね!!」「それとこれとは話が別だこのクソ馬鹿《ばか》シスターッ!!」「ははははははは!!」「わはははははははは!!」「うまアハうま!!」  騎士団長《ナイトリーダー》はちょっと無言になると、俯《うつむ》いたままボソリと呟《つぶや》いた。 「……剣を抜くが構わんか?」 「説得ならこの私が!! 何とかしますからご安心をッ!!」  慌てて言いながら上条をぶん殴《なぐ》りインデックスを羽交《はが》い絞《じ》めにする神裂《かんざき》。メイドがそそくさと立ち去った事でスコーン天国はとりあえず終了である。      4  バッキンガム宮殿のデカい廊下を歩きながら、ふと上条はこう言った。 「っつか、そもそも何で俺《おれ》達はここに呼ばれたの?」 「……学国都市の案内役である土御門《つちみ かど》は何も言っていなかったのですか……?」  それを聞いた神裂がややうろたえたように告げる。  上条はこくりと頷《うなず》き、 「いきなり変なガスを喰《く》らって空港に置き去りにされた」 「あの野郎……」  神裂は思わず目を瞑《つぶ》って奥歯を噛《か》むが、上条としては、土御門っていつもあんな調子じゃね? アビニョンの時にはパラシュートつけて大空から突き落とされたし、程度の感想しかない。  横で話を聞いた騎士団長《ナイトリーダー》がロを開く。 「今から行うのは作戦会議のようなものだ。王室派、騎士派《きしは》、清教派のメンバーが集まった、な。王室派のトップ——つまり、王の血を引く方々が参加するため、建前では『謁見』という形になるが」  そこまで言うと、騎士団長《ナイトリーダー》は横目でチラリと上《かみ》|条《じよう》の衣服を確認して、 「……なので、できれば正装してもらいたかったが、まぁ、そういう事情なら仕方あるまい。Tシャツとズボンだからと言って、怒るような方でもないしな」  控え目の指摘を受けて、上条の肩がビックゥ!! と動く。  あれ、もしかして自分は今シャカイの常識レベルのヘマをしていませんか!? と焦《あせ》る上条だったが、そこで一緒《いつしよ》に歩いている神裂《かんざき》のおへそや生足を見ると、 「神裂もあんな感じだし、意外に大丈夫《だいじようぶ》か……?」 「何か失礼な評価をしていませんか。私の場合は術式の構成上必要と認められています」  神裂は言葉の上では怒りつつ、上条の視線から逃れるようにやや身をよじる。そこへ、インデックスがこんな事を言った。 「作戦会議って、そもそも一体何の作戦について話し合うの?」 「ふむ。禁書目録を正式に召集したのは『女王』のご判断だが、その程度には重要度の高い案件だ」  騎士団長《ナイトリーダー》は一つの扉の前で足を止める。  大きな宮殿の中でも、一際《ひときわ》巨大で荘厳《そうごん》な両開きの扉だ。 「君達もテレビのニュースで聞いた事はあるだろう。イギリスとフランスを繋《つな》ぐユーロトンネルが、何者かによって爆破された。三本並んで走っているはずのトンネルの、その全《すべ》てがな。この海底トンネルの破壊《は かい》に伴い、人員、物資の輸送が滞《とどこお》り、イギリス国内の経済に大きな打撃《だ げき》が与えられている」 「???」 「ようは、そのトンネルの爆破に魔《ま》|術《じゆつ》が絡《から》んでいる可能性が出てきたという訳だ。国家レベルの攻撃としてな」  言いながら、騎士団長《ナイトリーダー》は巨大な扉のノブに触れる。  その先が『謁見』の舞台——イギリスの女王が待つ作戦会議の部屋なのか。そう考えると、上条の背筋にも自然と緊《きん》|張《ちよう》が走る。禁書目録の保護者役、という扱いなのだから、特に発言を求められるような事はないだろうが、これから始まるのは、国の舵取《かじと 》りクラスの会議なのだ。  ごくり、と上条は息を呑《の》む。  騎士団長《ナイトリーダー》はノブを回す。  しかし扉が開け放たれる前に、隙間《すきま 》からこんな言葉が漏れてきた。 「ぐおおー……。ドレスめんど臭《くさ》いな。ジャージじゃダメなのかこれ……」  騎士団長《ナイトリーダー》の動きがピタリと止まる。  英語が分からず『?』と首を傾《かし》げている上《かみ》|条《じよう》に向かって、騎士団長《ナイトリーダー》はこう言った。 「……しばしお待ちを」  ボソッと放たれた言葉と共に、扉の隙間《すきま 》に身を挟むように室内へ入り込む騎士団長《ナイトリーダー》。 「ぬぐお!? 入る時はノックぐらいせんか貴様!!」 「謝罪はしますがその前に一言を。——テメェ公務だっつってんのにまたジャージで登場しようとしただろボケ馬鹿《ばか》コラ!!」 「いえーい騎士団長《ナイトリーダー》が一番乗りー」 「部屋へやってきた順番とかそんなのはどうでも良いんです!! いいから、女王らしく!! いや良いです。意外なキャラクターとか誰《だれ》も求めていませんから無理にエレキギターとか持ち出さないでくださいッ!!」  ドッタンバッタン、という物音に、扉へ不審そうな目を向ける上条だが、何故《なぜ》か神裂《かんざき》は日本語に訳してくれないし、インデックスはご飯を食べた後だからか眠そうに目をこすっている。  ややあって、騎士団長《ナイトリーダー》が扉の隙間から顔を覗《のぞ》かせた。 「……色々と面倒をかけて申し訳ない。もう大丈夫《だいじようぶ》だ。女王エリザード様は目を覚ました」 「?」  結局何だか良く分からないまま、上条は扉をくぐって中へ入る。  RPGなんかに出てくるような、階段状の壇《だん》|上《じよう》にデカい玉《ぎよく》|座《ざ》がある訳ではない。だだっ広いだけの空間は、パーティ会場として使う大部屋のようにも見えた。木の年輪のように、丸く何重にもテーブルが配置されているのが特徴的だ。たまにテレビで観《み》る、国連の会議場みたいだった。  そして、その中央。 『彼女』こそが、英国の女王様なのだろう。確か、エリザードと呼ばれていた。年齢は五〇歳前後。流石《さすが》に肌や髪など表面的な所は老いの影が見え始めているが、もっと根本的な部分……芯《しん》や骨格といった所が、一〇代の上条を凌《りよう》|駕《が》しているようにも見える。  身にまとっているのは、足の爪先《つまさき》が見えなくなるほど長いドレスだ。白と黒のツートンカラーでまとめられたその衣装は、おそらくガムでもくっつけたらクリーニング代で一生を費やす羽目《はめ》になるだろう。  さらに気になるのが、女王エリザードの右手。  そこにあるのは一本の剣だ。西洋風の典型的な両刃の剣で、長さは柄《つか》まで入れて八〇センチぐらい。ただし、切っ先はないし、刃もついていない。細長く四角い板のようなものが剣の柄についているだけだ。  イギリスの淑女《しゆくじよ》の見本たる女王様なのに剣を……しかも鞘《さや》に収めて腰に吊《つ》るしているのではなく、抜き身のままでウロウロ状態。  上条はその剣を見て、真《ま》っ直《す》ぐに感想を抱いた。  そして真《ま》っ直《す》ぐに感想を述べた。 「意外なキャラクター……ッ!? う、ウチの姫神《ひめがみ》があれほど努力しても手に入らなかった強大な個性を、こんなにも簡単に……ッ!!」 「いや違う、あれで正常だ! エレキギターや、サッカーボール、剣玉、サーフボードなどのいらぬ道具は全《すべ》て撤去《てつきよ》してある!! 馴染《なじ》みがないかもしれないが、あの剣こそが英国女王《クイーンレグナント》エリザード様の象徴なのだ!!」  騎士団長《ナイトリーダー》が悪夢を思い出すような顔で首を横に振った。  対照的に、女王は大口を開けて笑顔を作ると、 「これはカーテナと呼ばれる、王族専用の剣だ」 「かーてな?」  上《かみ》|条《じよう》が首を傾《かし》げると、女王より先に騎士団長《ナイトリーダー》が言う。 「代々の国家元首が手にしてきた神聖な剣だ。その剣の歴史を紐解《ひもと 》く事は、英園王室を理解する事と等しい」 「そんなに大したものでもなかろう。便利な道具であるのは認めるが、別にこの剣が折れた所で、王室が潰《つい》える訳ではないのだからな」  仰々《ぎようぎよう》しい言葉を、エリザードは笑って否定した。  その大雑把《おおざつぱ 》な、言ってしまえば『扱い慣れた』感じが、連に女王の手にカーテナという剣が馴染んでいる証拠のように思えなくもない。  女王は改めて上条の方を見て、カーテナについて語る。 「カーテナというのは、王の戴冠《たいかん》に使う儀礼剣《ぎ れいけん》だな。王様である証《あかし》ではなくて、王様を選ぶ者が持つ証。ま、見れば分かる通り、刃はついておらんし、切っ先も平らだ。ぶら下げていても問題はなかろう」 「奇異に見えるかもしれないが、文化の壁を乗り越えてもらえると、とても助かる」  騎士団長《ナイトリーダー》がそんな事を言った。  騎士《きし》とかサムライではない上条としては、刃のない剣の価値など分からない。  なので、神裂《かんざき》に尋ねてみた。 「(……あれって、そんなにすごい剣なのか)」 「ええ、まぁ」  神裂は頷《うなず》いた。 「あの剣の所有者は、擬似的《ぎ じ てき》ですが『|神の如き者《ミカエル》』と同質の力を得ますからね。大天使どころか天使長の力を自在に扱える時点で、まともな剣とは呼べないでしょう」 「てんし、ちょう……?」  不穏《ふ おん》なワードに硬直する上条に対し、眠そうなインデックスが言った。 「あらゆる天使の中で一番偉くて強い存在の事なんだよ」 「……、」  天使という単語だけでもろくな思い出がないのに、その中でも一番強いヤツと来た。  上《かみ》|条《じよう》が改めてエリザードの方へ向き直ると、女王は刃のないカーテナを肩で担《かつ》ぎ、 「使えると言っても、英国という限られた土地の中だけだがな。平たく言えば、カーテナは王と騎士《きし》に莫大《ばくだい》な『|天使の力《テレズマ》』を与える剣、といった所か」  そっけない調子で、そんな事を言う。 「ようは、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北部アイルランドの『四文化』中だけで適用する特殊ルールがあって、それを守るために王室派、騎士派、清教派の『三派閥』が存在する、という訳だ。そして、カーテナは『イギリスの中だけで成立するルールを束ね、イギリスを守る者に莫大な力を分配する剣』として機能している事だ」 「特殊ルールってのは……?」  上条が尋ねると、騎士団長《ナイトリーダー》がエリザードの言葉を引き継いだ。 「この国にはイギリス清教という独自の十字教様式が存在する。これは一五〇〇年代にヘンリー八世という王が、自国の政治を他国に干渉されるのを嫌《きら》って生み出されたもの。だからこそ、外部からの影《えい》|響《きよう》を跳ね除《の》けるため、『我が国はいかなる外部勢力からも絶対不可侵である事』と『イギリス清教の最高トップは国王であり、イギリス国王はローマ教皇の言葉を聞く必要はない事』の二点を確定させている」 「ローマ教皇よりも偉いもの、という訳で、ヘンリー八世は国王の立ち位置を『天使長』に定めた。そして、国王の元に従う騎士団を『天使軍』へと対応させ、イギリスの民を導く事にした訳だ。おかげで今では『カーテナを持つ英国女王《クイーンレグナント》は、その国内に限り、天使長「|神の如き者《ミカエル》」と同質の力を持つ』ようになった」  そう告げたエリザードは肩で担いだカーテナを一度下ろす。  女王は刃も切っ先もない剣をバトンのようにくるくると回しながら、さらに騎士団長《ナイトリーダー》の言葉を引き継ぎ直して言う。 「ヘンリー八世は一五〇〇年代のイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの四国を利用して、この機構を成立させようとした。四は『大地』を示す数字だからな。意味ある数の国家を材料に地図を組み立てる事で、『四国のみで成り立つ「全英大陸」』という魔術的《まじゆつてき》意味を生み出したかったようだな。……当時のローマ教皇を代表とする様々な権力からの干渉を受けず、ひたすらに高度な独自文化を謳歌《おうか 》する、偉大なる大陸。もしかすると、近隣《きんりん》諸国との煩雑《はんざつ》な政治に頭を悩ませていた王は、昔から伝えられている『でんせつの大陸』にでも憧《あこが》れていたのかもしれんな」  宗教的ではなく、政治的な理由。  イギリスという大きな国境に含まれる四つの国家だけで成立する『全英大陸』を用意し、『天使長』を国王に、『天使軍』を騎士団に対応させる事で、その大陸を手中に収める。  一国のみでは構築できない、複数の国家を『象徴』に使用した『全英大陸』の恩恵を受けられる仕組みを作った上で、政治的には『イギリスという大きな単体国家』が舵取《かじと 》りできるように調整したという、極めて都合の良い政治的メリットを生み出す制度。  連合王国。  そして、頂点に君臨して王国をまとめ、その力を最大限に扱う者。  女王。 「(……とはいえ、流石《さすが》に『|御使堕し《エンゼルフオール》』で感知されたほどド派手にはいかぬがな。力はあっても、私は人間。そう簡単に天使の術式を振るう事はできんようだ)」 「は?」 「何でもない。しかしまぁ、ヘンリー八世も一筋縄《ひとすじなわ》ではいかなかったようだな。元々彼は一五〇〇年代のイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの四国を素材に『ヘンリー八世は天使長ルール』を組み立てたかったようだが、当時のスコットランドは独立国で、イングランドと戦争を起こしていた。容易《た やす》く征服できると踏《ふ》んでルールを制定してしまったものの、予想以上にスコットランドは手強《て ごわ》く、『四国なくては成立しないルール』を危うく壊《こわ》されそうになったりしたようだしな」  他《ほか》にも、『四国の中で成立するルール』だから、かつて広がっていた国外の植民地では『ヘンリー八世は天使長ルール』を使えなくて困ったりもしたらしい。 「ちなみに現在ではアイルランドの独立を尊重して、該当エリアは『象徴』としては利用しておらん。北部アイルランドという形で一部地域を英国が維持しているのは、『四文化体制』をキープするのに必要だったからだな」  エリザードはカーテナをくるくる回しながらそんな事を言う。 「そんなこんなで、カーテナは『イギリスの王様を決めるための剣』から『イギリスの天使長を決める剣』にレベルアップしたという訳だ。……まぁ、王侯貴族にしか作用しない剣だから、民に対しては申し訳ないのだがな」  そこへ、横から神裂《かんざき》が付け加えるようにこう言った。 「私のような『清教派』の場合、天使長や天使に対応する事はありません。これまで通り『人間として十字教の力を振るう者』という扱いですから、カーテナの恩恵を受ける事はないんです。カーテナは『王様』と『騎士《きし》』に莫大《ばくだい》な力を与えるものとお考えください」 「イギリスは『四文化』の土地で成り立ち、それを守るために『三派閥』の組織がある。その『三派閥』の関係を構築するために、カーテナという小道具を応用している訳だな」  カーテナについて語る時、女王だけはその調子が軽い。  実感がないのではない。理解をした上で、伝統を笑い飛ばすだけの余力があるのだ。 「そんな訳で、カーテナについてのレクチャーはおしまいだ。少しはイギリスの歴史に出てくる小道具について分かったか?」 「じゃあ、このバッキンガム宮殿にセキュリティは必要ないって話は……」  上《かみ》|条《じよう》が恐る恐る尋ねると、女王はくだらなさそうな調子で言った。 「天使長を殺せる人間がいるか? 少なくとも、私はお目にかかった事がない」  ……なんか良く分からんが、とんでもない『儀式《ぎ しき》』に使う物らしいから、うっかり右手で触らないようにしよう、と上条は警戒心をマックスに移行。『王様を選ぶ儀式に使う剣』なんて、どう考えても国宝っぼいし、仮に色々やっちまったら大変な事になるに決まっている。  ところが、当の女王エリザードは、剣の価値にドン引きしている上条を見ると、さらに屈託のない笑みを広げて、 「仮に何かの因果でこいつが傷つき、破壊《は かい》されたとしても、別に誰《だれ》も責めはせんよ。そもそもこいつは、歴史的には『カーテナ=セカンド』だからな」 「いや、名前だけ言われてもサッパリなんですけど……」 「ようは、二本目って事だ。歴史上、最初に登場した『カーテナ=オリジナル』はどこかへ行ってしまってな。儀式に支障が出るから急遽《きゆうきよ》作られたのが、この『カーテナ=セカンド』。だから、仮にこいつが折れても、新たなカーテナが生まれるだけだ。そう気負わんでも良いよ」  そんなもんなのか……? と首をひねる上条だったが、そこへ後ろから声がかかる。 「まったく、そんな訳がないわ。『カーテナ=セカンド』は確かに『王室派』の手によって人為的に作られた二本目ですが、現在ではその二本目を作る製法すら失われているもの。軽々しく三本目、四本目が作れるだなんて、そんなそんな」  音源は、出入り口の扉だった。  部屋に入ってきたのは、女王に負けず劣らず豪奢《ごうしや》なドレスをまとった、三〇代前半ぐらいの美女だった。こちらは青を基調としたドレスだが、スカートに広がりはなく、脚のラインにピタリと吸いついているようだった。左目には片眼鏡がかけられていて、それも知的というか冷徹《れいてつ》な印象を強くしている。肩にかかる程度の髪は、黒。それも染めているのか、不自然なほど艶《つや》のある黒髪だ。  豪奢だが、派手ではない。不思議としっとりした印象だけを与えてくる女の人だった。 「(……第一王女・リメエア様です)」  神裂《かんざき》がこっそり耳打ちする。  一方で騎士団長《ナイトリーダー》は、件《くだん》の第一王女が側近どころかメイドの一人も従わせず、たった一人でやつてきた事に驚《おどろ》いたようだった。 「言ってくだされば、部下の者を……いいえ、私が直接出迎えに上がりましたが」 「ああ。いけません、いけません。そんな、他人を従わせるなど。みすみす背中を刺される危険を増やしてどうするの。私は、私を知る者に、私の信頼《しんらい》を預けるつもりはないのだから」 「……、」  言われた騎士団長《ナイトリーダー》は、機嫌《き げん》を悪くするかと思いきや、呆《あき》れたように息を吐《は》いただけだった。どうやらリメエア王女の人間不信はいつもの事らしい。 「まーた姉上はジメジメしてるの?」  と、今度は赤いドレスを着た女性が入ってきた。ドレス……と言っても先ほどまでの二人とは違い、所々に真っ赤なレザーがあしらわれているため、何だかボンテージっぽく見えなくもない。赤いドレスの女性の歳は二〇代ギリギリ後半ぐらい。彼女の方は、左右に二人の騎士《きし》を従えている。  こちらは対照的に、華美な女性だった。  彼女のスカートも広がりはなかったのだが……どうやら、ワイヤーか骨組みでも入っているらしい。入口をくぐると、赤いドレスのスカートがパンッと音を立てて、パラソルのように不自然なほど大きく展開される。 「まったく、この姉上は相変わらず鬱陶《うつとう》しーな。世界の全部が信じらんないなら、とっとと死んでしまえば丸く収まるのに」  あねうえ? と上《かみ》|条《じよう》が首を傾《かし》げていると、赤いドレスの女性がこちらをジロリと見る。 「第二王女のキャーリサ。歴史ぐらいは学んでおいたら? 少年」  生まれただけで歴史年表に名前が載るのか……と上条はスケールのデカさに驚《おどろ》く。キャーリサの方は上条になど興味がないようで、 「ヴィリアン。何だ、お前も来てたの」  不意に投げられた言葉に、いつの間にか部屋の隅にいた緑色のドレスを着た女性がビクッと肩を震《ふる》わせた。長い金髪に色白の肌、そしてスカートが大きく広がったドレスと、こちらは典型的な、それこそ絵本にでも出てきそうなお姫様だったが、彼女自身は目立つ格好を好んでいないらしい。身を縮め、広がったドレスのスカートを両手で押さえつけるようにしながら、ヴィリアンと呼ばれた女性は音もなく目礼すると、そのままそそくさと距離《きより 》を取る。 「私の妹の第三王女。つまらないヤツだろう?」  何ともコメントのしづらい言葉を平然と放つキャーリサ。その声はヴィリアンにも届いているはずだが、第三王女の方は身を小さくするだけだった。  と、女王のエリザードは三人の王女が部屋に入ってきた事を確認すると、こんな事を言った。 「そろそろみんな集まってきたな」  その掛け声は、『謁見』という名の作戦会議が始まる事を暗示しているのか。おそらくこれから、軍人とか魔術師《まじゆつし》とか、いろんな人|達《たち》がいっぱい入ってくるのだろう。この場に用意された椅子《いす》の数だけ数えてみても、一〇〇人以上の大規模な『会議』になるのは目に見えている。 (……なんつーか、場違いだな)  上条が心の中で苦笑した時、さらに女王は告げる。 「さて、それじゃ適当にトンズラするか」  …………………………………………………………………………………………………。  上《かみ》|条《じよう》がポカンとし、インデックスの方を見たが、彼女もキョトンとした顔のままだった。さらに神裂《かんざき》の顔を見ると、彼女は呆《あき》れたように息を吐《は》き、騎士団長《ナイトリーダー》も苦い表情で疑問顔の上条から目を逸《そ》らす。  そんな中、エリザードは笑顔でこう言った。 「大きすぎる議場の場合、全《すべ》ての発言が記録されるため、思うように自分の意見を述べられない事も多い。それに現在一秒一秒進行中の事態に対して、一〇〇人単位の人間がああでもないこうでもないと言い合っても時間を浪費するだけだ。時には少人数短時間で話を決めてしまった方が効果的な場合もある」 「……女王陛下の場合、その事例が多すぎる気もしますけど」  騎士団長《ナイトリーダー》がボソッと言う。  面食らった上条は、巨大な会議場を見回し、 「でも、ええと、その良いんですか? 少人数でやるのは良いけど、仲間外れにされた方は快く思わないんじゃ……」 「なぁに。その場合はこう言ってやればよい。……文句を言って横槍《よこやり》を入れたがるのは結構だが、貴様の政策通りに事を進めて失敗した場合、全ての責任を貴様が負っても良いのだな、と」 「……うわあ」 「専門家ヅラして『意見』を言いたがる連中は多いが、その『責任』まで覚悟している者は意外と少ない。そして、そんなレベルの連中に場を乱されても困るのだ。特に、国の舵取《かじと 》りをする場面ではな」  女王エリザードの言葉に、第二王女のキャーリサも頷《うなず》く。 「最低でも『王室派』、『騎士派《きしは》』、『清教派』の各代表が揃《そろ》ってれば構わないの。……私としては、禁書目録を召集した『清教派』のトップがここにいないのが気に食わないけど、まぁ『聖人』が代理に現れたんなら許容しよーか、といった所か」 「す、すみません。ウチの最大主教《アークビシヨツプ》は例によって、裏でコソコソやっているようです」  神裂がそんな事を言いながら頭を下げた。  それにしても、と上条は思う。 『騎士派』は騎士団長《ナイトリーダー》、『清教派』は神裂|火織《か おり》として……『王室派』は『女王』に第一、第二、第三王女と目白押しだ。なんというか、招待される人員に偏《かたよ》りがあるようにも感じられるが、 「うふふ。結局、良かれ悪《あ》しかれ、この国は『王国』……王様の国という事なのよ」  第一王女のリメエアが、上条の顔を見てそんな事を言った。国家としての意志決定に関してやはり『王室派』の意見が最重要視される、という訳か。上条がそう思っていると、何故《なぜ》か第三王女のヴィリアンが申し訳なさそうに無言で頭を下げてきた。  一方で、キャーリサは上《かみ》|条《じよう》を指差して言う。 「ところで、『王室派』、『騎士派《きしは》』、『清教派』の代表はよしとして……そこの小僧はどーいう役割なの? 会議に出席させる上での立場を明確にしておきたい」  不要な人員なら省きたい、と暗に示しているような口調だった。  上条としても、特に絶対参加しなくては気が済まない、という訳ではないのだが、女王はニヤリと笑ってこんな事をロにした。 「そいつは旅客機を乗っ取ろうとしたフランス系テロリストの排除に無《む》|償《しよう》で尽《じん》|力《りよく》し、我がイギリスの国益と国民の命を救った、いわば勇敢なる功労者だ。その功績と経験を認め、意見を拝《はい》|聴《ちよう》しても構わんと思うが?」 「ふーん。なるほど、そーくるの」  第二王女は何故《なぜ》だか笑みを広げ、自分の顔を上条のそれに近づけると、 「勇敢、か。なら問題ない。悪くない言葉だし」  ううっ、と上条がちょっと引き気味になっているのもお構いなしに、女王のエリザードは話を締めくくる。 「それでは、適当に会議を始めるか。このまま時間を浪費しては、何のためにトンズラするか分からなくなる」      5  女王を始めとして上条|達《たち》が集まったのは、会議場のある一階から階段を使って三階まで上った上で、広い廊下の曲がり角にある、応接用の簡素なスペースだった。各々《おのおの》がソファに座り、適当にくつろいでいる様子を見て、通りかかったメイドがビクッと肩を震《ふる》わせている。  上条は軽く面々の顔を見る。  イギリスの女王様に、お姫様が三人、騎士派なんて大仰な組織のトップと、絵本に出てきそうな役職の人達がてんこ盛りである。上条の知り合いのインデックスや神裂《かんざき》にしても、片や一〇万三〇〇〇冊の魔道書《ま どうしよ》を正確に記憶《き おく》する禁書目録に、片や世界で二〇人といない聖人。……ここは本当に二一世紀の現代社会なのか、と疑いたくなる面子《メンツ》だった。 (……ホント、何で俺《おれ》はこんな場違いな所にいるんだ……?)  居心地の悪くなった上条はソファから立ち、何となくの癖《くせ》でポケットから携帯電話を取り出し、モニタで時間の確認などをしてしまうのだが、そこでふと電話に小さなレンズがついているのを思い出す。  カメラだ。 「(……うーん、女王様にお姫様か。どいつもこいつも思わず一枚撮りたいほど有名人だらけだけど、こんな派手派手な宮殿の中で携帯電話を構えるってのは相当アレだよなぁ……)」  思わずブツブツ言いながら、携帯電話を折り畳《たた》もうとする上《かみ》|条《じよう》。  と。  気がつくと、いつの間にか第二王女のキャーリサが今まで以上に急接近していた。さっきまで上条の前で向き合っていたはずなのに、今は上条の隣《となり》に並び、露《ろ》|出《しゆつ》した肩がちょこんと触れるか触れないかの位置にいる。その状態で、上条の方へ首を傾け、携帯電話の画面を見ているのだ。まるで電車の中で、つい隣の座席の人が読んでいる雑誌に目が向いてしまった。そんな感じの体勢だった。  別にメールなどを読んでいた訳ではないのだが、何となく上条は画面を隠しつつ、 「……フィルムが貼《は》ってあるので、横からじゃ見えないっすよ」 「馬鹿《ばか》|者《もの》、王女はコソコソそんな事しない。そーではなく、撮影したいのではなかったの?」  怪訝《け げん》な顔になった上条が携帯電話片手に改めて首だけ回して振り返ってみると、何やらキャーリサは正面(=カメラのある方向)に対して体を斜めに傾け、顎《あご》を小さく引いてここ一番の柔らかい表情を作り上げている。  ドン引きした上条は言った。 「……なぁ、その写真用の顔って練習してんのか?」 「何を言う、この程度は基礎の基礎。大衆の前で演説するのと違って、いくらでも撮り直しができるし、最も優れたものを使うだけで安易に威厳《い げん》を保てるの。これでも、料理の見本写真のよーに専用の光源や化粧を用意しないだけ十分以上にフェアなんだけど」  撮影用の表情で固定されたまま反論するキャーリサ。  そこから感じられるのは『はよ撮れ、はよ』という催促《さいそく》だ。……わざわざ表情を作っている所を見ると、別にカメラを向けられる事自体が嫌《いや》という訳ではないらしい。  もう一枚撮らないとキャーリサは永遠にこの表情のままな気がしてきたので、上条は携帯電話を撮影モードに切り替え、にゅーっと椀を伸ばす。 「しかし、まぁ……良いのか、これ。携帯電話のカメラで王女と記念撮影って、俺《おれ》はもしかして相当に世間知らずの馬鹿な子なんじゃなかろうか……?」 「流石《さすが》にケータイのカメラは珍《めずら》しーけど、どーせやるなら少しでも綺麗《き れい》な顔を残した方が良いというのはほとんど条件反射のよーなものだし。……言っておくけど、私だけの悪癖《あくへき》という訳じゃないから。ほら、姉上もカメラの気配に気づいて接近してる」 「うわっ!?」  気がつくとキャーリサとは反対側の隣に第一王女のリメエアが立っていた。彼女は上条が握っている携帯電話の画面に目をやりながら、 「……おやおや。妹のキャーリサがバッチリ映っているのに、この私が見切れているのは許せないわね。ううんと、こう、もっと、こう、近づけば、これでオーケー……?」  そもそも携帯電話の小さな画面に三人収まるのは難しいのだが、リメエアは強引に上《かみ》|条《じよう》の方へ体をぐいぐいと寄せ、何とかフレームに収まろうとする。そのせいで色々としっとりした柔らかい所が色々と上条の腕にぶつかり、 「(……ぐわあ!? ちょっと、何これ。何この唐突な状況!?)」 「(……ん? 別に構わないけど、堅物の騎士団長《ナイトリーダー》が気づくと剣を抜くので隠しておいてね)」 「——ッ!! !? ??」  ものすごい笑顔で固まる上条。  さらにそこへ、 「……、」  こそっと。誰《だれ》にも気づかれないほど静かに、上条の背後に立つ第三の影。無言のままちゃっかりフレームに収まっているのは、第三王女のヴィリアンだ。 (待ってくれ。他《ほか》の二人と違って、この人はおしとやかなお姫様とお見受けしたのに!!) 「おー。やっぱり、どーせ撮られるなら主導権ぐらいは握っておきたいものだしねえ」 「……私は、別に……」  姉の言葉にゴニョゴニョ反応する第三王女だが、顔はしっかり証明写真系のクールな表情をキープしている。  もうイギリス王室って一体どうなってるんだ……と首を傾《かし》げる上条は、とにかくさっさと一枚撮って終わりにしよう、と適当に考える。  しかしそこで待ったをかけた者がいた。  イギリスの女王様・エリザードだ。 「……まったく、お前|達《たち》はここがどこだか分かっているのか?」  刃も切っ先もない剣、カーテナ=セカンドの先端《せんたん》をくるりと回し、ドカリと床に押し付けた女王は呆《あき》れたようなため息をついていた。それを見て、(第一王女の乳が上条の乳に密着している事には気づいていない)騎士団長《ナイトリーダー》と神裂《かんざき》|火織《か おり》がうんうんと頷《うなず》いている。そうだそうだ、言ってやれ言ってやれ、という感じに。  だからエリザードはこう言った。 「ここは連合王国、女王の国だぞ? 主役の私を置いて撮影開始とはどォいう事だあーッ!?」 「ああもう馬鹿《ばか》め!! 他国の者の前で遠慮《えんりよ》なくお祭り好きの魂《たましい》を見せつけやがって……ッ!! 今は作戦会議の時間です!!」  上条達の元へダッシュしようとする女王を、両手で頭を掻《か》き毟《むし》った騎士団長《ナイトリーダー》が全力のタックルで阻《はば》む。ドタバタと転がる二人を見て顔を青くする上条の脇《わき》を、第二王女が肘《ひじ》の先でちょいちょいとつついた。彼女は目で語っている。馬鹿は良いからさっさと撮れ。  ばちーん、と電子音つきでシャッターを切ると、床に押し倒されたエリザードが、ガバア!!と絶望的な表情で顔を上げた。 「わあ撮りやがった!! ホントに私を除《の》け者にしたまま撮りやがった!! やり直しやり直し、私も写るからもう一枚どうだろう!?」  カーテナ=セカンドをぶんぶん振り回して喚《わめ》く女王だったが、三人のお姫様|達《たち》は『やるべき事はやった』という表情を浮かべると、それぞれがソファの元の位置へと歩いていく。  しばらく床の上で色々と打ちひしがれていたエリザードだったが、作戦会議の事を思い出したのか、やがてふらふらとした動作で起き上がると、こんな事を言った。 「ぎ、議題はフランスについてだ」  上《かみ》|条《じよう》に気を遣っているのか、その他全員は日本語ぐらいマスターしているのか、彼女の言葉は日本語だった。  第一王女のリメエアは占いの載っている複数の雑誌を広げながら、 「フランスとは?」 「うむ。順を追って説明するか。問題の発端《ほつたん》は今から五日前に起こった、ユーロトンネルの爆破事故だ」  娘である第一王女の言葉に、女王のエリザードは軽く頷《うなず》く。 「イギリスとフランスを繋《つな》ぐ唯一の陸路であるユーロトンネルは、三本並んで海底を走っているはずなのだが、それが全部まとめて吹っ飛ばされた訳だ。私はこれを、フランス政府による破壊《は かい》工作であると判断した」 「……証拠は、あ・る・の・か・な?」  口を挟んだのは、第二王女のキャーリサ。  ただし、それは懐疑《かいぎ 》|的《てき》なのではなく、さっさと戦争の引き金を引いて物理的に問題を収拾したい——そう言っているような、物騒《ぶつそう》な口調と表情だった。  女王は首を横に振った。 「そのために召集したのが禁書目録だ。事にフランス系ローマ正教の術式が使用されていれば、そこの一〇万三〇〇〇冊が正しく解析してくれるだろう」  エリザードに見据えられ、インデックスはキョトンとした顔をする。  女王は自分のこめかみを人差し指で軽く叩《たた》きながら、 「証拠が集まり次第、こちらからアクションを起こす。私に言えた義理ではないが、フランスもフランスで国家の意思決定は割と複雑な手順を踏《ふ》んでいる。中にはローマ正教からの一方的な干渉を嫌《きら》う部門もある。穏便《おんびん》に済ませたい勢力と接触できれば、対話で問題を解決できるかもしれない。……もちろん、イギリス側の希望的観測に基づく策だから、できたらいいなレベルの実現性しかないのは認めるがな」 「フランス……って事は」  と、眉《まゆ》をひそめたのは上条だ。  重要な会議の場で発言しても大丈夫《だいじようぶ》かな、とおっかなびっくり彼は言う。 「今日起きた旅客機のハイジャックも関係してんのか? 確か、あいつらもフランス系だった気がするけど」  ふむ、とエリザードは上《かみ》|条《じよう》の顔を見た。 「あれに関しては、おそらくシロだな。少なくとも、政府の息がかかっているとは思えない。ただし、起こると分かって泳がせていた可能性までは否定できんがな」  女王は息を吐《は》いて、 「現地の警察によると、どうも連中は『銃器を使わないハイジャック方法のノウハウを教える代わりに、複数の組織から協力を得ていた』と供述しているようだが……それについても、本当に『複数のテロ組織』なんて実在していたかどうかは分からん。……フランス政府が、何かと『我が国の犯罪者は我が国で裁く』と言って犯人|達《たち》の身柄の引き渡しを求めてくるのも、きな臭いと言えばきな臭いな」  ある程度の疑問は口にするものの、深くは切り込まない。  情報が少なく、考えても分からない問題に対し無意味に拘泥《こうでい》するような人物ではないようだ。 「例のハイジャックによって弱点を指摘されたおかげで、イギリスにおける空輸の主役だったスカイバス365モデルは当分使い物にならん。スカイバス365以外の全《すべ》ての旅客機に関しても、安全確認のために緊《きん》|急《きゆう》点検を行う。平時なら許容範囲内のロスだが……陸路を塞《ふさ》がれている身としては、この損失は笑い事にならん」 「これで、海路を封じられれば完全に孤立してしまうけど、どう?」  第一王女のリメエアが、何故《なぜ》か色々な雑誌にある占いを読みながら、退屈そうに発言する。  星座や血液型、タロットや九気学(……漢字なのに、上条には読み方も分からない)など、複数の方式の記事に目をやりながら、 「例えば、そう、イギリスの周辺海域に航空機を使って機雷をばら撒《ま》くなどはいかが? 仮に一発でもヒットすれば、民間企業は及び腰になるかもしれないわ。……本来は機雷のない海域であっても、ね」 「……相変わらず、悪知恵ばかり働いてるな」  キャーリサが忌々《いまいま》しそうに呟《つぶや》く。  リメエアの方は褒《ほ》め言葉と受け取ったのか、単に雑誌の占いで幸運とでも書かれていたのか、うっすらと微笑《ほ ほ え》みながら、 「しかし、仮にフランスを潰《つぶ》した所で、本当に解決するかは疑問の一言ね。フランス系ローマ正教の術式。……確かに今回の件は、直接的にはフランスの手によるものでしょうが、どうせ、バックには『連中』が絡《から》んでいるのよね。この問題の構図は、イギリスとフランスの諍《いさか》いではなく、イギリス・学園都市とローマ・ロシア勢力の対立と考えるべきよ。尖兵《フランス》を討った程度で満足してはいけないし、尖兵《フランス》を討つためだけに全力を使い果たしては、後が保たないわね」  騎士団長《ナイトリーダー》もその言葉に同意した。 「……ローマ正教とロシア成教が手を結んだ事で、EUのみならず、非加盟の国家も含めて、ヨーロッパのほとんどの国家はローマ・ロシア勢力の息がかかっています。現状、イギリスは孤立しつつある。ここでフランスを退けても、他《ほか》の国が尖兵《せんぺい》となる可能性が高いでしょう」 「しかも、問題はそれだけではない」  エリザードの言葉に、全員がそちらへ注目した。 「先ほどの旅客機へのハイジャック事件の渦中で、一つ気になる事が見つかった」 「気になる事……?」  思わず呟《つぶや》いてしまった上《かみ》|条《じよう》に、女王は頷《うなず》く。 「あの件の解決にあたっては、『清教派』の『|必要悪の教会《ネセサリウス》』の手を借りていた。一種の幻術を使って、コックピットの燃料メーターの表示を改ざんする形でな。成功していれば、燃料が急速に減じている——つまり燃料が漏《も》れていると勘違いし、こちらで狙《ねら》い定めた幹線道路に不時着を余儀《よぎ》なくされる。後は待機していた『騎士派《きしは》』の『ロビンフッド』による狙撃《そ げき》で、間髪入れずに壁ごとテロリストをぶち抜くはずだった」 「でも……そんな事ってあったつけ?」  その機に乗って奮闘《ふんとう》していた上条は、そんな事実はなかったと記憶《き おく》している。  女王のエリザードもこう言った。 「そう、実際には失敗に終わった。何者かが[#「何者かが」に傍点]、遠距離から幻術を妨害したからだ[#「遠距離から幻術を妨害したからだ」に傍点]」  彼女は騎士団長《ナイトリーダー》から紙の資料を受け取ると、それを目の前のテーブルへ軽く放った。ちょうどインデックスの目の前で、複数のレポートが扇のように広がって、止まる。 「一応『調査中』となっているが、一〇万三〇〇〇冊でも同じかな?」  女王が簡単に言うと、インデックスはわずかに資料へ目をやった。  魔道書《ま どうしよ》図書館・禁書目録は、悩む素振《そぶ》りも見せなかった。 「北欧系の術式だね」  スラスラと、迷いなくインデックスは答える。 「北欧の女の術者が得意とするセイズ魔《ま》|術《じゆつ》は、ある種の歌なんかを利用して『幻覚を見ながら』扱うものだけど、その『酔い覚まし』に使われる術式を応用しているみたいだよ。これは脳をごまかす種類の幻影と、直接的に映像を出現させる幻像の両方に対応しているね」  ふむふむ、とエリザードは頷いた。  と、占いは読み終えたのか、リメエアは効果的なマッサージのページの端《はし》を折りながら、 「妨害というと、相手も魔術師かしら」  その言葉に、キャーリサは眉《まゆ》をひそめる。 「……先ほどの話では、ハイジャックに参加したテロリストはそっちの専門家ではないという事だったけど?」 「問題は、その『妨害』の出所が、同じ英国のスコットランド地方だった事だ」  苦い調子で女王は答える。  キャーリサの表情が、サディスティックに歪《ゆが》む。 「敵は外だけではないのか」 「フランス系の魔術師《まじゆつし》がいつの間にか入り込んでいたのか、イギリスの魔術師が寝返ったのか。どちらであるかによって対応が変わるけど、いかがかしら?」  ある雑誌を放り捨て、別のものを広げつつ、リメエアは笑う。  だが、エリザードは首を横に振った。 「違うな。問題の魔術師がやった事は、たった一回、こちらの幻術を妨害した事だけ。……本気でテロの成功を願っているなら、最後まで面倒を見るはずだ。例えば、問題が終結した旅客機を、地上から撃《う》ち落とすとかな」 その意見に、上《かみ》|条《じよう》の背筋がゾッとする。 「こう考えてみろ。遠距離《えんきより 》から幻術を妨害できる腕がある以上、応用すれば攻撃《こうげき》にも転じられる可能性が高い。にも拘《かかわ》らず、魔術師はそれ以上の事をしなかった。となると、魔術師の目的はテロを手助けする事ではない[#「テロを手助けする事ではない」に傍点]、という可能性が浮上する」 「犯人に協力しないのに、幻術だけは妨害する理由……?」  キャーリサが疑問をロにすると、女王はこう付け加える。 「我らの作戦は、都合上旅客機を不時着させるために滑走路を用意する必要があった。大きな幹線道路を封鎖《ふうさ 》する形でな。……件《くだん》の魔術師が旅客機の行方《ゆくえ 》に興味がないとすれば、そいつの狙《ねら》いは『幹線道路の封鎖を解除する』事だったのかもしれん」 「……って事は、その魔術師ってヤツは、何としても、近々その道を通らなければならない理由があった……?」  上条が呟《つぶや》く。  エリザードはつまらなさそうに息を吐《は》くと、 「仮に、その魔術師が『幻術は「|必要悪の教会《ネセサリウス》」が発動しているもの』と認識した上で、己の目的のために妨害したとすれば、そいつは相当の馬鹿《ばか》だ。だが、国を敵に回してでも実行したいという願いを感じる。当然ながら、極めて不穏《ふ おん》な願いをな」 「イギリスとフランスの間の諍《いさか》いだけでも頭が痛いのに、国内にも独立した危険分子《テロリスト》が存在する、と。そういう訳ですか?」  騎士団長《ナイトリーダー》が答えると、女王は頷《うなず》いた。  これで、大きな問題は二つに増えた。外側と内側……イギリスは現在、その両方からの攻撃に対処しなくてはならないのだ。 「問題の幹線道路は、スコットランドからイングランドへ繋《つな》がる道だ。そして妨害自体は、スコットランドから放たれていた。……となると、不穏な魔術師とやらは、スコットランドを南下してこちらへ向かっているかもしれん」 「念のため、『清教派《こちら》』でもスコットランドを本拠地とする結社群を調べさせますが」  と、発言したのは神裂だ。 「何分《なにぶん》、今回の混乱を好機とみなしている国内の魔《ま》|術《じゆつ》勢力も大小色々ありまして。すぐに特定できるかどうかは保証できないのが現状です」 「それで構わん。全力を尽くしてくれれば結構」  エリザードは言う。  そこで、今まで口を開かなかった第三王女のヴィリアンが、部外者の上《かみ》|条《じよう》よりもオドオドしながら口を開いた。 「フランスにローマ正教、さらにテロリスト……」  伏し目がちの彼女は、胸の前でそわそわと両手の指を絡《から》ませながら、 「彼らにしても、伝えたい事があるからこそ、行動を起こしているはず。その意見に耳を傾け、武力以外の方法で解決を導く事はできないものでしょうか」 「無理に決まってる」  断じたのは、第二王女のキャーリサだ。 「会話が重要なのは認める。だが、必要のない場面でベラベラしゃべっても意味はないの。そもそも、会話に応じるにしても、やられた分ぐらいは返しておかないと」  第一王女のリメエアも、雑誌に載っている美容に良い洗顔の特集をチェックしながら頷《うなず》いた。 「私はキャーリサほど物理的な方法は好まないけど、この局面を手早く切り抜ける事には賛成。なに、国家間の遺恨《い こん》を最小限に留《とど》める術《すべ》も存在するので、ご心配なさらずに」 「……、」  二人の姉の言葉に第三王女のヴィリアンは何か言いたげだったが、結局|黙《だま》ったままだった。  その様子を見ていた女王が、やがて口を開く。 「ともあれ、我々のやるべき事は二つ。一つ目は、外敵であるフランスに『応対』するため、ユーロトンネル爆破の原因を調べる事。二つ目は、内敵である魔術師の所属と狙《ねら》いを探り、必要ならば的確に撃破《げきは 》する事だ」 「優先順位は?」 第二王女のキャーリサが口を挟む。 「……私としては、一つ目の方が良い。『武力的な外交』のために、とっとと戦力の準備を始めたい事もあるし」 「いいや」  対して、エリザードは首を横に振る。 「すでに起こった事件の調査と、これから起こる事件の阻止《そし》だ。優先すべきは国内の魔術結社の排除とする」 「チッ」  キャーリサは露骨《ろ こつ》に舌打ちしたが、それ以上は食い下がらなかった。その様子を見ながら、女王は続ける。 「ここはセオリー通りに進めるか。外敵……対フランス用のユーロトンネル調査は『騎士派《きしは》』に、内敵……イギリス国内の魔《ま》|術《じゆつ》結社については『清教派』に、それぞれ主導権を預ける。ただし、禁書目録は通常の『清教派』の魔術結社の捜索ではなく、こちらの調査のために別行動とさせてもらう」  端的《たんてき》に、各々《おのおの》の方向性を示していく女王。  大《おお》|仰《ぎよう》な威厳《い げん》や組織の沽券《こ けん》など、権力者にありがちな『余計な装飾』など一切付け加えない。あるのは、現場を知る者としてやるべき事を弁《わきま》えた、事務的な指示だけだ。  その割り振り方は、まさに指揮官のものだった。 「決定事項は各組織に伝達しろ。……いずれの懸案《けんあん》にしても、素早く終わらせる事にしよう。何せ、事件は同時に一つしか起こらない、などという優しい法則はどこにもないのだからな」      6  神裂《かんざき》|火織《か おり》は携帯電話を耳に当てていた。  一見すると通話しているように思えるが、実は違う。情報を送受信しているのは電話機ではなく、そこに取り付けられた鳩《はと》のストラップだ。ゴム製のマスコットが振動し、それが『声』を作り出している。 『ええ、はい、はい。そうです。一応、エジンバラを中心にスコットランドの魔術勢力について調べていますが、やはりこちらの組織構造は「結社予備軍」が主流のようですね』  声の主はアニューゼ=サンクティス。  元々はローマ正教で一部隊を率いていた少女で、現在は部隊ごとイギリス清教の傘下《さんか 》に収まっている。どうやら、彼女|達《たち》はその最大の武器である『数』を使って、例の『幻術を使って不時着を妨害し、幹線道路を使ってスコットランドからイングランドへ向かっている集団』について調査をしているらしい。  近くで聞いている上《かみ》|条《じよう》やインデックスを横目で見ながら、神裂はロを動かす。 「『結社予備軍』というと……魔術結社と呼ばれるほど洗練されたものではなく、単に魔術に興味を持った新入りが固まって作り出す、クラブ活動や同好会のようなものですか」 『大体三〜五人ぐらいの集まりみたいですね。活動内容は恋の占い程度といった組織が、一〇○から二〇〇ほど確認されています。大抵の場合、活動といっても「瞑想《めいそう》」や「精神的活動」に終始するようで、他人や実社会に影響を及ぼす事なく自然消滅するようですが』 「……そんな連中が、国家を相手に事件を起こすと?」 『「結社予備軍」の特徴は、本当にくだらない小物と、本当に洗練された大物が混在している事です。今回の件については、金の卵の集まりだった、という事でしょう』 「すると、すでにある程度|素《す》|性《じよう》は割れているんですか」 『詳しい事はのちほど話しますが、随分《ずいぶん》前からコソコソ活動している痕跡《こんせき》がありましてね。どうやら以前から色々|企《くわだ》てていたようですが、実行に移すだけの「きっかけ」がなかったようです。不自然な機材の購入先や、不審な目撃《もくげき》情報などを追い掛けている内に浮上しました』  アニェーゼは自然な調子で答えた。 『私|達《たち》は数で勝負する部隊ですからね。人海戦術に加えてイギリス清教の権限も貸してもらえりゃあ、ある程度の情報を入手する事はできちまうんです』  アニェーゼは何かのメモを読み上げるように言う。 『彼女達の組織名は「新たなる光」。典型的な「結社予備軍」の組織構造をしていますが、その洗練ぶりは他を圧倒しています。どうやら、身軽なポジションを維持するために、敢《あ》えて「結社予備軍」という立場を利用しているようです。構成メンバーは四人。名前や写真などの資料は後でそちらへ送ります』 「本拠地は?」 『踏《ふ》み込みましたが、遅かったです』  アニェーゼの口調に苦いものが混じる。 『ただ、そこそこの霊装《れいそう》を製作できる環境は整っていました。北欧系の匂《にお》いがしましたがね。それと、ある都市の詳細な地図もあります。単に道や建物の配置だけじゃない。市内に数十万台あると言われる防犯カメラの位置も含めた、相当に詳細な地図です』 「数十万台のカメラ……まさか」 『ええ』  アニェーゼは一拍置いて、こう言った。 『ロンドンです。どうやら相手は、本当にそっちでコトを起こすつもりのようですね』  神裂《かんざき》はわずかに唇《くちびる》を噛《か》む。  今度は、アニェーゼの方から質問が来た。 『連中が使用する幹線道路は割れているんでしょう。そこからロンドンまでのルートを算出して、検問を敷《し》いちまってみては?』 「……手配はしますが、完璧《かんぺき》という保証はありません。北欧系と言うと、都合良く気配や存在を隠す霊装も存在しますし、最悪、一本道の検問を真《ま》っ直《す》ぐ突破される恐れもあります」 『そんなに生ぬるい事を言っていないで、物理的に道を全部|塞《ふさ》いじまえば……』 「できる事なら私もやっています。ですが、国外との物資のやり取りすら不足しているのに、イギリス国内の輸送路まで封じてしまっては、自分の首を絞める結果に繋《つな》がりかねません。検問程度が限界でしょう」 『となると……』 「可能な限り市外で食い止めるよう努めますが、最悪、ロンドン市内で動くかもしれません」  神裂《かんざき》は携帯電話を持ち直し、 「連中の狙《ねら》いについては? 具体的に、ロンドンで何をするかは掴《つか》めましたか」 『これは先ほども「連中は以前からコソコソ活動している」と、ちょっと触れましたが……』  やや言葉を濁《にご》すように、アニェーゼは小さな声になった。 『確証は持てませんけど、「新たなる光」のメンバーは、このスコットランド地方で何らかの「発掘作業」を行っていた節があります。……まあ、作戦計画書のような物を手に入れた訳ではなく、ヤツらが購入した機材のリストからの推測ですけどね』 「発掘作業……?」  神裂は眉《まゆ》をひそめる。  アニェーゼの方も、『確証が持てない』のは本音であるのか、やや戸惑いを含む声色で続ける。 『主に城塞《じようさい》跡地で活動していたようですが、具体的に何を得ようとしていたかは不明。ただし、時間と資金の比重の掛け方からして、計画の中枢を担《にな》う「何か」なんでしょうね』  おそらくは、魔術的《まじゆつてき》な物品——霊装《れいそう》。  しかも、作るのではなく掘り出すとなると、『現代の材料で作り出すのは難しい』レベルのもの、という事だろうか。 「となると、『発掘』した霊装をロンドンへ持ち込み、何らかの破壊《は かい》活動を行うと考えた方が良いのでしょうか」 『確証は持てませんが、暗喩《あんゆ 》めいたメモがあります。今日の日付と、簡単な文章だけですが』  アニェーゼは一拍置いて、 『——「今日、イギリスを変える」だ、そうです』 「確かに、意味は分かりかねますが……とても、平和的な意味には解釈できませんね」  神裂は携帯電話を改めて掴み直し、 「アニェーゼは引き続き『新たなる光』の本拠地の調査を。スコットランド地方の『発掘』で何を入手したのか、それをロンドンへ持ち込んでどうする気なのか。その辺りの狙いを掴む事で、先回りできる可能性も増えます。……私|達《たち》は『新たなる光』を可能な限りロンドン市外で迎撃《げいげき》するつもりですが、最悪、ロンドン市内での交戦も考慮《こうりよ》します。その場合に備える意味でも、『新たなる光』の装備品について調べてください」  了解、という声と共に、通信は切れる。  今までボケーッと突っ立っていた上《かみ》|条《じよう》とインデックスに、神裂は言う。 「……私は天草式《あまくさしき》と共に、これからロンドン市内の警戒に当たります」 「例の、国内の魔術師《まじゆつし》|達《たち》と戦うためにか?」 「ええ。あなた……というか、インデックスはユーロトンネルの爆破現場へ。そちらの調査に同行するため、フォークストーンへ向かってください」 「フォークストーン? ユーロトンネルって、ドーバーって所を通っているんだろ」 「ええ。ですがユーロトンネルのイギリス側の入り口であるターミナルは、そこから数キロ離《はな》れたフォークストーンという街にあるんです。ですから、早くそちらへ向かってください」  え? え? とうろたえる上《かみ》|条《じよう》だったが、そこへ横槍《よこやり》が入った。 「いーや。悪いが少年、お前はフォークストーンには同行できないみたいだ」  近づいてきたのは第二王女のキャーリサだ。  彼女は上条の右手を指差して、 「一応報告は受けてるが、そいつはあらゆる魔術を無効化するはず。だとすると、魔術的な方法で現場を保存してるユーロトンネルに近づけさせるのはまずそーなの。解析作業にも影《えい》|響《きよう》を及ぼすかもしれないし」 「しかし、彼はイギリス清教と学固都市が共に認める、インデックスの保護者役です」 「それは分かるが、事はイギリスとフランスの関係を左右させるの。おまけに、その右手は詳しい原理や仕組みについては『不明』なんだろう? 本当に調査に影響を及ぼさないか、保証がある訳ではないし」 「では……」  神裂《かんざき》が言い淀《よど》むと、キャーリサはこう言った。 「これから、私達三姉妹と禁書目録の手で、ユーロトンネルの調査を行うため、ターミナルのあるフォークストーンへ向かう。護衛には『騎士派《きしは》』の部隊をつける。騎士団長《ナイトリーダー》直属の部隊だ。それなら問題ないだろう」  キャーリサは軽い調子で、 「『清教派』の護衛が一人もいないのが不満と言うなら、お前がフォークストーンまでついてくれば良いけど……この局面で、そちらも人員を割《さ》くのは難しいだろう。私としても、足を引っ張るつもりはないの」 「それは、そうですが……」  言葉を濁《にご》す神裂。立場上、どの道、文句は言えないのかもしれない。  むしろ、部外者である上条の方が発言しやすそうな環境だ。 「三姉妹って事は、女王様は行かないのか?」 「母上は別宅のウィンザー城で何やら作業があるらしいの。フランスに対する小細工の準備かもしれない。おそらく、『清教派』のトップがコソコソしてるのと関係あるんだろう」  神裂や『|必要悪の教会《ネセサリウス》』はロンドンへ向かう魔術師達の捜索。  三人のお姫様とインデックスはユーロトンネルで調査活動。 『女王』と『清教派』のトップはウィンザー城でコソコソ。 「……で、ぶっちゃけ俺《おれ》は何したら良い?」 「とうま!!」  第二王女が答える前に、インデックスが腰に両手を当てて叫んだ。 「事件が起こると行かなきゃいけない、っていうのは、とうまの悪い癖《くせ》だよ!! とうまは単なる一般人なんだから、全部終わるまでここで待っていれば良いの!!」 「いやぁ、良いんじゃないの? 『|必要悪の教会《ネセサリウス》』だって国内外で幅広く活動してるために、今は人員不足なんだろう。使える人材は使える所へ回した方が効率的だ」 「い、いえ。確かに、現状では人手がいくらあっても足りない状況ですが……それでも、民間人を危険にさらすのは得策とは思えません」  と、そこへ女王のエリザードが通りかかった。  彼女はこう言った。 「ああ、そうか、そうだな。民間人なら無理に協力してもらう必要はない。事態が収拾するまで、ここで好きにしてもらって結構だ」 「そうだよ、とうま」  うんうん、とインデックスは頷《うなず》いていたが、 「ただし、国益を伴わぬ人員の滞在《たいざい》費用については、国民の血税で賄《まかな》う訳にはいかない。後日、別途で計上させてもらう事になるが構わないな? なぁに、悪趣味《あくしゆみ 》な高級ホテルのスイートルーム二、三部屋分と思ってもらえば安いものだろう」  ……イギリスの平和のために、謹《つつし》んで協力させていただきます、と上《かみ》|条《じよう》は頭を下げた。      7  牛乳かバターのCMにでも使えそうな風景だった。  地平線の向こうまで、なだらかに凹凸する緑色の大地。所々にポツポツと建っている牛舎やサイロ。今は午後一一時|頃《ごろ》なので、牛も小屋の中で眠っているのだろうが、昼間ならゆっくりと牧草を食《は》んでいる乳牛をたくさん見られた事だろう。  そんな緑色の牧草地を切断するように、一本の道が走っている。  そして、その一本の道を、一台の自動車が走っていた。家族で来るにしては、少々手狭な感のある、小さな自動車だ。どこかで借りてきたレンタカーらしき車の中には、四人の少女|達《たち》が詰め込まれている。  後部座席に座っている一人の少女が、窓を開けて首を外に出していた。青っぽい色のミニスカートに、野暮《やぼ》ったいジャケットのファスナーを首まで上げた格好をした、一〇代前半の女の子だ。長い黒髪は、先端《せんたん》の方だけ三編みにされて束ねられている。 「だー、もうすぐこの緑の匂《にお》いともお別れですかぁ……」 「ちょっとレッサー。ケツが見えているわ。あとあなたの尻尾《しつぽ》がすごく邪魔《じやま 》」  不機《ふき》|嫌《げん》そうな調子で言ったのは、彼女の隣《となり》に座っている一八歳ぐらいの女だ。銀髪の彼女もレッサーと同様の格好だが、ジャケットはない。上着は長袖《ながそで》のスポーツ用のシャツで、やたらと胸の部分がぐぐっと盛り上がっていた。首元には小さなボタンが二、三個あるが、全《すべ》て外されているので、ちょっと谷間が見えている。ミニスカートの内側にある脚は、青いレギンスによって足首まで覆《おお》われていた。  彼女は目の前で揺れる『尻尾』を掌《てのひら》でペシリと打つと、 「引っ込めないと引っこ抜くから」 「ベイロープのケチんぼ。というか、何をそんなにイライラしているんです?」  レッサーは窓の外に目をやったまま、『尻尾』に命令を送る。引っ込めると言っても体内に収納するとかいう訳ではなく、ミニスカートの内側……太股《ふともも》の付け根の部分に、蛇《へび》のように巻きつかせるだけだ。  と、『尻尾』を収納するための挙動なのか、今度は尻《しり》を高く上げるレッサー。  顔の前に白いパンツを突きつけられたベイロープの眉《まゆ》がピクビクと蠢《うごめ》き、 「だからっ!! 引っ込めろとっ!! 言ったはずだわッッッ!! !! !!」 「ぐわァァああああああああ!? いきなり両手で鷲掴《わしづか》み!? ちょっと、ベイロープが作戦前で実はテンパってるんですけど!! フロリスも何とか言ってやってください!!」 「えー、ワタシは今、運転で忙しいからなぁ」  ハンドルを握った金髪の少女はやる気なさげだ。一五歳程度の年齢で、やはり格好は前述の二人と似たり寄ったり。こちらはスポーツ用のシャツの上からジャケットを羽織《はお》り、ミニスカートの下はスパッツである。 「……それより、いつまで経《た》っても景色が変わんないなぁ。迷うような道じゃないはずだけど。ランシス、本当にこの道で合っているんだろね?」  と、フロリスと呼ばれた運転手は、助手席にいるナビ役で茶色い髪の少女に話題を振ったが、 「や、やめて……。くすぐった、あふぁ、まっ、魔《ま》|力《りよく》が、魔力を受けりゅと、かっ、からだがっ、くすぐったくなって、いひひひひひ……」 「くそっ、自分で作った魔力に当てられてぷるぷるしてやがる。生命力を魔力に精製する途中で、何がどうなったら、こんな『くすぐったさ』に襲《おそ》われるんだ……?」  フロリスは舌打ちすると、ルームミラー越しに後部座席に目をやり、 「そこで官能小説に突入しかけているレズ二人。スキーズブラズニルの準備は終わってんの? せっかくアレ[#「アレ」に傍点]を『発掘』したんだから、入れ物の方にも気を配ってもらわなきゃ困るんだよ」 「馬鹿《ばか》|者《もの》!! そんな手つきでは尻が痛いだけですッ!? えっ? あの『ケース』の事? そんなら四つ全部調整終わっていますけど」 「上出来だレッサー。あと、ベイロープの弱点はふくらはぎだと伝えておこう」  バタバタン!! と体勢が入れ替わる震動《しんどう》が小さな自動車を揺らす。フロリスは肩凝《かたこ 》りを気にするように、片手をハンドルから離《はな》してもう片方の肩を軽くさすると、 「『翼《つばさ》』の調子も良好、と。……その分だと、『尻尾《しつぽ》』の方も心配なさそうだな」  ルームミラーには、どったんばったん暴れるレッサーのミニスカートからウニョウニョ蠢《うごめ》く霊装《れいそう》が映っている。動物というよりは、デフォルメされた悪魔《あくま 》に近い『尻尾』だ。 「ランシスの『爪《つめ》』は大丈夫《だいじようぶ》なの?」 「あふぇ……じゅんびおっけー……く、くすぐった、いひ」  助手席からの返事を聞くと、フロリスは改めてルームミラーに視線をやる。 「おい、まだ『ハサミ』の調整が終わってないだろ。向こうに着く前にやっておけよ。ワタシはご覧の通り、運転するのに手一杯。ランシスはくすぐったさでぷるぷるしていて使い物になんない。手を動かせるのはアンタ達《たち》だけなんだからさ」 「テンパったベイロープを縛《しば》ってくれるんならいくらでもやりますよっ!! というかコイツ、ふくらはぎ程度じゃビクともしないんですけど!!」  そりゃあ面倒|臭《くさ》いなぁ、とフロリスは無視して正面を睨《にら》む。 「さて、と。そろそろ気を引き締《し》めろ。これから英国って枠組みそのものをぶっ潰《つぶ》すんだから」  道路は分かれ道になっており、その手前に交通標識が立っていた。そこには英文と矢印の簡単な図面で、こんな事が表記されていた。  ——直進、ロンドンまで三〇キロ。      8  上《かみ》|条《じよう》は赤いオープンカーの助手席にいた。  夜のロンドンは、なんというか、排気ガス臭《くさ》い。何百年単位の歴史的な建物が数多く並んでいる訳だが、そんな景色に反する形で、ムードぶち壊《こわ》しな臭気《しゆうき》に包まれている。 「しっかし、まさかここでアンタが出てくるとはなぁ」 「あら。お姉さんとしても、意外な展開だったわよ?」  マニキュアでギラッギラになっている指をハンドルに添えている魔術師《まじゆつし》は、くすくすと微笑《ほ ほ え》みながらそんな事を言った。  オリアナ=トムソン。  金髪|碧眼《へきがん》でとにかく爆乳のお姉さんだ。かつて、学園都市の大規模な体育祭『大覇《だいは 》|星祭《せいさい》』に乗じて、相棒のリドヴィア=ロレンツェッティと共に破壊《は かい》活動を行おうとした過去がある。  上条、ステイル、土御門《つちみ かど》の三人を同時に相手にして互角以上に戦うなど、驚異的《きよういてき》な戦闘《せんとう》能力で知られるが、最終的にその野望は阻止《そし》され、身柄をイギリス清教に預けられたという事だったが……。 「まぁ、お姉さんにも色々あってね。ちょっとした取り引きをして、今ではイギリスのために腕を振るう事になっているのよ」 「……っつーか、ユーロトンネルの爆破って、フランスと、その背後にいるローマ正教が関係してんだろ。イギリス国内で動いてる魔術師《まじゆつし》については知らんけど、関係性あるかもしれないし。アンタ、牙剥《きばむ 》いちまって大丈夫《だいじようぶ》なのか?」 「一応断っておくけど、お姉さんの本分は魔術系の運び屋。どこかの組織に忠誠を誓っている訳ではないわ。どの勢力に協力して誰《だれ》と戦うかは自由よ。……だから、報《ほう》|酬《しゆう》さえいただけるなら、あなた個人のために汗を流してあげても構わないって、ワ・ケ」  甘い息を吹きかけられて、思わず体をガチガチにさせる上《かみ》|条《じよう》。なんというか、この色っぽい姉ちゃんは色々とニガテな高校生である。 「ふ、ふうん。じゃあ何か、運び屋としてのスキルを活用して、どこにいるか分からない魔術師を見つけ出すのを期待されてるって感じなのか」 「まぁ、逃げる技術と追う技術は、実際には全然違うものなんだけど。この辺は実際に肌で感じてみないと分からないものなんでしょうね」 「で、今はどこに向かっているんだ?」 「容疑者である四人構成の魔《ま》|術《じゆつ》組織『新たなる光』がロンドンに入る入らないって話があったけど……どうも、道中に張られた検問は無駄《むだ》に終わったようね。おかしな痕跡《こんせき》が見つかったわ」 「……もう入っちまったっていうのか?」 「ロンドンには数十万台の防犯カメラが設置されているって話は知ってる? その中にある、ロンドン北部の映像なんだけど」  言いながら、オリアナは細い指先でカーナビのボタンを操作した。街灯の視点から道路を見下ろしたような、不思議なビデオ映像に切り替わる。 「今から一〇分前の映像よ」  早送りになった映像をしばらく睨《にら》んでいた上《かみ》|条《じよう》だったが、 「……おい、何も起こらないぞ」 「起きているでしょ。画面の上の端《はし》。自動車の影ができているのが見えない?」  言われてみればそんな感じがするが、だったら無理にこのカメラの映像を見せる必要はないんじゃないだろうか、と上条は首をひねる。数十万台もカメラがあるなら、画像の中央に自動車を映しているものだってありそうなものなのに……。 「ないのよ」  上条の疑問に、オリアナはあっさり答えた。 「どの映像を見ても、その自動車がどの経路からやってきたのか、それを示す映像が見当たらないの。こいつは数十万台あるカメラの配置を全《すべ》て把握した上で、その死角となるポイントを選んで移動し、車を停《と》めた。……偶然で片付けるのはちょっと難しい状況ね」 「でも、それだけで、本当に魔術師って分かるのか?」 「分からないから、調べに行くの」  オリアナはカーナビを、ビデオからナビへ戻しながら言う。 「ロンドン自体は網《あみ》の目のように道路が走っているけど、交通の要所となるべきポイントは限られている。まして、カメラの死角を縫《ぬ》うように進むなら、なおさらにね。……こいつが問題の魔術師にしろ、そうでないにしろ、すぐに追い着く。気になる事があったら調べて確かめれば良いのよ。そうやって、ヒットするのを待つしかない」  後手に回るような発言だが、事実なのだから仕方がない。何しろ、上条|達《たち》はまだ『新たなる光』という集団が、ロンドンへやってきて何をしようとしているのかも分からないのだから。 「……そんなんで見つかんのかよ?」 「あら。一から一〇まで狙《ねら》いが分かった上で追い掛ける方が現実には珍《めずら》しいわよ」      9 『新たなる光』の一人、ベイロープは地下鉄駅の出入り口である下り階段近辺で、壁に背中を預けていた。足元にある古ぼけた四角い鞄《かばん》を気にしつつ、時折ライトアップされた時計台の文字盤に目を向けている。  彼女は通信用の霊装《れいそう》を通して、他《ほか》の仲間と連絡を取り合う。 「さて、と。いよいよ試合開始って感じ? キーパーはランシスに任せたわ。私|達《たち》が勝利すればイギリスの現政権は土台から崩壊《ほうかい》、ロンドンもただでは済まないかも。まぁ、必要以上に市街地をぶっ壊《こわ》す理由も特にないけど」 『新たなる光』の一人、ランシスは古ぼけた四角い鞄を地面に置いて、その上に腰掛けていた。細長い包みを手にしたまま、彼女は体をぷるぷるさせながら夜空を見上げている。  彼女は通信用の霊装を通して、他の仲間と連絡を取り合う。 「……くっ、くすぐったい、……そ、そにょ、そのために、ふわ……皆が帰途に着いた、この時間帯を狙《ねら》ったはずだもん……あは。少なくとも、昼間にやるよりは、……混乱も少ないはず……ひゃううう……」 『新たなる光』の一人、フロリスは大通りから少し外れた、小さな道を歩いていた。彼女は髪をかき上げる仕草にも似た調子で、古ぼけた四角い鞄を肩の後ろにやっている。  彼女は通信用の霊装を通して、他の仲間と連絡を取り合う。 「できる事なら『人払い』でも張ってやりたいトコだけど、結界なんて使ったら一発で連中に見つかるからなぁ。……逆に、そいつを応用して連中の注意を逸《そ》らす事もできる訳だが。とにかく、ワタシらハーフが速攻で決めて、さっさと終わらせよう」  そして……。 『新たなる光』の一人、レッサーは場末の酒場にいた。ロンドン北部にあるイズリントン区の端《はし》にある、最低でも一人二リットルは呑《の》んでいそうな連中ばかりが集まっている酒場である。  一〇代前半の少女であるレッサーは明らかに浮きまくっていたが、『せっかく旅行でやってきたのに、もうどこのレストランも開いていない』と言ったら、筋肉もりもりの店長が魚のフライをサービスしてくれた。飲み物はオレンジジュースである。  そんなこんなでカウンター席でジュージュー音を立てているフライを頬張《ほおば 》っているレッサーは、一メートルぐらいの細長いケースの紐《ひも》を肩に掛けていた。それから、足元には古ぼけた四角い鞄が置いてある。  と、そこへ、レッサーの頭に直接『声』が届いた。 『勝手にご飯食べるのは良いけど、あなただってハーフの一人だっていうの忘れていない? こんなトコでへマしたら承知しないから』 『しませんよん。でも、どうせならフォワードが良いですよねー。というかベイロープ、ロンドン市内で通信に魔《ま》|術《じゆつ》使うのマズいんじゃないんですか? 仮にも第零聖堂区の本拠地なんだし』 『「|必要悪の教会《ネセサリウス》」の懐《ふところ》だからこそ、余計に心配しているの。うう、あなたなんかに背中を預けたくない……』 『実はお腹《なか》がすいてイライラしていますね? ほらほら、今なら通信に嗅覚《きゆうかく》情報も混ぜちゃいますよー。ほーらー、この脂の弾《はじ》ける匂《にお》いが素晴らしいでしょう?』 『……(まったく、実力的には確実に「新たなる光」の中で最強なのに。ふう、それにしても何か食べたくなってきた魚のフライかぁ)』 『んふ。思考がダダ漏《も》れありがとうございまブギャア!?』  ガッギィィ!! という凄《すさ》まじいノイズと共に通信が切れた。明らかな嫌《いや》がらせに頭をくわんくわんさせたレッサーは改めて魚のフライと格闘《かくとう》しながら、 (さて、と。こいつを平らげたらカバンを所定の位置まで運んで、あとは指示待ちですか。変わるかなー、イギリス。変わってくれると良いですなー……)  ふんふふんと鼻歌を歌いつつ、スツールの下で足をバタバタ振り回すレッサー。と、その爪先《つまさき》が件《くだん》の四角い鞄《かばん》にゴツッとぶつかった。 (おっとっとっと……っと?)  そこで、レツサーの動きがピタリと止まる。  四角い鞄がない、のではない[#「のではない」に傍点]。  足元には今もきちんと、彼女が持ってきた四角い鞄が置いてある。  ただし、  なんか、もう一つ四角い鞄がある。  お互いの特徴がほとんど同じ、ぶっちゃけ見分けのつかなさそうな四角い鞄が、二つある。 「……、」  レッサーは、恐る恐る隣《となり》を見た。  ついさっきまでいた客と入れ替わりに、黒人の大男が小さなスツールに座っていた。泡だらけのビールをグビグビ呑《の》んでいる彼の持ち物が、もう一つの四角い鞄なのだろう。  さて。  レッサーが持って来た四角い鞄は、どっち? (ぎゃあああああああぁあああああああッ!! やっ、やばやばやばやばやばやばやば!!)  つい先ほど、ベイロープに釘を刺されたばかりなのに、早くもトラブル発生である。  当然ながら、中身を確認すれば分かる。レッサーの四角い鞄自体も『|大船の鞄《スキーズブラズニル》』という霊装《れいそう》なので、魔術を発動すれば判断できる。だがダメだ。ここで四角い鞄を『開ける』訳にはいかないし、下手にデカい魔《ま》|術《じゆつ》を発動すれば『|必要悪の教会《ネセサリウス》』に見つかるリスクも増す。  そうこうしている内に、黒人の大男は巨大なジョッキの中身を飲み干してしまう。 「うぃーい。今日はこんぐらいにしとくわー」 「何だぁー? まだ三杯目じゃねえか」 「医者に止められてるんだよーう。酒はほどほどにしときなさいってな」 「じゃあ三杯でもアウトだろ」  店長とそんな事を言い合いながら、カウンターで紙幣《し へい》を数え始める大男。 (まずい、どっちか分かんないかも……)  レッサーは一《いつ》|瞬《しゆん》、肩にかけた一メートルぐらいの細長いケースに意識を向けるが、すんでの所で思い留《とど》まる。ここで『武器』を取り出したら、それこそ大騒《おおさわ》ぎになる。 (だぁーもう!! どっち? こっち!? 右!? 左!? 『|大船の鞄《スキーズブラズニル》』は!?)  悩むレッサーの目の前で、黒人の大男はふらふらした手つきで足元の四角い鞄《かばん》へ手を伸ばす。  と、  ガシィ!! と、レッサーの小さな手が、大男の手首を掴《つか》む。 「んん?」  怪訝《け げん》そうな顔でこちらを見る黒人の大男に、レッサーは言う。 「こっ、こっちが私のです。おじさんのカバンはそっち」 「ん、んん!? おーそっかそっか。済まなかったな、嬢《じよう》ちゃん」  苦笑いしながら、大男はもう一つの四角い鞄を持ち直す。  席を立つ黒人の酔っ払いを見ながら、レッサーは重たい息を吐《は》いた。 (……セェーフ……。いやー、あとちょっとでベイロープに尻《しり》を握り潰《つぶ》される所でした……)  どちらかと言うと、レッサーの四角い鞄の方が擦《す》り切れていた気がする。指先で表面をなぞり、自分の持ち物の感触を確かめ、何とか判断できたのだ。  ようやく肩の力を抜いたレッサーは、ぐにゃぐにゃとした動きでカウンターに突っ伏す。その様子を見た店長が『あれ? 酒|呑《の》ませてないよな?』とやや心配そうな顔になる。  と、そこでレッサーは見た。  なんか、三個目の四角い鞄が床に置いてある。  だらだらだらだら、とレッサーの頬《ほお》に汗が伝った。  それも他《ほか》の酔っ払いの持ち物なのだろう。あるいは忘れ物かもしれない。しかし、改めて『三個目』を見せられたレッサーの自信が、揺らいだ。どれが本物でしたっけ? これで正しいんでしたっけ? 光の加減で持ち物の雰囲気《ふんい き 》って変わったりしていません? さっきの黒人の持ってたヤツは? 全部並べて見比べてみたい! ああ、でもおじさんが店から出ちゃいます!! と色々テンパったレッサーは、 「ぜっ、全員動くなァァあああああああああああぁああああああああッ!!」  ……霊装《れいそう》による通信で事の次第を知ったベイロープは、泡を吹いて倒れそうになったという。      10  防犯カメラの死角に停《と》められていたという自動車。  オープンカーに乗る上《かみ》|条《じよう》とオリアナはそのすぐ近くまで来たが、そこでオリアナは急に車の方向を変えた。無線機の機能でもついているのか、カーナビからはノイズ混じりの男の英語が聞こえてくる。 「連絡が入ったわ。ヤツらの一人がヘマしたみたい!!」 「うわっと!? 何だ、『|必要悪の教会《ネセサリウス》』からか?」 「今のは『王室派』から干渉を受けているロンドン市警よ。なんか、近くにある酒場でトラブった馬鹿《ばか》がいるようね!!」  車道には、赤と青のランプを瞬《またた》かせるパトカーが多い。そんな中を、何らかの許可でももらっているのか、法定速度を無視したオリアナのオープンカーが爆走していく。ウィンカーも点《つ》けずに交差点を勢い良く右折した所で、上条の視界が『変なもの』を捉《とら》えた。  煉瓦《れんが 》の歩道を突っ走っている、小柄な女の子だ。  分厚いジャケットにミニスカートという格好の少女は、何故《なぜ》か三つもの四角い鞄《かばん》を抱えつつ、 「ええっと、どれです、どれです、これですかっ!? これでしたっ!! くっそ、ちょっと持ち上げて重さを確かめればすぐに分かったのにッ!!」  早口の英語は上条には理解できないが、表情や身振りから察するに、どうやら後悔しているらしい。抱えている鞄の内の二つを路上に投げ捨て、残る一つを手に、さらに走る。  それだけでもおかしな状態だが、さらに目を惹《ひ》くものがある。  彼女がビジネスマンの電話のように、肩と頬《ほお》で挟んでいるもの。  槍《やり》だ。  厳密に言うと、一・五メートル前後の金属製のシャフトだ。どうやら携帯性を増すために、『太いシャフトの中に細いシャフトを収納できる』ように作られているらしい。その先端《せんたん》に、さらに四〇センチぐらいの刃が取り付けられていた。それも一本だけではない。上段に三本、下段に一本。槍の下端が自転車のブレーキみたいな形になっている所を鑑《かんが》みると、どうやらレバー動作で開閉できる仕組みになっているようだ。 「何だありゃ……?」 「何らかの霊装《れいそう》なんでしょう。あからさまに怪しさ爆発。あれが『新たなる光』の一員で間違いなさそうね。まったく魔術師《まじゆつし》は自分が変な格好をしているって自覚がないのかしら」 「……、」  上《かみ》|条《じよう》は無言でオリアナの全身を見たが、彼女はその事実に気づかない。  オリアナは両手で握っていたハンドルから片手を離《はな》し、胸元へと差し込む。そこから取り出されたのは単語帳のような紙束だ。彼女は単語帳のページを口で噛《か》み、顎《あご》を動かして金属製のリングから千切《ちぎ》り取ると、歩道を走る少女とすれ違いざまに、そのページを歩道へ放つ。 「人払いよ」  彼女が呟《つぶや》くと同時に何かが発動したらしい。  上条には分からないが、ターゲットの少女の方がハッと顔を上げた。  そこで、オリアナの放ったカードがぺらりとめくれる。彼女は同時に二枚放っていたのだ。  白紙だったページに、いつの間にか文字が浮かび上がっている。  黄色い文字で記されたのは『Fire Symbol』。  それこそが、『運び屋』であり、一度使った術式は二度と使わないとされるオリアナ=トムソンの魔術のカギだ。  ボゴッ!! という爆炎が歩道で炸裂《さくれつ》する。  辺りのシャッターや窓がビリビリと震《ふる》え、夜の闇《やみ》が赤く照らし出される。  爆発を確認すると、オリアナはハンドブレーキを動かし、ハンドルを急激に切って、ほとんど勢いを殺さずにUターンした。オープンカーの鼻先を爆炎に向け直し、自動車はその動きを止める。  慌てたのは上条だ。 「おっ、おい!! ちょっとやりすぎじゃねえのか!?」 「いいえ、むしろまずそうよ!!」  叫び返しながら、オリアナは運転席のドアを開け放ち、ほとんど転がるようにオープンカーから降りていく。  ? と上条が首をひねった直後、  ジャキン、という金属を擦《こす》る音が耳についた。  音源は横から。  上《かみ》|条《じよう》には首を向ける時間もない。一《いつ》|瞬《しゆん》と呼ばれる時間の中で、かろうじて眼球だけを動かしてそちらを見ると、助手席のすぐ側《そば》にまで、例の女の子が滑《すべ》り込んでいた。砲弾のような速度で走行する少女の後ろを、何かが追う。それは『尻尾《しつぽ》』だった。スカートの中から伸びているのは、自転車のチェーンロックのように、透明なチューブの中を金属製の平べったい鎖《くさり》のようなものが走っている『尻尾』だ。  ふと、少女と目が合った。彼女は英語でこう言った。 「文句はないですよね?」  少女は、その『槍《やり》』の先端《せんたん》を鉄のドアに突きつけていた。  ドアごと貫通し、上条の腹を破るために。 「オッ……ォォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!?」  上条は車の構造を無視して、助手席のシートを踏《ふ》みつけると、オープンカーの前方——ボンネットへ向けて、とっさに跳んだ。助手席のシートを蹴《け》る瞬間、ドアを貫いた四本の刃が上条のバッシュの底を浅く切り裂く感触が確かに伝わった。  ドスン!! と鉄のドアを貫通する衝撃《しようげき》が、一瞬遅れてやってくる。  ボンネットの上に着地した上条は、そのままさらに路上へ跳ぶ。  そこで、グワッ!! という妙な轟音《ごうおん》を聞いた。  振り返れば、一〇代前半の小柄な少女が、オープンカーの助手席のドアを毟《むし》り取っていた。 『槍』の先端が突き刺さったまま、強引にその柄《つか》を掴《つか》んで振り回したのだ。馬鹿馬鹿《ばかばか》しいほど暴力的な光景とは裏腹に、ミニスカートの中では『尻尾』がユーモラスに揺れ動く。  四本の刃に貫かれた助手席のドアごと、少女はさらに『槍』を振るう。刺すのではなく振り下ろす。ただしそれは上条に向けて、ではない。  オープンカーの後部……燃料タンクに向けて、だ。  メキメキと音を立てて、鉄の壁が簡単に破れた。『槍』の先端が、燃料タンクの中に沈み込む。  凄《すさ》まじい轟音と共に、オープンカーが爆発した。  しかし、上条が驚《おどろ》いたのはそこではなかった。  本来なら四方八方へ広がるはずの炎を。  少女の持つ四本の刃が強引に『掴み取った』のだ。  一体どういう仕組みなのか、『槍』を形成している四本の刃が、まるで人間の指のように大きく開く。それが再び勢い良く閉じると、今まさに周囲一面へ撒《ま》き散らされそうになっていく爆炎を、まとめて押さえつけたのだ。  炎は四本の刃の隙間《すきま 》から漏《も》れ、しかし空気中で新たな形を作り出す。  最大で一メートル程度の、一辺の長さが均等ではない、ブロック状の不自然な紅蓮《ぐ れん》の塊《かたまり》。  四本の刃は、まるで巨大な人参《にんじん》を突き刺すフォークのようだった。  爆炎は吹き消されず、四本刃に従うように大きく動く。  炎の塊を伴う『槍《やり》』をハンマーのように振り上げた少女は、へたり込む上《かみ》|条《じよう》と目を合わせる。  彼女は笑っていた。  とっさに庇《かば》うように右手を構える上条だったが、少女はその防御をかいくぐるように、わずかに斜めへ回すような軌道で『槍』を振り下ろしてくる。 「嘘《うそ》だろ……ッ!?」  ギクリと体を強張《こわば 》らせる上条の目だけが、ミニスカートから『尻尾《しつぽ》』を垂らす少女の持つ、炎をまとう『槍』を追い掛ける。  その時、  ボッ!! という衝撃《しようげき》が、少女を横から薙《な》ぎ払った。  彼女の体をくの字に折り曲げて吹き飛ばしたのは、先に車を降りたオリアナの魔《ま》|術《じゆつ》だった。  少女の小柄な体が数メートル跳んだ。彼女は『槍』を掴《つか》んだままだったが、その先端《せんたん》にまとっていた巨大な炎の塊が、刺さった人参ごとフォークを振り回したようにすっぽ抜けて、あらぬ方向へと飛び散り、爆発し、オレンジ色の光を路面へ広げていく。  それでも、彼女は倒れなかった。  靴底をガリガリ削るようにして速度を殺した彼女は、もう片方の手で掴んでいた四角い鞄《かばん》を使って、オリアナの施術を受け止めていたのだ。  しゅううう……、と表面から煙を上げる四角い鞄と、その盾の奥で鋭い眼光を放つ少女。  ただし、 「おおぅぅわァァああああああああああああッ!? やっちゃった、思わずガードに使っちゃったけど、一番大事なのを盾にしちゃいましたーっ!!」  ネイティブな英語はサッパリだが、どうも魔術師は慌てているらしい。  うろたえる少女に対し、たった今殺されかけた上条は率直に言った。 「おいオリアナ。何だか良く分からんが、あの四角い鞄が最重要アイテムらしい。女の子をぶっ飛ばすとか気が進まなかったんだ。四角い鞄を集中砲火してボッコボコにしちまおうぜ」 「いいですとも。あれも霊装《れいそう》の一種だとしたら、あなたの右手で殴《なぐ》ってみるのも面白《おもしろ》そうじゃない?」  そんな作戦会議を耳にした少女がビクッと肩を震《ふる》わせ、 「よっ、よくぞこの短時間で私の弱点を見破りましたっ! しかしここでやられる訳にはいかんのです! ベイロープに尻《しり》を握り潰《つぶ》されないためにも、ここは戦略的|撤退《てつたい》をさせていただきましょう。とォうッ!!」  一度、『尻尾《しつぽ》』を振り子のように大きく動かすと、少女は真上に飛んだ。  垂直跳びで三階ぐらいまでの高さまで上昇すると、ビルの窓を突き破って建物の中へと飛び込んでいく。  周りに騒《さわ》ぎがないのは、土壇場《ど たんば 》でオリアナが『人払い』を使ったため。  あの少女自身は、全く騒動《そうどう》が起こる事に気を配っていない。 「くっそ……。あんなの追えんのかよ!?」  上《かみ》|条《じよう》は思わず毒づいた。  あれだけの跳躍力《ちようやくりよく》があれば、道路を無視して自由に街を行き来できる。あれでは徒歩どころか、自動車があっても追うのは難しい。何しろ、車は道に沿ってしか移動できないのだから。 「そうでもないわ」  ところが、オリアナは上条の不安を否定した。 「建物の中や屋上を移動できると言っても、限度はあるわ。そもそも建物は道路に沿って建てられるもの。その建物を伝って移動するとしたら、自然とその流れに従うしかなくなるのよ」 「?」 「分からない? 片側三車線、四車線と広がる大通りにぶつかったら、建物から建物へ移動する事は封じられるのよ。ちょうど、道路が広い川に遮《さえぎ》られてしまうようにね」 「建物から道路に飛び降りられる可能性は!?」 「それができていたら、あの『尻尾』は必要ないでしょう。あれは空中でバランスを取るための保険よ。ある種の猿が枝から枝へジャンプする時に使っているものと同じ。あんな霊装《れいそう》を用意しているって事は、あいつにとっても『一定以上の高さ』は怖いものなのよ!」  という事は、あの魔術師《まじゆつし》は万能ではない。  逃げるルートも自然と限られてくる。 「追うか」 「当然!!」  上条とオリアナは頷《うなず》くと、夜のロンドンを走る。      11  そんな騒動から一キロほど離《はな》れた、地下鉄駅の出入り口近辺で、『新たなる光』の一人、ベイロープは真剣に頭を抱えていた。 (あの馬鹿《ばか》……ッ!! よりにもよって、第零聖堂区どころかー般のロンドン市警にまで筒抜けになるレベルの騒《さわ》ぎを起こすなんて……ッ!!)  今も通信用の霊装からは『ヘルプー、ヘルプですーっ!』という甲高《かんだか》い声が届いているが、むしろあいつに関しては私がとどめを刺したい、とベイロープは歯を食いしばる。  地下鉄の出入り口である階段は、コの字型の壁で覆《おお》われている。深夜一二時近い、いわゆる終電|間際《ま ぎわ》であるためか、多くの会社員や酔っ払いが階段に吸い込まれていく。そんな中、ベイロープはコの字の壁に背中を預け、肩に提げた一メートルほどの包みと、足元に倒してある古ぼけた四角い鞄《かばん》へ意識を向けた。 (……ともあれ、最悪、一個だけでも必ず『起動』させる。今はランシスからの連絡待ちか。土壇場《ど たんば 》まで誰《だれ》にも座標情報が分からないっていうのはネックね。目的地が不明な分、とっさのアドリブが難しいわ)  鼻から息を吐《は》いて腕組みしながら、ベイロープは行き交う会社員|達《たち》を眺める。典型的な英国人の証券マンだけでなく、チラホラと日本人も確認できた。金髪の頭がいっぱいある中で、黒い髪が目立つ。何気なくそちらへ目をやると、八つ九つと黒髪が増えていき——気がつけば、ベイロープの周りには日本人しかいなくなっていた[#「ベイロープの周りには日本人しかいなくなっていた」に傍点]。 「……ッ!?」  いつの間にか取り囲まれていたベイロープは、肩に提げた『包み』に目をやる。そうこうしている内に、日本人の団体の中から一人の少女がベイロープの前へ、ズイッと近寄ってきた。 「イギリス清教第零聖堂区『|必要悪の教会《ネセサリウス》』です。——よろしいですか?」  警官のような口調で告げたのは、天草式《あまくさしき》|十字《じゆうじ》|凄教《せいきよう》の五和《いつわ 》だ。雑踏《ざつとう》の中にいるにも拘《かかわ》らず、彼女はすでに十字|槍《やり》の一種を片手で握っていた。  その道の人間にしか分からない意味不明な自己紹介に対し、ベイロープは腕を組んだまま、唇《くちびる》の端《はし》を引きつらせるように笑った。 「……もうここまで辿《たど》り着いたって訳?」 「我々は、環境に溶け込む事を旨《むね》とする一派でして。逆に、不自然な者を捜し出す術にも長《た》けているんですよ。元々は、町民に紛《まぎ》れた幕府の監視役を早期発見するための技術ですけどね」 「チッ。なるほど、ヤツらの『傘下《さんか 》』って訳。まったく、第零聖堂区の連中は本当に手当たり次第に人材をかき集めてくるものね」 「処刑《ロンドン》塔までご一緒《いつしよ》していただきます。念のため、罪状を確認しますか?」 「いいえ、結構」  ベイロープは組んでいた腕を解き、懐《ふところ》へ手をやった。まるでヘッドホンを取り付けるような動作で装着したのは、耳の後ろに引っ掛ける補聴器《ほちようき》のようなものだ。ただし、そこから真空管のようなものが左右二本ずつ飛び出している。 「このカバンを『起動』させるまで」  特殊な耳、もしくは角を取り付けたベイロープは、地面に倒してある四角い鞄の取っ手へ、足の爪先《つまさき》を差し込み、 「捕まるつもりはないんだからッ!!」  四角い鞄《かばん》を蹴《け》り上げるように宙へ持ち上げ、それを片手で掴《つか》むベイロープ。同時、その動作を合図に五和《いつわ 》が遠慮《えんりよ》なしに槍《やり》を突き出した。狙《ねら》いは右肩。肩と腕の関節部へ刃をねじ込むように、彼女の切っ先がベイロープを狙う。  轟《ごう》!! という空気を裂く音が炸裂《さくれつ》する。  しかしベイロープの柔らかい肌が引き裂かれる事はなかった。  原因はベイロープの肩に提げてあった『包み』。それは彼女の意志に応じて内側から破かれ、中にあった『武器』が横薙《よこな 》ぎに振るわれた。槍とも手とも取れない、長い金属棒の先端《せんたん》に四本の刃を取り付けた『武器』。それは真《ま》っ直《す》ぐ放たれた五和の槍と激突し、火花を散らし、そして互いが互いを弾《はじ》き飛ばす。  もしもこの場に上《かみ》|条《じよう》がいれば、こう思っただろう。  ベイロープの持っている 『武器』は、自分が遭遇《そうぐう》した魔術師《まじゆつし》の少女と同じものだと。 「……ッ!!」  ガッキィィ!! という甲高《かんだか》い音と同時に、五和とベイロープの周囲にいた数十人の日本人が、一斉に隠し持っていた剣や斧《おの》を取り出した。禍々《まがまが》しい鋼《はがね》の輝《かがや》きに包まれる中、しかしベイロープは不敵に笑う。『武器』を握る手に、より一層の力を込める。  体ごと回転させるように、ベイロープは『武器』を振るう。  思わず身構えた五和だが、攻撃は天草式《あまくさしき》の誰《だれ》も向けられなかった。ベイロープが破壊《は かい》したのは、自分が今まで背を預けていた、コンクリート製の壁だった。  地下鉄の出入り口の階段を、コの字状に囲んでいた壁だ。それをビスケットのように粉砕したベイロープの意図は明白である。  すなわち、逃走。 「く……ッ!!」  悔やむような五和の吐息《と いき》と共に放たれる槍。しかしその刺突がベイロープの体を貫く事はない。彼女はすでに、瓦礫《が れき》と一緒《いつしよ》に地下鉄駅に繋《つな》がる階段へ急降下している。 「五和!!」 「分かっています!! 建宮《たてみや》さん達《たち》は全《すべ》ての出入り口へ人員を配置してください!!」  同《どう》|僚《りよう》からの呼びかけに叫び返しながら、五和は地下へ繋がる階段へ飛び込む。階段を使う、というよりは、一息に下階層まで飛び降りていた。  着地と同時に、五和は懐《ふところ》へ手をやる。中から出てきたのは拳《けん》|銃《じゆう》だ。マガジンの中に入っているのは空砲なのだが、五和は構わず引き金を引いた。  ガンガンバァン!! という鼓膜を打つ轟音《ごうおん》が何度も反《はん》|響《きよう》し、地下空間の端《はし》まで伝わる。  その音を聞き、地下鉄駅にいた乗客達が一斉に出口を目指す。テロリストか乱射事件かと思われたのだろう。ほとんど錯乱《さくらん》するような格好で、あっという間に地下から人がいなくなる。 (各出入り口は建宮さん達が押さえている。仮に駅の中に魔術師が残っていたとしても、これで民間人を巻き込む懸念《け ねん》はなくなった)  五和《いつわ 》は空になった拳《けん》|銃《じゆう》を適当に放り捨て、改めて槍《やり》を掴《つか》み直す。彼女のような魔術師《まじゆつし》は『人払い』という術式も扱うが、緊《きん》|急《きゆう》を要する場合は物理的な手口の方が効果が高い事もある訳だ。特に天草式《あまくさしき》は『周囲にある普通の物品から魔術的意味を抽出する』ため、その条件に見合う物を探すのに手間取る場合は、こうしてしまった方が手っ取り早いのである。  やや長い通路を走ると、その先にあるのが券売機と自動改札だ。五和はハードルのように改札を飛び越すと、そのまま地下鉄のホームへ走る。  到着すると、ちょうどベイロープが無人のホームから飛び降りようとしている所だった。おそらく電車に乗る事なく、トンネルを直接走っていこうと考えているのだろう。  五和とベイロープの視線がぶつかる。 「……ッ!!」 「……ッ!?」  その瞬間《しゆんかん》、最初に動いたのはベイロープの方だった。  彼女は片手で四角い鞄《かばん》を掴んだまま、もう片方の手だけで、例の槍のような手のような、四本の刃を取り付けた武器を豪快に振るう。その先端《せんたん》で挟んだ、巨大な看板を投げるように。  一〇メートル以上の距離《きより 》を飛んだ看板は、しかし五和の目の前で、七つの斬撃《ざんげき》に裂かれて周囲に撒《ま》き散らされる。  それは槍による効果ではない。  彼女の周囲に、七本のワイヤーが張り巡らされている。 「北欧における、怪力の象徴……」  五和は槍を構え直し、慎重に距離を測るように音もなく歩を進めながら、唇《くちびる》を動かす。 「形状に惑わされそうになりますが、その本質は槍ではありませんね。魔術的な記号からは、豪胆で知られる雷神トールのものを感じますが……」 「馬鹿《ばか》正直に、雷の大槌《おおつち》ミョルニルなんて言わないでよ。十字教を北欧に伝える際、十字架のない文化圏でその代わりに使われたあのハンマーは、確かに近代西洋魔術的にも色々と応用できる。でも、私|達《たち》が扱っているのはそれじゃないわ」  ベイロープはニヤリと笑う。 「ミョルニルで有名なトールだけど、あの雷神は一度だけそれ以外の武器を使った事があるわ。とある女巨人から借りる形でね。これは、その逸話《いつわ 》を分析して製造した霊装《れいそう》『鋼《はがね》の手袋』。そっちの方が、女の子が扱う武器としては都合が良い」 「女の子が扱う、武器……?」 「生憎《あいにく》と、『新たなる光』のメンバーは全員、華奢《きやしや》な女の子である事は自覚していてね。ミョルニルを分析した霊装では、ちょっとヘビーすぎて扱いづらいって言えば分かる?」  ベイロープは、『手袋』の先端を前へ突きつける。  柄《つか》の下端《か たん》にあるレバーを動かすと、まるで人間の指のように四本の刃が開閉する。 「そもそも、私|達《たち》はトールを単なる『雷神』だなんて思っていない。トールの本質は農耕神であって、雷撃《らいげき》は自然の恵みを司《つかさど》る神が持つ、天候制御能力の一つだと解釈しているわ。そういう意味でも、ミョルニルは雷神としての『特色』が強すぎる。攻撃的《こうげきてき》な能力だけでなく、もっと柔軟に農耕神の力を振るうためには、それ以外の武器を用意するべきなのね」  五和《いつわ 》は槍《やり》の穂先《ほ さき》を突きつけ、慎重に距離《きより 》を測る。  そうしている間にも、ベイロープは言う。 「トールがミョルニルの代わりに借りたのは、腕力を増強させる力帯と、極めて強大な破壊《は かい》|力《りよく》を生む鉄の棍棒《こんぼう》、そして鉄の手袋の三点セット。手袋の役割は不明とされているけど、私達は『高威力の霊装《れいそう》を正確に操るためのインターフェイス』と解釈しているわ。——いずれにしても言えるのは一つ」  言いながら、彼女は『鋼《はがね》の手袋』をくるりと回すと、その四本の切っ先でホームの床を叩《たた》き、 「何なら、全部まとめたワンセットの霊装を用意した方が楽じゃない? ってコト」  ズ……ッ!! と、四本の刃がタイル状の床へ沈み込んだ。  彼女は『鋼の手袋』を床に突き刺したまま、思いきり前へ振るう。ゴルフクラブでバンカーを叩くように、大量の細かい破片が五和に向かって襲《おそ》いかかる。 「……ッ!!」  五和は身を低く屈《かが》めて散弾の弾幕をやりすごし、一気に近づく。しかしベイロープは『鋼の手袋』を片手で木の枝のように振り回し、即座に迎撃へ移る。  ただの斬撃《ざんげき》ではない。 『鋼の手袋』は、何かを『掴《つか》んで』いる。 (空気中の——風、いや、粉塵《ふんじん》を……ッ!?)  五和が気づいた途端《と たん》、顔のすぐ近くで、それこそ『爆発』でも起こったように凄《すさ》まじい速度で膨《ぼう》|張《ちよう》するコンクリートの粉末。  ドッパァァン!! という轟音《ごうおん》と共に、五和の体が構えた槍ごと真横へ吹き飛ばされる。靴底を削って急ブレーキをかけようとする五和に対し、ベイロープは跳んだ。一メートルぐらいの高さの所を、膝《ひざ》を丸めるような格好で、縦に回転しながら突っ込んできたのだ。  その手に、『鋼の手袋』を握ったまま。  先ほどと同じく、大量の凝縮《ぎようしゆく》した粉塵を『掴んだ』状態で。 (ま、ず……ッ!? ただでさえ、腕力だけでも厄介《やつかい》だというのに……ッ!!)  五和は一《いつ》|瞬《しゆん》、条件反射で槍を使って防ごうとしたが、直後に硬直を解いて横へ跳ぶ。受け止めるには重すぎるのだ。その間にも、空中で二回転したベイロープは遠心力すら利用して『鋼の手袋』を振り下ろす。彼女の腕力と粉塵《ふんじん》の力が、地下鉄駅の床を火山のように爆発させる。  直撃《ちよくげき》を避《さ》けたはずの五和《いつわ 》の体が、錐揉《きりも 》み状に宙へ浮く。  散乱した破片のいくつかを受けたためだ。  それでも床には倒れず、ジャンプに失敗しかけたフィギュアスケート選手のように爪先《つまさき》から着地した五和の元へ、ベイロープが空気中の粉塵を『掴《つか》み』、追加の打撃を横薙《よこな 》ぎに放つ。  バランスを崩しかけた五和には、そこからさらに後ろへ下がる事はできなかった。  大量の粉塵が膨《ぼう》|張《ちよう》し、間近で爆発するように展開される。 「ごッ……ァァ、がァああああああああああああああああああああああああッ!?」  今度こそ直撃した五和の体が、一度床の上へ叩《たた》きつけられ、そこから一気に後方へ吹き飛ばされた。手にしていた海軍用船上槍《フリウリスピア》は柄《つか》の部分がバラバラに砕け、辺りへ散乱していく。ヒュンヒュンと回転する切っ先が、倒れた五和の顔のすぐ近くへ落下し、突き刺さった。  片手に四角い鞄《かばん》を持ったベイロープは、もう片方の手にある『鋼《はがね》の手袋』を肩に担《かつ》ぎ、 「勝負ありってトコ? まだやっても良いけど、次は『|知の角杯《ギヤツラルホルン》』を使わせてもらうわ」  言いながら、彼女はヘッドホンの調子を確かめるように、四角い鞄を持つ手で自分の側頭部を軽く撫《な》でる。  顔の左右にあるのは補聴器《ほちようき》のように、耳の後ろに引っ掛ける装置だ。さらにそこから、真空管のような物が二本ずつ飛び出している。 「『鋼《はがね》の手袋』が再現するのは、女巨人の武器である鉄の棍棒《こんぼう》を振るう破壊《は かい》|力《りよく》と、力帯による腕力の増強と、『掴《つか》む』に代表される応用性だけ。でもそこに知力を加える事で、『新たなる光』の中で私だけは雷の属性を部分的に追加させられる。……雷神トールとは違って、ミョルニルとは別の方法でね。消し炭になりたくなければ、そこでじっとしている事よ」  五和《いつわ 》は唇《くちびる》からこぼれる血を手の甲で拭《ぬぐ》うが、起き上がれない。  ベイロープは四角い鞄《かばん》を抱え直しながら、こう言った。 「こいつによって、イギリスの歴史は変わる。王室派、騎士派《きしは》、清教派、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北部アイルランド。それらを含めた英国そのものが。でも、それは悪い事ばかりじゃない。アンタはこれから生じる変化を楽しみにしていなさい」  ベイロープは片手で四角い鞄を持ったまま、まるで魔女《ま じよ》の箒《ほうき》のように『鋼の手袋』にまたがった。  彼女は空を飛ばない。 『鋼の手袋』の先端《せんたん》——四本の刃が、床を掴む。そして各々《おのおの》の刃を器用に動かすと、まるで触手を使って地面を移動するような動きで、ベイロープを乗せた『鋼の手袋』がホームを飛び降り、列車の走っていないトンネルへと高速で消えていく。 「……、っ……」  五和はしばらく、そのまま動かなかった。  やがて彼女はゆっくりと起き上がると、柱にあるアナウンス用のマイクへ手を伸ばす。  魔女の箒のように『鋼の手袋』にまたがったベイロープは、片手で四角い鞄を持ち、もう片方の手を逆さにした『鋼の手袋』の根元のグリップへ添え、高速で線路上を移動していた。その速度はハイウエイを走る自動車並みだ。  ゆっくりと息を吐《は》き、ベイロープは肩の力を抜く。 (……とりあえず難を逃れたか。ランシスは無事だろうけど、フロリスが心配。まったく、それもこれも全部レッサーの馬鹿《ばか》がヘマをするから……ッ!!)  ベイロープは思わず舌打ちする。  緩《ゆる》やかにカーブするトンネルに合わせて、彼女は高速移動する『鋼の手袋』に追加の命令を送る。とりあえず近場の駅を目指すか、作業員用の出入り口を探すか。そんな事を考えていたベイロープは、そこでふと違和感に気づいた。  ……今[#「今」に傍点]、何でカーブした[#「何でカーブした」に傍点]?  路線図によれば、このレールは次の駅まで直線の一本道。わざわざカーブするようなルートはないし、分かれ道もないはずだ。  ベイロープは思わず『鋼の手袋』の動きを止め、線路上で立ち止まる。  どこかで変な道へ入ったかと思ったが、違う。どう考えてもここまでは一本道だった。しかし、だとすれば、この線路がカーブしている理由は? いや、そもそも、この不自然にカーブした線路は、一体どこへ繋《つな》がっているのだ?  そんな事を考えていたベイロープの耳へ、唐突に声が届く。  それは、地下鉄のトンネルに仕込まれたスピーカーからだった。おそらくトンネルの作業員に列車が接近してくる事を伝えるためのものだろう。そこから、聞き覚えのある声が放たれる。 『……今さら説明しても仕方のない事ですけど、「|必要悪の教会《ネセサリウス》」の戦闘《せんとう》要員は完全実力制である事はご存知でしょうか?』  それは、先ほど地下鉄駅のホームで戦った少女の声だった。  話の意図は分からないが、何か嫌《いや》な予感がする。  そうこうしている内にも、五和《いつわ 》はスピーカー越しにこんな事を言ってくる。 『ですから、スカウトしてきた新人の実力を試すための魔術的《まじゆつてき》な施設や設備といったものが、このロンドンの市内には意外に多いんです。トラップだらけの迷路とか、そんな感じの演習場が、です。さて、本来なら必要のない、極めて不自然なカーブを描く形で、魔術的に強引な「切り替え」を行ったその線路が、どこと接続されているかはもうお分かりですね?』 「まさか……」  絶句するベイロープだったが、すでに術中に囚《とら》われている。  身動きの取れなくなったベイロープに対し、五和は最後にこう言った。 『——本当に、死なないように頑張ってくださいね。聞いた話によると、そこの迷宮は難易度の調整に失敗したせいで死者が続出し、現在は立入禁止になっているそうですから』      12  最近のトラップというのは便利にできているもので、迷宮という方式の巨大|霊装《れいそう》の中でボコられた負傷者を自動で搬送《はんそう》したり、道中で落とした物品などを分別回収したりする機能も備わっているらしい。  そんなこんなで、五和は地下鉄駅の遺失物保管庫にいた。平たく言えば、忘れ物や落とし物などを集めておくための部屋である。  四角い鞄《かばん》と一緒《いつしよ》に、一枚の羊皮紙《ようひ し 》が添えられていた。そこには、迷宮内における『テスト対象』の行動と戦闘の記録と、極めて客観的な『魔術師としての戦力評価』が記載されていた。どうやら、あくまでも現在も定期テストが続行されている事になっているらしい。  ゴソゴソ、という微《かす》かな物音が聞こえる。  天《てん》|井《じよう》近くのダクトの方からだ。新入りの五和には良く分からないが、おそらく『迷宮と遣失物保管庫を繋《つな》ぐ何らかの機構』に関係あるのだろう。思わず覗《のぞ》き込もうとした五和《いつわ 》だったが、 「嫌《いや》な音が聞こえる時は無視しろ。自衛機能が働くわよ」  不意に後ろから声をかけられ、五和は慌ててそちらへ振り返る。  ボロボロに擦《す》り切れた、ゴスロリの黒いドレスをまとった女が立っていた。ライオンのような金髪に、小麦色の肌が特徴的な女性の名前はシェリー=クロムウェル。『|必要悪の教会《ネセサリウス》』の中では、五和の先輩にあたる魔術師《まじゆつし》だ。 「元々・百戦|錬磨《れんま》の『|必要悪の教会《ネセサリウス》』のメンバーへ牙《きば》を剥《む》くために作られた、テスト機構だ。今回は体良《ていよ 》く利用したみたいだけど、油断していると八つ裂きにされるわよ」 「……は、あはは」  五和は思わず引きつった笑みを浮かべてしまう。 『新たなる光』のベイロープが後《ご》|生《しよう》大事に抱えていた四角い鞄《かばん》には、所々に赤黒い染《し》みがある。 「ビビるなよ。ここのテスト機構はヤバ過ぎて、現在は使用されてないんだから。今時の定期テストは何もない部屋に一週間ぐらい放り込まれて、水とか食糧《しよくりよう》とか生きていくために必要な物資を魔術的に生み出せとか、そんなもんだし」 「ええと……それはそれで、十分にゾッとする話です」  対応に困った五和は苦笑いするしかない。 「すみません、こんな時間にお呼びしてしまって」 「生憎《あいにく》と、私は規則正しい修道女じゃないんでね。既定の就寝時間なんざ存在しないわよ」  シェリーはゴーレムを使った直接的な戦闘《せんとう》は素《もと》より、寓意画《ぐうい が 》や宗教彫刻などの美術・工芸・霊装《れいそう》の中に隠された魔術的暗号を解読する専門家でもある。  彼女は、ただでさえ乱雑な金髪を、適当に片手で掻《か》き上げながら、 「……っつっても、『清教派』の魔術師はともかく、『騎士派《きしは》』のクソどもの利益にも繋がるっつーのは気に食わねえけどな」 「は?」 「何でもねえよ。大昔《エリス》の事を気にしても仕方がねえ時もある。今は仕事に専念してやるわよ。私をここに呼び出したのは、なんか見てほしいモンがあるんだろ」 「え、ええ」  五和がシェリーを呼び出したのは、とある霊装の仕組みを調べてもらうためである。  遺失物保管庫の金属棚に載せられている、四角い鞄にシェリーは目をやりながら、 「問題のカバンってのは、これか?」 「ええ。解析の方、お願いできますか」  ふん、とシェリーは鼻から息を吐くと、骨董品《こつとうひん》でも扱うような薄《うす》い手袋を両手にはめる。 「立体ってのは、絵画よりも錯覚系《さつかくけい》のテクニックが扱いにくい。大きい小さいで遠近法を表現したりとか、そういうものに頼《たよ》らずに組み立てたり削り出したりする必要があるからね。まぁ、だからこそ、私はこういうジャンルが嫌《きら》いじゃないんだけどよ」 「あれ? でも、トリックアート系で、大きなボールと小さなボールを使って遠近法を表現する立体芸術とかってありませんでしたっけ。単なる二つのボールかと思ったら、実は角度を変えると……っていう感じの」 「観察できる方向を決めつけてしまう立体は、平面的な絵画とあまり変わらないのよ。その錯覚《さつかく》は、全《すべ》ての角度で成立するものじゃないだろ。『前から見たパターン』と『横から見たパターン』の二点で完結するわね。率直に言えば、絵画で構築できる芸術だ」  彼女は四角い鞄《かばん》の輪郭を指先でなぞる。  彫刻を得意とする魔術師《まじゆつし》の解析が始まる。 「……基本はオーク材だな。ミリ単位の厚みに削り出した木材に、蒸気を当てて緩《ゆる》やかに曲げているわね。複雑に組んであるが、釘やネジみたいなものは使われていない。組み上げ方は、竹かごを編んだり、寄木《よせぎ 》細工を作ったりするのに似ているかしら。手作業で複雑に組んであるが、逆に言えば、それは手作業で紐解《ひもと 》く事もできるし、別の形に組み直す事もできる……」 「え、ぇえと……? つまり、どういう事でしょう?」 「変形を前提に作られたカバンって訳よ」  シェリーは軽く拳《こぶし》を握ると、ノックするように手の甲で四角い鞄の側面を軽く叩《たた》き、 「むしろ、元々の形はカバンじゃないわね。何か別の物体を、折り紙みたいに規則的な手順で畳《たた》んで、強引にカバンのシルエットを作り出している。『新たなる光』の得意分野は、確か北欧だったな。となると——」 「へえ。折り紙ですか」  シェリーの説明を聞きながら、五和《いつわ 》は何気ない手つきで四角い鞄の表面に手を伸ばす。  すると、パチンという音が聞こえた。  試験場で『タコ殴《なぐ》り』された影《えい》|響《きよう》で壊《こわ》れかかっていた鍵《かぎ》が、ひとりでに外れた音だった。  途端《と たん》に、 「あっ、わわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわっ!?」  ボンッ!! と四角い鞄が膨《ふく》らんだ。  二倍とか三倍とか、そんなレベルではない。むくむくと形を変えて巨大化する木材の塊《かたまり》は、自分が載っていた棚を爆砕させ、さらに図書館のように並んでいた金属棚を次々と薙《な》ぎ倒す。  膨《ぼう》|張《ちよう》が止まった時、四角い鞄は巨大な船になっていた。  木材で作られた、大きなカヌーのようなデザインの船だ。全長は一〇メートル以上ある。  シュリーは呆《あき》れたように息を吐きながら、 「……お前は、あれだな。オルソラ=アクィナス級の天然ぶりを秘めているのね」 「しっ、心外です!! いくらなんでも、あんなほわほわシスターはどじゃありませんよ!!」  五和《いつわ 》は慌てて否定した。  オルソラ=アクィナスというのは、文書の中の暗号を解く専門家なのだが、とにかく天然マイペースで知られる超巨乳のシスターの事だ。  遺失物保管庫の惨《さん》|状《じよう》に気まずくなった五和は、シェリーから目を逸《そ》らしつつ、 「そ、そういえば、オルソラさんは呼ばなかったんですか? 分野は違いますが、あの人も解析作業を得意としていた気がするんですけど」 「こういうヘマをしないように、敢《あ》えて放っておいたんだよ」  はう、と五和は(男から見れば)可愛《か わ い》らしい声を出す。  シェリーはうんざりした調子で、巨大な船へと形を変えたカバンに目をやり、 「……それにしても、元々の形は船、か。北欧神話のエピソードに当てはめると、スキーズブラズニル辺りが妥当な線って所かしら?」 「スキーズブラズニルって言うと……あれですか。主神オーディン含む、アース神族を全員乗せる事ができる船。確か、折り畳《たた》むと袋の中に収納できるサイズになるという話でしたけど」  もちろん神話に出てくる伝説の船……ではなく、そういう名前の霊装《れいそう》というだけなのだろうが、わざわざそのエピソードを参考にした以上、必ず関連性はあるはずだ。 「ま、カバンはあくまで輸送手段。この船に、別の『何か』を搭載して持ち運ぶのが目的なんでしょうけど。……仮にも神様の乗り物に見立てたご大層な船まで用意して、何を運ぶつもりなんだかね」 「……それが、『新たなる光』の計画の、要《かなめ》」  五和はポツリと呟《つぶや》いた。  鞄《かばん》ではなく、その中身にあるべき物こそが——イギリス転覆《てんぷく》のための最重要物品。  ご覧の通り、四角い鞄の中身は空っぽだった訳だが、まさかそれを運ぶ事だけが目的ではないだろう。『新たなる光』はスコットランドで何らかの物品を『発掘』していて、それをロンドンへ持ち込む事が計画の中枢という予測だったのだが……。  しかし、かといって、ベイロープはダミーで、本命は他《ほか》の仲間|達《たち》だ……というのも解《げ》せない。 「これを持っていた魔術師《まじゆつし》は、私との戦闘《せんとう》|中《ちゆう》にも絶対にカバンを手放しませんでした。単なる保険のダミーというだけなら、『片手だけで戦う』リスクを抱えてまで、死守し続ける理由にはならないと思います。……ダミーと一緒《いつしよ》に心中してしまっては、元も子もない訳ですし」 『試験場』からカバンと一緒に吐き出された羊皮紙《ようひ し 》には、『テスト対象』の行動と戦闘の記録が記載されている。それを見る限り、ベイロープは『鋼《はがね》の手袋』を砕かれ、気を失う直前まで四角い鞄を死守していたようだ。……どう考えても、単なるダミーに対する扱いではない。 「つまり、まだ秘密があるって訳ね。この空っぽのカバンには、後《ご》|生《しよう》大事に抱えなければならないような、秘密が」  シェリーは懐《ふところ》から、化石でも採掘するような、小さな刷毛《はけ》だのルーペだのを取り出した。どうやら、本格的に調べてみる気が起きたらしい。 「単なるびっくり箱でおしまい……って訳じゃないでしょ。霊装《れいそう》としての詳しい効果については調べてみるが、すぐに判明する保証はねえぞ。確か、アニューゼ達《たち》がエジンバラで『新たなる光』のガサ入れをしていたわね。そっちの方から当たった方が早いかもしれねえ」 「わっ、分かりました。それじゃ、申し訳ありませんけど」 「おう。お前はさっさと地上に上がって、残りのクズどもを潰《つぶ》して来い」  こちらを振り返らず、気安く承諾《しようだく》したシェリーに、五和《いつわ 》はもう一度頭を下げてから、遺失物保管庫を出る。  彼女は地下鉄駅の構内を走り、出口を目指しながら、念のためにアニェーゼの方にも携帯電話で(厳密には電話回線は利用せず、魔術的《まじゆつてき》な手法を用いているのだが)連絡を入れる。  電話に搭載されている小型スピーカーではなく、ストラップが小刻みに振動し、連絡先——スコットランド地方のエジンバラで調査中のアニェーゼの『声』を作り出す。 『いえ、すみません。こちらも調べていますが、スキーズブラズニルという情報すら掴《つか》めていませんでした。今後はその線で重点的に探ってみようと思います』 「そう、ですか。よろしくお願いします」  五和は受け答えをしながら、階段を駆け上がって地上へ出た。 『それにしても、ようやく一人|撃破《げきは 》ですか。情報によると「新たなる光」は四人構成。まだ三人もいるとなると、正直少々|厄介《やつかい》ですね』 「いえ、そちらについては朗報があります」  五和が携帯電話に向かって、そう呟《つぶや》いた時だった。  何かが五和のすぐ目の前を横切った。ベッコォ!! という破壊音《は かいおん》が炸裂《さくれつ》する。音のした方を見ると、一人の少女が巨大な看板にめり込んでいた。翼状の霊装の残骸を散らばらせつつ、ノーバウンドで二〇メートル以上吹き飛ばされた人間が、そのまま突っ込んだのだ。  完全に気を失った少女を眺めながら、五和は言う。 「あと二人です」  少女がめり込んでいる方とは反対へ視線を移すと、女教皇《プリエステス》の神裂《かんざき》|火織《か おり》が振り抜いた長刀の鞘《さや》を元の位置に戻している所だった。どうやらあれで思いっきり殴《なぐ》り飛ばしたらしい。世界で二〇人といない『聖人』の腕力は、『鋼《はがね》の手袋』の効果どころではなかったようだ。  五和は携帯電話を切ると、歩道に転がっていた新たな四角い鞄《かばん》を拾い上げ、神裂や、彼女が従える天草式《あまくさしき》の集団の元へと合流していく。 「か、カバンは、一つだけじゃなかったみたいですね」 「ええ。そのカバンに『本命』と判断するべき何らかの中身が入っていなければ、他《ほか》を当たるしかありません。やはり全員を止めるまで、安心はできないようですね。できる事なら、暴力的な方法は避《さ》けたいんですが」      13  豪奢《ごうしや》な内装に彩《いろど》られた馬車の天《てん》|井《じよう》で、淡い光を放つランプが小さく揺れていた。  ロンドン中心部から一〇〇キロほど離《はな》れた、街灯の光すらもない暗い道を、馬車が走る。それも一台ではない。大きな馬車を中心に、その前後に一〇台以上の馬車が連なっていた。馬車とは別に、儀礼《ぎ れい》用の防具を取り付けられた騎兵《き へい》用の馬も隊列に加わっている。  絵本や童話に出てくるような光景だが、そのアンティークな見た目に反して、速度は時速五〇〇キロを超えている。一台一台の性能ではなく、古い街道を敷設《ふ せつ》する際にも一定の間隔《かんかく》で設置された魔法陣《ま ほうじん》とも合わせた魔《ま》|術《じゆつ》効果だった。遠目に見れば、馬車の隊列は明かりを点《つ》けたリニアモーターカーのように見えたかもしれない。  金箔《きんぱく》や貴金属で彩られた馬車の隊列は、どれもこれも現実離れした輝《かがや》きを放っていたが、やはり一際《ひときわ》目立って見えるのは、数多くの人員に護衛されながら移動する、中央の大きな馬車だ。  通称は『移動鉄壁』。  英国王室専用の長距離《ちようきより 》護送馬車だ。  公道を走れるようにナンバープレートを取り付けたり、車輪や木材のフレームの強度などを調整されたパレード用の馬車は、同時に七〇〇以上の|霊装《れいそう》や魔法陣によって、徹底的《てつていてき》に守りを固められた一品である。  まるで童話に出てくるような装飾の馬車の中に乗っているのは、三人の女性|達《たち》。  第二王女キャーリサ、第三王女ヴィリアン、そしてインデックスだ。 「……結局、姉上は来なかったし」  窓の外を見ながら、キャーリサが呟《つぶや》く。  ドレスのスカートを限界に広げ、三人分ほどのスペースを陣取る彼女に対して、できるだけ衣服を畳《たた》み、半人分のスペースに無理矢理縮こまるヴィリアンが、オドオドした口調で応じる。 「姉君は少々、他人を信じにくい人ですから」 「少々どころか筋金入りだ。太陽に直接放り込んでも、三日間は耐えられるほどの強度を誇る馬車を用意しても、なお襲撃《しゆうげき》のリスクを捨てきれないのか」 「だからこそ、ではありませんか。姉君は他者が構築したセキュリティを絶対に信じない人です。なまじ一から一〇まで全部用意されているからこそ、自分の入り込む余地がない。そして、その手で確かめられないものを、姉君は信じる事ができない。……別宅であるウィンザー城の私室を切り離し、自分好みに作り替えてしまった話はご存知でしょう?」 「まぁ、『味見』のためにペットを飼ってるぐらいだし……。その割に、姉上はしょっちゅー宮殿を抜け出して城下へ赴《おもむ》いてるよーだが」 「自分の素《す》|性《じよう》を知らぬ民の言葉には邪気がない、との事でしたけど」  ふむ、とキャーリサは息を吐《は》いた。 「今は姉上よりも、ユーロトンネルの方が重要か」  手持ち無沙汰《ぶさた》で足をぶらぶらさせているインデックスをチラリと見ながら、彼女は言う。 「カーテナ=セカンドによって守られてる我が国も、永遠の繁栄《はんえい》が決定づけられてる訳ではないの。『天使長』を国王に、『天使軍』を騎士《きし》|団《だん》に見立てて民衆を従えた所で、当の民衆の大多数が暴走してしまえば、国家はその機能を失う。……神話のよーに、大洪水で一掃してしまう訳にもいかないし」 「……、」 「そーいった危機を防ぐため、表からは『騎士派』が、撃《う》ち漏《も》らしは裏から『清教派』が、それぞれ治安の維持に努めてた訳だが……ユーロトンネル爆破に旅客機のテロ未遂《み すい》……今回立て続けに起こった問題は、我が国の民を揺さぶるには十分すぎた」 「しかし……」  ヴィリアンは慎重に言葉を選ぶ。 「仮に一連の件にフランスが関与しているにしても、その背後にはローマ正教の影響力《えいきようりよく》があるはず。フランスだけを責めたところで何が解決するというのです?」 「かもしれないが、どちらが黒幕にしても、フランスをねじ伏せる必要がある」  キャーリサは両腕を組み、 「バチカンは堅い。一朝一夕で攻め落とせない以上、長期戦に備え、前線補給基地を建造する必要があるだろう。となると、後は地理的な問題だ。どんな手を使ってでもフランス側に『協力』を取り付け、バチカンの目と鼻の先に基地を建造しなければならないの」 「ふ、フランスでなくとも、例えば地中海の洋上に補給基地の役割を担《にな》う大規模な補給基地を作って圧力のみを与えるという選択肢もあるのでは?」 「その場合、地中海を守るのがフランスだ。どのみち、黙《だま》らせなければならない事に変わりはないの。……なおかつ、海上|要塞《ようさい》は上空と海中、双方を警戒しなければならない分、あまり現実的な選択肢とは言えない。強度の問題もあるし」  陸上の基地は壁が破れても塞《ふさ》ぐだけだけど、海上の場合は穴一つで沈んでしまう訳だ、とキャーリサは付け加える。  不安そうに眉《まゆ》を寄せるヴィリアンは、胸元に両手を当てながら、 「……フランスへの協力要請。それは、本当に軍事行動でしか求められないのでしょうか」 「真剣にそれを望むなら、具体的な方法を考える事だ」  キャーリサの言葉に、ヴィリアンは顔を上げる。 「姉上は頭脳、私は軍事、そしてお前は人徳に特化してる。私は自然とそーいう方法ばかり頭に浮かぶよーになってしまったが、お前ならもっと効率の良い方法を模索できるかもしれない。……あるいはフランスだけでなく、ローマ正教に対しても」 「姉君……」 「そーした判断材料を集めるためにも、ユーロトンネル爆破の原困を今一度調べてみる必要があるの。ベストの回答を導きたければ、気を引き締《し》めろ。もーすぐフォークストーンだ。ドーバーに繋《つな》がるユーロトンネルのターミナルは近いし」      14  上条当麻《かみじようとうま》は深夜のロンドンを突っ走っていた。  馬鹿《ばか》正直に少女——彼は名前を知らないが、『新たなる光』の一人であるレッサーを追っている訳ではない。上条はビルとビルの間にある細い道を一直線に駆けているのだ。  頭上では、甲高《かんだか》い音が夜の街を移動していた。  各々《おのおの》のビルに設置されている、防犯ベルだ。レッサーは今も、ビルの三〜四階程度の窓から窓へと、ガラスを割りながら飛び移っている。そのたびに次々と防犯ベルが作動するため、傍《はた》で見ていると『音の塊《かたまり》が移動しているように』見えるのだ。  どうやら無人の商業ビルらしく、騒《さわ》ぎや悲鳴などは聞こえていないが、少女の方がそれに気を配ってはいないだろう。『人払い』のようなものが使われている様子もない。たとえ怒号や絶叫が響《ひび》いても、彼女はそのまま突っ切るつもりなのだろう。 (ええいっ!! 大雑把《おおざつぱ 》なヤツだな! とても潜伏《せんぷく》活動している魔術師《まじゆつし》には見えない!!)  心の中で文句を叫びながら、上条はさらに走る。  そこで、異変が生じた。  気がつくと、上条と並走するように、何かがあった。  それはオレンジ色の小さなカボチャだった。  握り拳《こぶし》ぐらいの大きさのカボチャには目と口が彫ってあった。その小さなカボチャが、上条と目線を合わせるように、手近な路地の壁を走っている。 『見た所、魔術師でもなければイギリス人でもないご様子。あなた様は何故《なぜ》にこの私を追いかけていますかな?』  ふざけた調子の言葉は、幼い少女のものだった。  わざわざ日本語で少女の声は続く。 『ま、日本人街に住んでいる移民だったらごめんなさいだけど、違うよね? 匂《にお》いで分かりますもん。あなたはイギリスについて、それほど知っているとは思えません』 「……『新たなる光』か!?」 『大正解。「新たなる光」のレッサーです。第零聖堂区と共闘《きようとう》している事といい、組織の名前を知っているって事といい……うーん。ただの一般人ならさっさと帰れと忠告したかったんですけど、この状況ってどうなんでしょうねえ』  悩むような調子でありつつ、そこに深刻さはない。  完璧《かんぺき》に馬鹿《ばか》にされている、と上《かみ》|条《じよう》は歯を食いしばる。 『ともあれ、あなたが魔術師《まじゆつし》であろうがなかろうが、イギリス人ではないという時点でアウトです。参加資格がない。変な事に首を突っ込んでいないで、さっさと帰ってくださいな』 「参加資格!? 何を言ってやがるんだ!!」  狭い路地に、上条の怒鳴り声が響《ひび》く。  対して、カボチャは道案内をするような調子で答える。 『そりゃあそうですよ。私|達《たち》はイギリスに住んでいる魔術師の代表として、イギリスをより良い方向へ持っていくために、わざわざこんな大それた事を実行しているんですからね。仮に私達の前に立ち塞《ふさ》がる者が現れるなら、最低限、私達と同じ程度にはイギリスを愛していませんと、お話になりません。その辺の旅行者が首を突っ込んで良い問題ではないんですよ』 「ふざけんな! お前達がスコットランドで変な霊装《れいそう》を『発掘』して、ロンドンに持ってきているのは分かってんだ! 明らかにヤバい事をされるっていうのに放っておけるか!!」 『参りましたねー。第零聖堂区の分析ではそんな事になっているんですか。まぁ、敵にヒントを与えるのも馬鹿らしいので、別にそう思ってもらっていても構わないんですけどね』 「何を……言ってやがる?」 『分からなくて結構ですよ。ただ言えるのは、私達は「戦争」の過程で、確実に敗北するであろうイギリスを、ギリギリの所で方向転換させたいだけって事です』  発掘された霊装の存在。  それをロンドンに持ち込み、発動させる事自体は否定しない、少女の台詞《せ り ふ》。  ……具体的に『新たなる光』がどんな計画を練っているかは不明だが、どう考えてもまともなものとは思えない。 『ともあれ、この問題はイギリスに住む国民でなければ、切迫感をリアルに体感する事はできないでしょう。明確な悪人でもない人間を進んで殺したいとも思いませんし、対岸の火事を眺めて 憤 《いきどお》るようなお人好《ひとよ 》しは黙《だま》っていてくださいな』  言葉と同時に、パン! とカボチャが弾《はじ》けた。  パーティ用のクラッカーのように、色とりどりの紙テープを吐《は》き出すカボチャを、上条は無駄《むだ》と知りつつ思わず右手で殴《なぐ》り飛ばす。 (くそっ! 単に逃げ足が早いだけじゃなくて、見えない位置にいるはずの俺《おれ》の追跡ルートを確実に捕捉《ほ そく》してやがる!! あいつの方は大丈夫《だいじようぶ》なんだろうな!?)  舌打ちする上条は、小さな道を抜けて大きな通りに飛び出した。片側三車線の大きな道路だ。もう深夜一二時近いが、未《いま》だに帰宅途中の車や深夜バスなどが結構行き来している。  と、そこで上《かみ》|条《じよう》は足を止めた。  靴底を擦《こす》るように急停止しながら、ビルの一角へ目をやる。  三階の窓。  ばんっ!! と強化ガラスに両手を当ててびっくりしているレッサーがいた。彼女は驚異的《きよういてき》な跳躍力《ちようやくりよく》を誇るが、『下から上へ跳ぶ』のは得意でも、『上から下へ飛び下りる』衝撃《しようげき》までは緩和《かんわ 》しきれないらしい。  そして、片側三車線の道路を一跳びで飛び越えるほどの跳躍力はない。  言うなれば行き止まりにぶつかった状態のレッサーへ、さらなる苦難が待ち受ける。  ゴッ!! と。  背後から追い着いたオリアナが、レッサーの背中に思い切りドロップキックを放ったのだ。  強化ガラスが粉々に破れ、レッサーの体が空中へ放り出された。  オリアナから提示された作戦は以下の通り。  大通りのビルからレッサーをぶん投げるから[#「大通りのビルからレッサーをぶん投げるから」に傍点]、彼女を地上で受け止めるように[#「彼女を地上で受け止めるように」に傍点]。  上条は両手を広げてこう叫んだ。  「はっはっはーっ!! デッド・オア・拘束ゥゥうううううううううううう!!」 「……ッ!?」  レッサーは絶句したが、空中ではどうしようもない。  と、そこで上条は気づいた。  少女の小柄な体と一緒《いつしよ》に、キラキラと輝《かがや》く数百のガラス片が降り注ごうとしている事に。 「しっ、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!」 「こら伏せないで!! 受け止めてくんないと私が死ぬーっ!!」  英語で何やら叫ぶレッサーは、四本刃の槍《やり》——『鋼《はがね》の手袋』を振り回す。その先端《せんたん》でビルの壁面を叩いた直後、バァン!! という凄《すさ》まじい音と共に、レッサーの体が水平に飛んだ。  彼女はそのまま街路樹と街路樹の間にある、ハロウィン用の飾りの山へ直撃すると、バキバキと装飾を壊《こわ》しながら下へ下へ。どうやらクッションに使ったらしく、衣服のあちこちを切り裂きながらも、的確に地面へ着地し、レッサーは上条に背を向けて再び走り出す。  呆気《あつけ 》に取られる上条に、三階の砕けた窓からオリアナが顔を覗《のぞ》かせた。  彼女は両手を口元へ筒状に当てて、遠くまで届くように、こう叫ぶ。 「大ァい減エん点ェんンンンンンぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅんんんんんんんんんんんッ!!」 「悪かったなっ!! 追えば良いんだろ追えば!!」  ガラスの雨の恐怖にちょっぴり目尻《め じり》に涙を浮かべつつ、上条はレッサーの背中を追う。      15  アニェーゼ=サンクティスはイギリス北部、スコットランド地方にいた。  大都市エジンバラのヨットハーバーだ。湾の内部に位置するこのヨットハーバーは高波が発生しにくい事から、所有するヨットやクルーザーを長期間保管しておくために重宝されている。  アニェーゼは船の上にいた。  ただし、海の上ではない。  ヨットハーバーの手前には、アスファルトの大きな広場があった。そこに並べられているのは、風雨にさらされてボロボロになったクルーザーだ。老朽化して穴が空いているため、海に浮かべられなくなったものが、こうして陸に揚げられている訳だ。  ここにあるのは解体待ちか、新品を買う余裕のない会社員が安値で買ったクルーザーを修理するために一時保管しているものが大半だ。 「これで三ヶ所目、ですか」  呟《つぶや》くアニェーゼに、同《どう》|僚《りよう》の修道女、ルチアが声を放つ。 「……航行機能は失われていますが、居住スペースは手入れされています。それから、過去二つの『隠れ家』と共通するセキュリティを確認しました。やはり、『新たなる光』の拠点ですね」  その言葉に、アニェーゼは目を細める。  現代に生きる近代魔術師《アドバンスドウイザード》の大半は、仰々《ぎようぎよう》しい城や塔などを建造しない。一ヶ所に力を注いだ所で、そこをガサ入れされたら全《すべ》てを失うからだ。よって、彼らはアパートや雑居ビルの一室、キャンピングカーなど、『いつでも捨てられる簡単な拠点』を複数用意する。財産を小分けする事で、少しでもリスクを減らせるように、だ。 『新たなる光』は、暗黙《あんもく》の了解を理解している。  それは端的《たんてき》に、彼女|達《たち》が興味本位で恋占いをするような連中ではなく、本格的な魔《ま》|術《じゆつ》結社としての力を有している事を示していた。 (面倒|臭《くさ》そうな相手です……)  アニェーゼはため息をつき、それからルチアに言った。 「内部に何か情報は残されていましたか? 今、彼女達が使っているカバン——スキーズブラズニルの詳細や、そのカバンを使った魔術師達の計画などについてです」 「セオリー通り、全ての拠点にある情報源は、信号一つで遠隔地《えんかくち 》から抹消《まつしよう》できるように設計されているようです。今、シスター・カテリナとアガターが内部の詳細を調べている最中ですが」 「シスター・アニェーゼ」  と、クルーザーの床面に直接取り付けられたハッチが上に開いた。そこから顔を覗《のぞ》かせたメガネの修道女、アガターがこちらに手招きしている。 「機関室から、例のカバンの試作品を見つけました。霊装《れいそう》を直接|破壊《は かい》し損ねた所を鑑《かんが》みるに、連中はここには立ち寄らず、急遽《きゆうきよ》、遠隔《えんかく》操作で情報のみを破棄《はき》したのでしょう。『新たなる光』にとっても、今回の計画を早めるイレギュラーな要因があった可能性が指摘されます」 「で、そのカバン……スキーズブラズニルの霊装としての効果は?」 「実証していませんので保証はできませんが、ある程度分解してみた限りですと」  アガターは手にしたメモをめくりながら、 「おそらく、『鞄《かばん》A』に入っている物品を『鞄B』『鞄C』『鞄D』……と同系の霊装へ自由に空間移動させるものです。効果範囲はおよそ半径一〇〇キロ。その圏内であれば、彼女|達《たち》は好きな相手に『パス』する事ができます」 「なるほど……。何らかの重要なアイテムを、ラクロスのように四人でパス回ししながらロンドン内へ切り込もうとしていた訳ですか」  その『重要なアイテム』が何であるかは知らないが、わざわざこんな霊装を用意するぐらいだ。ろくでもない意味で『重要』なのは間違いない。 「順当に行けば、爆弾ないし武器の代わりになる物でしょうか」 「そちらについても調べる必要がありますね」  すでに四人構成の『新たなる光』の内、二人は天草式《あまくさしき》の手でリタイヤしている。しかしスキーズブラズニルの『中身』が自由にパス回しできる以上、『中身』は誰《だれ》でも自由に発動できる可能性が極めて高い。  アニェーゼは傍《かたわ》らにやってきた修道女のアンジェレネから報告書を受け取りながら、 「……過去二つの『隠れ家』から得た情報によれば、彼女達『新たなる光』はエジンバラ近辺で何らかの発掘作業に勤《いそ》しんでいた様子。おそらくそいつが、件《くだん》の『ろくでもないアイテム』なんでしょうけど」 「シスター・アニェーゼ! 緊《きん》|急《きゆう》です!!」  と、居住ブロックに繋《つな》がる扉を開け、カテリナが大声を放った。そちらを見るアニェーゼに、カテリナは丸めた羊皮紙《ようひ し 》を投げる。それを広げたアニェーゼの肩が、ビクリと硬直した。 「……嘘《うそ》でしょう……?」      16  上条当麻《かみじようとうま》は裏通りを走っていた。  レッサーがまたもや驚異的《きよういてき》な大ジャンプをしたらどうしよう、と思っていたのだが、どうも向こうでも不具合が生じているらしい。街路樹をクッションにしたとはいえ、やはりビルから無傷で着地する事はできなかったのだろう。  現在、彼女は透明なチューブで金属製の背骨を覆《おお》ったような尻尾《しつぽ》を左右に振りながら、普通の人間のように路地を走っている。とはいえ、一般的な少女よりもはるかに速い。短距離走《たんきより そう》のスプリンターが、そのままの速度を維持してマラソンに参加しているようなものだ。  オリアナはビルから降りるのに手間取ったのか、近くにはいない。  ここで見失ったら、本当におしまいだ。  レッサーが路地の角を曲がるたびに緊《きん》|張《ちよう》を強《し》いられる上《かみ》|条《じよう》の耳に、携帯電話の着信音が聞こえた。画面を見ると知らない番号だ。そもそも先頭の番号からして日本ではお目にかかれない。  走りながら通話ボタンを押すと、聞き慣れた少女の声があった。 『良かった、繋《つな》がりました! 天草式《あまくさしき》経由で情報を聞き出して正解でした!!』 「アニェーゼか……?」  っつか、何で天草式は俺《おれ》の携帯電話の番号を調べているの? と素朴な疑問を持つ上条だったが、アニェーゼの口調はそんな質問を受け付けないほど切羽《せつぱ 》|詰《つ》まっている。 『「新たなる光」の目的の一部が分かりました! 彼女|達《たち》の最終的な標的は、現在ユーロトンネルの調査のために、フォークストーンのトンネルターミナルへ赴《おもむ》いた、英国の王女達です!!』 「本当かよ……?」  上条はギョッと身を強張《こわば 》らせた。 『バッキンガム宮殿は外交上の問題で、魔術的《まじゆつてき》なセキュリティは構築されていません。ですが、それにしても、多数の騎士《きし》や魔術師……そして何より、女王陛下本人の力によって堅く守られているのは事実。馬車を使って王女達が宮殿を離《はな》れたのは、「新たなる光」にとっては好機だったんです!!』  英国の王女の暗殺。  背筋に冷たいものが走る上条に、アニェーゼはさらに言う。 『問題はそれだけじゃありません。英国王室は「公式には」否定しちゃあいますが、カーテナ=セカンドの存在を考えると、一つの懸念《け ねん》があるんです。「王家の者」を発動キーとする大規模術式の存在ですよ』  アニェーゼの言う『王家の者』とは、単純な血筋の問題ではなく、『英国王室という枠組みに、魔術的に組み込まれた人物』を差すらしい。政略結婚などの事情で、様々な国の重鎮《じゆうちん》と繋がりを持つ英国王室は、単純に『イギリス人の王の血筋』だけでは説明できるものではないようだ。  仮に血筋だけで王家か否《いな》かを判断すると、例えば『外国のお姫様が英国のお后様《きさきさま》として王室に加わった場合、お后様だけ「王室の魔術」が使えない』という事態になってしまうのだ。 『その「王家の者」を発動キーとする魔術は、色々とウワサされているんですけど……その中でも、最も過激なものが「王家の者」の死を発動条件に応用しちまった、大規模術式です』 「何だ……そりゃ」 『兼ねてよりウワサされているんですが……平たく言えば、イギリスでも最大級の「国家単位の大破壊《だいは かい》を生み出す」攻撃《こうげき》術式ですよ。一六世紀辺りに配備されたものらしく、当然、想定している敵はヨーロッパ諸国。発動すればその全域がほぼ完璧《かんぺき》に吹き飛ぶと言われています』  アニェーゼの言葉は、もはや現実味がなかった。ウワサなので誇張されている可能性もありますが……という彼女の言葉も、何の気休めにもならない。 『ですが、そんな馬鹿《ばか》げた威力の術式を発動すれば、イギリス国内だって地殻変動や天変地異に襲《おそ》われちまいます。……文字通り「最後の一撃」だから、後先を全く考えていないんです。メチャクチャな威力のマグナム拳《けん》|銃《じゆう》を片手で撃《う》つようなものかもしれません。あくまでウワサですが、発動と同時にイギリス国民の大半も「反動や余波」で死亡すると言われています』  もし、それらの情報が正しかったとしたら。 『新たなる光』の真の目的とは……。 「確か、『新たなる光』の一人は、イギリスのために命を懸《か》けられるようなヤツじゃないと、この戦いの参加資格がない……みたいな事を言っていたけど」 『その程度には、本気で王女暗殺を考えているって事でしょう。そして、王族の絶命をきっかけに放たれる魔《ま》|術《じゆつ》についても』  背筋に寒気が走る上《かみ》|条《じよう》は、慌ててアニェーゼに言う。 「待てよ。イギリスの王室だって、何百年も続いているもんだろ。その間に何人もの王様だって倒れているんだろ。本当にそんな大規模術式があるなら、とっくの昔にイギリスやヨーロッパは消滅していないとおかしいんじゃないのか!?」 『十字教には「終《しゆう》|油《ゆ》」の秘蹟《ひ せき》というものがあるんです。平たく言えばある種の儀式《ぎ しき》で、死者を天国へ届けるため最後の審判に向けた下準備……って感じなんですが、おそらくそれが回避《かいひ 》コードとして機能しているんじゃないでしょうか? 歴史上、城内で崩御したり処刑された王族は、皆「終油」の秘蹟を実行されていた。しかし、それ以外の……「終油」を実行する暇もないほどの、突発的な戦死や暗殺などが成功しちまった場合……』 「この国に仕掛けられていた、王族専用の術式が発動する……」  王の死は国の死。  全《すべ》ての力を結集した最後の一撃を使ってでも、その仇《あだ》を討つべし。  そんな風に信じられてきた時代の魔術施設が、未《いま》だに機能しているとしたら……。  思わず想像して、上条は身震《み ぶる》いした。  慌てて否定材料を探す。 『新たなる光』は発信機となる霊装《れいそう》を、王族専用の馬車に取り付けた。  しかし、それだけですぐさま暗殺が成功する訳ではないはずだ。 「そうだ。お姫様だって丸腰で外には出ないだろ! 一般的かどうかは知らないけど、大統領の乗る車とか飛行機とかって、特別製だったりするもんじゃないのか!?」 『確かに、あの馬車は「移動鉄壁」という異名を持つほど、多種多様なセキュリティを構築しています。ただ、取り付けられた発信機は馬車の位置情報だけでなく、扉の開閉状況なども知る事ができるようで……』 「お姫様自らが馬車を降りた所で、何らかの『襲撃《しゆうげき》』が起こる……?」  上《かみ》|条《じよう》は自分で呟《つぶや》いてから、ゾッと背筋に寒いものを感じる。 「その馬車には、護衛とかはついていないのか!?」 『当然ありますが……彼らは「馬車の防衛機能が正常に働いている事を前提に」警備体制を築いているでしょうね。前提がズレれば、完壁《かんぺき》な体制にも隙《すき》が生まれちまいます。そこを縫《ぬ》うように、遠距離《えんきより 》から狙撃《そ げき》でもされちまったら……』  くそ、と上条は吐《は》き捨てる。 「それにしても発信機なんて……何で王様の馬車にそんなもんが取り付けられてるんだ」 『手際《て ぎわ》については分かりません。そして、発信機を取り付けられた以上、他《ほか》の細工が施《ほどこ》されている可能性も否定はできません。……例えば、馬車の魔術的《まじゆつてき》な防御機能を一時的に弱めるとか』 「……最悪だ」  上条は呻《うめ》き声を上げた。  あそこには王女様はもちろん、インデックスも同行しているはずだ。 『襲撃方法は未《いま》だ不明です。ロンドンはフォークストーンのトンネルターミナルへ向かうための「近道」にすぎないのか、それとも何らかの遠距離攻撃を放つ事ができるのか。いずれにしても、手早くメンバーを拘束してください!』  上条は前方を逃げるレッサーの背中を睨《にら》みつける。 「まだ見つかっていないメンバーだっているんだろ!?」 『「新たなる光」は四人構成で、その内の二人はすでに撃破済みです。後はあなたが追っている一人と、どこにいるか分からない別の一人だけ。ただし、先ほど判明したスキーズブラズニルの特性上、おそらく複数犯でなければ彼女|達《たち》の行動力は減衰します』  アニェーゼは、スキーズブラズニルと呼ばれる四角い鞄《かばん》の、霊装《れいそう》としての効果を説明する。どうやら、四角い鞄Aから四角い鞄Bへ、『中身』を自由にやり取りできるアイテムらしい。 『敵の残りは二人。どちらかのカバンに「本命」となる中身が入っているはずですが』  仮に上条が追っているレッサーが『中身』を持っていたとしても、追い詰められればレッサーは最後の一人に『パス』をしてしまうだろう。  つまり、 「確かに、一人になりゃパス回しは封じられるが、本質的な暗殺攻撃を止められるとまでは行かねえな!! 『中身』さえあれば、誰《だれ》でも本命の攻撃は実行できそうな雰囲気《ふんい き 》じゃねえか!!」 『ええ。結局は一人一人|炙《あぶ》り出して、全員拘束するまでは安心できません。ですから急いで!』  上条は携帯電話を切ってポケットにねじ込むと、改めて前方を見据える。  と、レッサーが角に曲がり、上《かみ》|条《じよう》がその後を追った所で——唐突に、彼女が消えた。 (ッ!?)  一《いつ》|瞬《しゆん》、心臓が止まりかけた上条だったが、すぐに否定する。  ビルの壁面に、非常階段が伸びている。  上条が見上げると、鉄製の階段を駆け上がるカンカンという音が遠ざかっていく。 「上か」  彼は一度息を整えると、改めて階段に駆け込む。ビルの高さはおよそ五階程度。その内、四階の扉が開いている。何度も折れ曲がる踊り場に目を回しそうになりながら、一気にそこまで走ろうとした所で、  バギン、という音が聞こえた。  そして、銀色に光る四本の刃が見えた。  レッサーが鉄の非常階段と煉瓦《れんが 》の壁の間に刃をねじ込み、強引に繋《つな》がりを断ったのだ。 「う、そ……だろッ!?」  一ヶ所のボルトが破断すると、階段全体がグラリと揺れた。その重みにつられるように、他《ほか》の階にあるボルトも、シャツのボタンが弾《はじ》けるように壊《こわ》されていく。上条はとっさに手すりを掴《つか》んだが、階段全体が大きく傾いた。もう保たない。  が、  非常階段全体が一五度ほど傾《かし》いだ所で、唐突にその動きが止まった。見れば、元々細い路地に設置されていたためか、非常階段の頂点の辺りが、隣《となり》のビルにぶつかっている。 「……ッ!!」  レッサーもその様子を確認し、さらに『鋼《はがね》の手袋』を放とうとする。  しかしその前に、上条が動いた。斜めに傾いだ階段の上を、段数を無視して手すりに足を乗せ、そのままレッサーのいる四階に向けて大きく飛ぶ。その途端《と たん》に、自重でくの字に折れ曲がった非常階段が大きく崩れて下へ落下し始めた。 「このおっ!!」  迫る上条に対して、レッサーはとっさに『鋼の手袋』を突き出す。  しかし彼女は知らなかった。  彼の右手には、|幻想殺し《イマジンブレイカー》という力が宿っている事に。 「ォ、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」  落下しながら振り下ろした上条の拳《こぶし》が、レッサーの『鋼の手袋』の先端に直撃《ちよくげき》し、四本の刃をバラバラに吹き飛ばした。その事実に驚愕《きようがく》するより前に、レッサーは上条とぶつかり、そのまま突き飛ばされる羽目《はめ》になる。  背後で、非常階段が完全に崩れる轟音《ごうおん》が炸裂《さくれつ》した。  バランスを崩して床に転がっていた上条は、荒い息を吐《は》きながら起き上がる。  前方にいるレッサーは、武器である『鋼《はがね》の手袋』を失っても、傍《かたわ》らの四角い鞄《かばん》を離《はな》さなかった。スキーズブラズニルと呼ばれる、『中身』を自由にパス回しするための霊装《れいそう》だ。  レッサーは逃げ道を求めて周囲に目をやったが、割り込むように上《かみ》|条《じよう》が言った。 「終わりだ」 「……、」 「最初に持っていた高速で逃げるための力はない。その上、とんでもない力を持っていた、変な槍《やり》みたいな武器も失われた。……今なら、俺《おれ》の手でも殴《なぐ》り倒せるんじゃねえのか」  なおも未練がましくエレベーターの方へ目をやるレッサーだったが、そこで決定打を突きつけられた。騒《さわ》ぎを聞きつけてやってきたのか、そちらの方からオリアナが現れたのだ。  出口を封じられ、二人に挟まれたレッサーは、短く息を吐《は》いた。  それから、手近なドアを開け放ち、部屋の中へと飛び込んでいく。しかしそちらに出口はない。上条とオリアナは互いに頷《うなず》くと、内部へ入っていく。  どうやらここは雑居ビルのようで、部屋はオフィスになっていた。煉瓦《れんが 》造りの洒落《し や れ》た建物の中に典型的なスチールデスクや業務用のコピー機などが鎮座《ちんざ 》している様子は少しシュールだ。  レッサーは窓際《まどぎわ》にいた。  しかし彼女には飛び下りられない。それをすれば、ただでは済まない事を知っているからだ。 「テメェの狙《ねら》いは分かっている」  上条は言った。 「バッキンガム宮殿を離《はな》れたお姫様を狙うつもりだったみたいだけど、どうやら失敗したみたいだな。他《ほか》の連中ももう捕まってるぞ」 「ふ」  その言葉を聞いて、レッサーは笑みを含んだ。  彼女はわざわざ日本語で応じた。 「でも、ランシスだけはどこにいるか分からない。でしょう?」 「……、」 「答えは簡単です。ランシスはロンドンにはいないんですから」  上条の背筋が凍った。  一《いつ》|瞬《しゆん》、すでに『新たなる光』のメンバーがロンドンを突破して、王女|達《たち》のいるフォークストーンへ向かっていると想像したからだ。  しかし、答えは違ったらしい。 「ランシスは、ロンドンから北へ三〇キロほど離れた所で待機しています。対して、私達三人は『中継役』。王室専用の馬車の位置に合わせて、各々《おのおの》が距離を調節すればそれで良かった。三人の内の誰《だれ》を『経由』しても、私達の計画は成功という事になるんですから[#「私達の計画は成功という事になるんですから」に傍点]」 「何を、言っている……?」  上《かみ》|条《じよう》は不審そうに眉《まゆ》をひそめたが、その時、オリアナがハッと顔を上げた。『運び屋』としての勘が何かを告げたのか、 「『中継役』……まさか!!」  慌てて単語帳を構えようとするオリアナに対し、レッサーはふふんと笑った。  笑いながら、彼女はこう言った。 「何で量産されているのが分かった時点で気がつかないんですかね。五個目の『|大船の鞄《スキーズブラズニル》』がある可能性を!!」  レッサーが四角い鞄《かばん》を大きく掲げた。  そこへ、壁を無視して青いレーザー光のようなものが四角い鞄へ突き刺さった。光線はそこで屈折するように方向を変え、また別の地点を目指して放たれる。  アニェーゼから聞いた話では、スキーズブラズニルの効果範囲は半径一〇〇キロ。ここからフォークストーンまで届いてしまう。  だが、 (……ランシスつてヤツから、こいつに一度『中身』が渡ったのは間違いない) 「お前、誰《だれ》に『中身』を飛ばしたんだ? 一体誰が五個目のカバンを持っているんだ!?」  上条は思わず掴《つか》みかかろうとしたが、レッサーは用済みになった四角い鞄を軽く放り捨てると、両手を大きく広げた。怪訝《け げん》な顔をする上条に、レッサーは言う。 「……目的は達成したけど、試合に負けたのも事実。こんなつまらない結果で、同盟を組んでいるあなた達《たち》、フォワードに迷惑をかけるのもアレですし」  今度の笑みは、何かを諦《あきら》めたようなものだった。 「受け入れましょう。口封じするなら、今がベストです」  窓の外に広がる夜景の一点が、チカッと瞬《またた》くのを上条は見た。  とっさに前へ出て、レッサーを突き飛ばそうとしたが、腕を掴んだ所で何かが起こる。  レッサーの背後にあった窓ガラスが粉々に砕け散り、そして真っ赤な鮮血が噴き出した。 「狙撃《そ げき》!?」  オリアナが叫ぶ。  上条が引きずり倒すまでもなく、衝撃《しようげき》を受けたレッサーは錐揉《きりも 》み状に回転し、床に激突した。彼女の腕を掴んだせいか、若干《じやつかん》ながら狙《ねら》いは逸《そ》れている。それでも肩口に直撃した何かは、彼女の腕をほとんどもぎ取ろうとしていた。動脈を破られたのか、傷口から信じられない量の血液が溢《あふ》れている。 「馬鹿《ばか》、伏せなさい!!」  言葉を叩《たた》きつけられたが、上《かみ》|条《じよう》は身動きが取れなかった。  口封じ。  その言葉が真実だとすれば、これは断じて何者かが上条を援護した訳ではない。  明らかに、害意のある攻撃《こうげき》だ。 「くそっ!!」  ようやく動けるようになった上条は辺りを見回し、コピー用紙の束を見つけた。それをグシャグシャに丸めるようにして、傷口へと押し付けていく。レッサーの体は急激に血を奪われたせいか、小刻みに痙攣《けいれん》を始めていた。ショック症状が起こりかけている。  このままでは、本当にまずい。 「救急車を呼べ、オリアナ!! いや、お前の扱う魔《ま》|術《じゆつ》の中に回復系の術式はないのか!?」 「残念だけど……」  悔やむように、オリアナは言う。  と、そこで彼女の動きが止まった。  窓を突き破り、レッサーの肩を貫通した『何か』が、オフィスのスチールデスクに突き刺さっていたのだ。三〇センチほどの棒に、その半分まで流線形の鏃《やじり》を取り付けたような、特殊な飛翔体《ひしようたい》だ。  オリアナが驚《おどろ》いたのは、その破壊《は かい》|力《りよく》の大きさ故《ゆえ》に、ではない。  その飛翔体に、見覚えがあったからだ。 「……『ロビンフッド』……」 「何だって!?」 「『騎士派《きしは》』が使っている遠距離《えんきより 》|狙撃《そ げき》用の霊装《れいそう》よ。でも、イギリス国内の魔術事件に関しては、『清教派』が主導していたはず。この件に『騎士派』が協力しているなんて聞いていないわ」  オリアナはスチールデスクから狙撃に使われた飛翔体を抜き取った。  その表面を指先でなぞりながら、 「『ロビンフッド』は軍事方面で有名な第二王女キャーリサの直属部隊で開発されたもの。……『新たなる光』の口封じにあの部隊が関《かか》わっているという事は……まさか……ッ!?」  オリアナが驚愕《きようがく》している傍《かたわ》らで、上条も身を強張《こわば 》らせていた。  原因はレッサー。  大量のコピー用紙で傷口を押さえられている彼女は、上条へ勝ち誇るためか、それとも応急手当に対する何らかの感傷のつもりか、震《ふる》える唇《くちびる》を動かして、こう言ったのだ。 「……私|達《たち》が輸送していたのは、カーテナ=オリジナル……」  にっこりと。  血まみれの顔に笑みを浮かべながら。 「……かつて歴史の中で失われた戴冠《たいかん》用の儀礼剣《ぎ れいけん》にして、王家の者しか扱えない慈悲《じひ》の剣。……当然ながら……後世に作られ、現在の女王が持つ……カーテナ=セカンドなど、はるかに凌《しの》ぐ、英国最大の霊装《れいそう》……。正真正銘《しようしんしようめい》、イギリスを変えるに相応《ふ さ わ》しい剣です……」      17  フォークストーン。  ロンドンから一〇〇キロほど離《はな》れた港町。ここにはドーヴァー海峡を横断する海底鉄道トンネル、ユーロトンネルのイギリス側のターミナルが存在する。  夜の闇《やみ》に包まれたターミナルの近くに、無数の馬車が停《と》まっていた。王室専用のものと、それを守る護衛用のものだ。他《ほか》にも多数の軍馬が休ませてあり、その周りには銀色の鎧《よろい》をまとった騎士《きし》|達《たち》が数十人待機している。  出入り口に明かりはない。  海底鉄道トンネルが途中で爆破されたため、ターミナルも稼働《か どう》していないのだ。そして、そちらにはインデックスが向かっていた。少し離《はな》れた所にいる第三王女のヴィリアンは、若い使用人から魔法《ま ほう》|瓶《びん》に入った紅茶を受け取っている。  その時、騎士団長《ナイトリーダー》の眉《まゆ》がピクリと動いた。  彼は手にしていた四角い鞄《かばん》に目をやった。  四角い鞄の重さを確かめると、騎士団長《ナイトリーダー》は静かに第二王女の元へと向かう。彼はカバンを掴《つか》んだまま、キャーリサの耳元でささやいた。 「——届きました[#「届きました」に傍点]」 「なるほど」  第二王女のキャーリサはうっすらと笑う。  騎士団長《ナイトリーダー》は彼女にしか聞こえない声で、さらに続ける。 「電子、魔《ま》|術《じゆつ》の双方の通信を傍受した限り……『清教派』の連中は、『新たなる光』が王女を暗殺する事で、イギリス全土に仕掛けられた対ヨーロッパ用の大規模|攻撃《こうげき》術式を自動発動させようとしている……などと勘違いしていたようですね」 「ふん。そんな胡散臭《う さんくさ》い伝説など、実在しないというのに」 「そこまで高威力の魔術が用意できるなら、もっと簡単に交渉を進められたでしょうし、何より、安易に民を死なせないための、『計画』ですからね」  右腕たる男の言葉を聞いて、キャーリサはさらに笑みを深くする。  そうしながら、彼女はこう言った。 「イギリス全土に潜《ひそ》ませた『騎士派』の全軍に伝えよ」  それは合図だ。  とある国家を内側から焼き焦《こ》がすために放たれた、一つの号令だった。 「侵攻を開始せよ。王を選ぶための剣、カーテナ=オリジナルは我が手中にあり。これより英国の国家元首はこの私、キャーリサが務める。平和主義の『前女王』と共にイギリスを腐らせたくない者は、自らの意志で立ち上がるが良い。新たなる英国の起動に必要な分だけ地均《じ なら》しを行い、必要な分だけ破壊《は かい》を行え、とな」 [#改ページ] [#改ページ]    第四章 その剣は戦と災厄を招く Sword_of_Mercy.      1  午前一二時。  日付の変更と共に、それは起こった。  例えば。  北部アイルランドにあるベルファスト、エニスキレン、ロンドンデリーなど各地の都市の病院や警察署などの主要施設が、大勢の警官や軍人によって封鎖《ふうさ 》された。彼らは『騎士派』あるいは『王室派』の第二王女派閥の息がかかった集団だった。一般人はただならぬ雰囲気《ふんい き 》に屋内で脅《おび》えるか、好奇心に押されて野次馬《や じ うま》になろうとした所を、警察に捕らえられたりしていた。  例えば。  スコットランドの独自通貨を製造している造幣《ぞうへい》|局《きよく》や、宗教的な拠点であるホリールード宮殿などが、その施設を守っているはずの警備員や騎士|達《たち》によって占拠された。また、エジンバラのヨットハーバーで調査活動を行っていた元アニェーゼ部隊は、数で圧倒する 『騎士派』の集団によって包囲される事になる。  例えば。  ウェールズにあるカーディフ城、スウォンジー城、オイスターマウス城、コンウィ城、ペンリン城、ボーマリス城、カナーヴォン城などの各種|城塞《じようさい》が、『騎士派』の手によって次々と陥落していった。地方議会や裁判所などは言うに及ばず、だ。  例えば。  イングランドの中心部、ロンドンとその近郊にも『騎士派』の手が伸びた。というより、最も『騎士派』が多くいるのは、イングランドだった。彼らは聖ジョージ大聖堂やウェストミンスター寺院といった宗教的拠点、バッキンガム宮殿や国会議事堂などの政治的|要《よう》|衝《しよう》へと、次々と足を踏《ふ》み入れていった。  もちろん、『清教派』の魔術師《まじゆつし》|達《たち》——『|必要悪の教会《ネセサリウス》』の面々も、無抵抗のままただ侵略されていった訳ではない。  ウェールズ。  この地方には城や砦《とりで》が多い。この地に攻め込むための拠点として、あるいは逆にこの地を守る要所として……様々な人々の様々な思惑によって建造された石造りの軍事施設だが、現在はそれらを全《すべ》て一つの派閥がまとめている。  すなわち、『騎士派《きしは》』。 「ぜっ、はっ、くそっ!!」  浅い呼吸を繰《く》り返し、闇《やみ》の中を修道女は走る。  彼女は城塞《じようさい》の中に備え付けられた礼拝堂を、『騎士派』に委託される形で管理していた。第二王女のキャーリサがカーテナ=オリジナルを手にした事で始まった『侵攻』で、真っ先に窮《きゆう》|地《ち》に立たされたのは、彼女のような『清教派』から出張していた城塞所属の修道女だろう。何しろ、自分以外の全員が、一斉に全方向から矛先を突きつけてくるようなものなのだから。 (いきなり刃を向けてくるなんて、『騎士派』の連中はどうしちゃったんだ!?)  数では圧倒的に不利。  この状況を覆《くつがえ》すには、まず『組織的|戦闘《せんとう》』を行えるだけの頭数を揃《そろ》える必要がある。 (くそっ、一人一人ならまだ何とかなったかもしれないのに……ッ!!)  走りながら、修道女は舌打ちする。  彼女が思っているのは、何も完全装備の騎士を叩《たた》き殺す、という意味ではない。英国の中に限るとはいえ、カーテナ=オリジナルの力を借りて、『天使』としての力を部分的に振るう騎士達と、まともに戦うつもりはない。  それでも、全力で魔術を振るえば時間|稼《かせ》ぎぐらいはできるはずだった。目眩《め くら》ましぐらいにはなるはずだった。……相手が一人なら。  時間稼ぎは所詮《しよせん》、短時間だけ敵の動きを封じるものだ。一人の動きを封じている間に別の所から新手が現れ、そちらに対処している問に動きを封じた敵が復活して……と繰り返してしまっては、何の意味もない。 (とにかく、他《ほか》の城塞に詰めていたシスター達と合流する! そこから連携して、集団と集団のぶつかり合いまで持っていく! せめて効率良く撤退《てつたい》するぐらいの組織的戦果を挙げられれば良いんだけど……ッ!!)  その時だった。  突然、横合いから銀色の鎧《よろい》が飛び出してきた。『騎士派《きしは》』の追っ手だ。殺すのではなく捕獲するよう命じられているようだが、その後でどんな目に遭《あ》うかまで保証はされていない。 「ッ!!」  修道女は袖《そで》の中から方位磁石を取り出す。  彼女の術式は方位が大きく影《えい》|響《きよう》する。修道女は方位磁石の示す通りの北へ、一枚のカードを放る。そこから光の塊《かたまり》を取り出そうとしたのだが、 (何も、出ない……ッ!?)  顔が強張《こねば 》る。術式が失敗した……その理由を考え、そして気づく。方位磁石の針を動かす力——つまり、磁力そのものを外部から干渉されていた、という可能性を。  つまり、方位磁石が示した方角は北ではなかった。  そうと知らずに針が示す方向へカードを放ったのだから、術式が発動するはずがない。  「しま……」  不発のタイムラグを見極め、銀色の鎧の腕が修道女に迫る。  大西洋、アイレイ島近辺。  真夜中の漆黒《しつこく》の海から二〇メートルほど上がった空中に、その要塞《ようさい》は浮かんでいた。 『カヴン=コンパス』と名付けられた移動要塞の輪郭は、直径二〇〇メートル、厚さ一〇メートルほどの、石でできた巨大な円盤だった。円盤の上面には『コンパス』の名を表すように、中心から各方位に向けて鋭いラインが走っていたが、この要塞の胆《きも》はそこではない。  下面だ。  そこには、たるんだロープが何十本も、何百本も張られていた。そして、ローブの一本ー本に、箒《ほうき》を携《たずさ》えた魔女《ま じよ》が腰かけていた。まるで渡り鳥が束《つか》の間《ま》の休息を得るような格好だが、彼女|達《たち》は皆、臨戦態勢にあった。  彼女達は、古ぼけた箒に一種の薬品を塗り込んでいる。  魔女は箒に乗るのではない。こうした薬品で飛行能力を追加した物品を乗り回すのだ。なので、この薬さえあれば箒以外の道具を操縦する事もできる。 (……まぁ、魔女の薬って言っても複数の魔草《ま そう》を使っているだけで、流石《さすが》に洗礼を受けなかった嬰児《えいじ 》を煮詰めるような真似《まね》はしないけどねー)  ロープ上で待機する魔女の一人、スマートヴェリーは軽く息を吐《は》く。同種の『魔女の薬』は彼女の服の内の肌にも塗られており、ぬるぬるした感触がちょっと気持ち悪い。  要塞下面の中央にある小さなドーム——通信用|霊装《れいそう》から、オペレーターの声が響《ひび》く。 『三番から二〇番、三〇番から三五番、四三番から五二番、射出準備完了しました! 所定の魔女《ま じよ》は順次加速し、向かってくる「騎士派《きしは》」の迎撃《げいげき》に当たってください!!』  その言葉を聞いたスマートヴエリーは片手に持った箒《ほうき》を掴《つか》み直すと、もう片方の手で魔《ま》|術《じゆつ》を発動し、自分が腰かけているロープをスッパリと断ち切った。  途端《と たん》に、重力による落下が始まる。  スマートヴェリーは切れたローブの先端を片手で掴む。二〇メートル級の巨大な振り子と化した彼女の体が、空中ブランコのように大きく揺れ、加速する。そして最も下端——その力を最大限に蓄えた所で、スマートヴエリーは手を離《はな》した。空中で箒にまたがった魔女は、そのまま黒い海面スレスレのラインを高速で突っ切っていく。  現代の魔女は天空を飛ばない。  一二使徒の一人、ペテロは『悪魔の力を借りて空を飛ぶ魔術師』と言われたシモン=マグスを、主に祈るだけで撃墜《げきつい》した。その伝承を利用した『撃墜術式』が十字教圏内で発達してしまったため、『十字教の教義で説明できる範囲の異端や異教の飛行術式』は、飛ぶのは簡単だが落とされるのも簡単という面倒なジレンマに陥《おちい》ってしまっている。  故《ゆえ》に、現代の魔女は天空を飛ばない。移動|要塞《ようさい》『カヴン=コンパス』のように、『撃墜術式を防ぎ切るだけの大型防壁』を搭載するための積載量を持たない小柄な魔女は、『天空を飛行しているのではなく地上を走行している』とごまかし、低空を高速で移動する事によって、ペテロ系統の『撃墜術式』から逃れるのが常識なのだ。  そんな事情もあって、海面スレスレを箒で爆走する魔女・スマートヴエリーの横に、同《どう》|僚《りよう》の魔女が数名、並走する。すでに海上を進む彼女|達《たち》の総数は一〇〇名を超えていた。  魔女達は通信用の霊装《れいそう》を介して高速で意志の疎通を実行する。 『どうするスマートヴェリーッ! 機動性では我々が上回っているが、総合的な攻撃性能では「騎士派」が上だ! ただでさえ「生身の力が強すぎて魔術的な仕組みを自ら破壊《は かい》してしまうため、鎧《よろい》に霊装としての強化機能をつけられない」ような怪物どもだからな!! しかも情報が正確なら、カーテナ=オリジナルを応用して「|天使の力《テ レ ズ マ》」の供給を受けているらしい! 私達の攻撃を直撃させても致命傷を与えられるかは分からんぞ!!』 『そのカーテナ=オリジナルとやらは、イギリス国内で最大限に力を発揮するんでしょー。……ま、ヨーロッパヘ 「侵攻」する事を考えると、まだまだ秘密がありそうだけど、少なくとも、ここで使用される様子はなさそうだし。だったら話は簡単。せっかくの移動要塞なんだから、国の外まで逃げちゃえば「騎士派」の力も半減するんじゃなーい?』  スマートヴェリーは無暗《む やみ》に甘ったるい言葉で、同僚の背中を押す。 『「カヴン=コンパス」が国境の外に出るまでの我慢《が まん》って感じ? あの要塞の上面は大規模|閃光《せんこう》術式の照射装置になってるからさー。適当に戦いながら「騎士派」を国境の外までおびき出せれば、あの馬鹿《ばか》どもをまとめて焼き払えるかもねん』 『私|達《たち》は疑似餌《ぎじえ》か。まったく、いつの時代も騎士というのは魔女《ま じよ》の尻《しり》を追うのがお好きらしい』 「というのがセオリーだけど、海洋制御系術式で迎撃《げいげき》してみるのも楽しいかもよー?」 『おいちょっと待て。結局どっちで行くんだよ!?』  その時、魔女達の行く手を阻《はば》むように、前面の海面が揺れた。  黒い水の中から、不気味に輝《かがや》く眼球のような光が複数|蠢《うごめ》く。 『来るぞ!!』  同《どう》|僚《りよう》が叫んだ直後、ミサイルのように海面から大量の何かが飛び出した。  それは『騎士派』の銀色の鎧《よろい》だった。  大勢の鎧が手にした槍《やり》の先端《せんたん》には、稲妻のように攻撃的な閃光《せんこう》が踊《おど》っている。  魔女の方も、応じるように箒《ほうき》の先端に火のような光を点《つ》ける。  一〇〇対一〇〇。  無数の光線が交差し、魔女と騎士の戦いが始まる。  スコットランド地方、エジンバラ。  ヨットハーバーで『新たなる光』についての調査活動を行っていた元アニェーゼ部隊は、二五〇人を超す、そこそこの組織だった。  そして現在、彼女達はさらに大規模な『騎士派』の面々に包囲されつつあった。 「……双方合わせて七〇〇人以上。普段《ふ だん》なら無許可のデモ活動とかで警察がすっ飛んできそうな事になっちまってますね。以前からいけすかねえ連中だとは思っていましたけど、まさかここまで倣憤《ごうまん》な態度に出られるとは」  アニェーゼが銀でできた『|蓮の杖《ロータスワンド》』を構えながら、低い声で言った。  彼女に背中を合わせるように立ち、木製の巨大な車輪を両手で掴《つか》んでいるのは、ルチアだ。 「特に『人払い』などが使われている様子もありませんし、もはや気を配る必要もない……となると、やはり、広範囲にわたって『騎士派』の侵攻が進んでいるようですね」 「れ、連絡の途絶えたロンドンの方も、気になりますね」  ボソボソと言う猫背のアンジェレネの周囲には、四つの金貨袋が浮かんでいた。  臨戦態勢の修道女達に対して、騎士の中の一人が歩み出た。  彼は言う。 「一応、可能な限り殺さぬよう指示は受けているが、これだけの人数が衝突《しようとつ》した場合、それを貫徹《かんてつ》できる保証はない。殺す意志はなくとも、単純に圧死させてしまうリスクは否定できん」 「だから怪我《けが》|人《にん》が出る前に降伏しろと? 随分《ずいぶん》とお優しい事で」 「……死人が出るが、構わんな」  改めて剣を構え直す騎士《きし》に対して、アニェーゼも不敵に笑う。  笑いながら、彼女は『|蓮の杖《ロータスワンド》』を足元の地面に打ち付けた。  思わずそちらに注目したのは、『騎士派』にとっては失敗だっただろう。  何故《なぜ》なら、そこから爆発的な閃光《せんこう》が迸《ほとばし》ったのだから。  カッ!! という真っ白な光が視界を奪ったのは、おそらく五秒もなかっただろう。  しかし光が消えた時、すでに修道女|達《たち》はいなかった。  二五〇人もの数のシスター達が、一人残らず消えていたのだ。 「な、に……?」  兜《かぶと》の中で目を瞬《まばた》かせた騎士は、周囲を見回したが、それらしい影は見当たらない。やがて彼らは互いに示し合わせると、どこかへ逃げたシスター達を探すため、広範囲の索敵《さくてき》を開始する。 「いやー。意外にバレないモンですね……」 『騎士派』の連中が去った後、ポツリと呟《つぶや》いたのはアニェーゼだ。彼女の周囲にはジャポジャポという音が響《ひび》いている。 「……まぁ、黒という色が保護色として機能する環境であるのは認めますが」 「な、何も、とっさに海へ飛び込む事はないんじゃないですか……?」  一〇月下旬の海の中でも割と冷静なのがルチア、ガチガチと歯を鳴らしているのがアンジェレネだ。海にいるのはこの三人だけで、他《ほか》のシスター達も思い思いの場所へと逃走していた。  アニェーゼはコンクリート製の堤防へ手を掛けて、ゆっくりと這《は》い上がる。水を吸った修道服は、外気に触れる事で一気に冷たくなっていく。 「あそこまで『騎士派』が堂々と活動してやがるという事は、エジンバラはもう陥落しちまったと見た方が良いでしょうね」 「こっ、これから、どうするんですか?」  堤防の上からアンジェレネの手を掴《つか》んで引き上げてやると、猫背の少女はそんな質問をした。  答えたのは、その横から自力で這い上がったルチアだ。 「ロンドンの方とも連絡が取れませんし、我々も自力で動くしかないでしょう。シスター・アニェーゼ。あなたの計算では、部隊の人間は、どれぐらい使い物になると思いますか?」 「……まぁ、散り散りに逃げたとはいえ、半数以上は『騎士派』に捕まっちまうでしょうね」 「そんなっ!!」  アンジェレネが悲鳴のような声を上げたが、アニェーゼは人差し指で彼女の唇《くちびる》を塞《ふさ》ぐ。 「連中のトップ……第二王女のキャーリサは、イングランド地方にいるはずです。捕らえられた修道女達がそちらへ連行される可能性も高い。逆に言えば、たとえ捕まっちまったとしても、イングランドに到着するまでは無事って事でしょう」 「ようは、輸送中のシスター達《たち》を再び救出してしまえば問題ない、という事ですよ。彼女達は我々を自由にするために働いてくれたのですから、こちらも最大限の働きで応《こた》えましょう」  アニェーゼ、ルチア、アンジェレネの三人は、深夜のヨットハーバーで静かに頷《うなずき》き合う。  それから、彼女達はこう言った。 「……さて、と。では手始めに……このびしょ濡《ぬ》れの服をどうにかしましょうか」  第二王女キャーリサと『騎士派《きしは》』の反乱は英国全土に広がっていく。  結局、『|必要悪の教会《ネセサリウス》』にとっての戦いとは『「清教派」と「騎士派」が正面から激突し、どちらかが倒れるまで徹底的《てつていてき》に戦い続ける』というものではなかった。 『騎士派』からの唐突な不意打ちを受けた『清教派』は、そこで無理に態勢を立て直す事に余計な力を注ぐよりも、一度退いて力を温存し、逆転の可能性を高める事に尽力したのだ。 『清教派』の彼らは単純な力比べでは負けてしまう事を理解し、教会や大聖堂の中から『本当に重要な物品』だけを取り出した上で、局地的に抗戦しつつも総合的には速《すみ》やかに撤退する、という選択肢を採る事になる。 『騎士派』と『清教派』は共に三派閥の一角だ。しかし英国の内部では、その序列は『騎士派』が優先される。この国の中では国王は天使長で、それに従う騎士は天使と認識されるからだ。  ただの魔術師《まじゆつし》である『清教派』と、天使の力を上乗せした『騎士派』が正面からぶつかれば、互いに消耗するのは必至。最悪、『清教派』全体が倒れる可能性も否定できない。  魔術師はその本分に則《のつと》り、闇《やみ》に紛《まぎ》れて機会を待つ。  そして。  ロンドン郊外にある魔術的|城塞《じようさい》、ウインザー城に、女王と最大主教《アークビシヨツプ》は佇《たたず》んでいた。エリザードが口にしているのは紅茶で、ローラ=スチュアートのグラスにはミネラルウオーターが注がれている。  ここには二人しかいない。  部屋の出入り口である両開きの扉は、魔術的なロックがかけられている。王室を守るに値する、超一流の鍵《かぎ》だ。  しかし、 (……ま、外側から破られたるまで三〇秒もかからぬわね)  物騒《ぶつそう》な事を考えているローラ=スチュアートだが、そう考えるだけの理由がある。  窓の外には、いくつもの松明《たいまつ》の明かりが見えた。  バタバタ!! という荒々しい足音が城内からも聞こえてきた。  それら全《すべ》ては、女王の統率から外れたものだった。いかに強固な守りを構築しているといっても、そのために働いている騎士《きし》|達《たち》が丸ごと裏切ったのではどうしようもない。現在、城の中でまともに忠誠を誓っているのは、『王室派』や『騎士派』とは切り離《はな》された庭師や使用人ぐらいのものだろう。  日付変更と同時に異変に気づいたエリザードとローラだったが、すでに逃げ場はなかった。かろうじて部屋の扉のロックをかける事には成功したが、この程度では時間|稼《かせ》ぎにもならない。 「……まったく」  ローラは透明な液体の入ったグラスを軽く揺らしながら、ため息をついた。 「かようになりし前に禁書目録を召集し、第一、第二、第三、いずれの王女が不穏《ふ おん》なりしか、その動きを分析させたるつもりだったのに。『騎士派』をここまで束ねたるといいし事は、軍事の第二王女、か。思うたよりも早く動きたるわね」 「うむ。我が娘ながら、この迅速《じんそく》な戦略は見事なり。やはりあいつは戦術の才に恵まれていたようだな」 「この親《おや》|馬鹿《ばか》は。今すぐ首を絞めてやりたし所なりけるけど、具体的にどうする訳。ご自慢《じ まん》のカーテナ=セカンドの力はまだ保《も》ちている?」 「ざっと二割。残りはカーテナ=オリジナルに持っていかれたな」  女王は傍《かたわ》らにある、刃と切っ先のない剣に目をやり、 「この状態でぶつかれば、カーテナ=セカンドごと両断されるだろう。元々、こいつは失われたオリジナルの機能を埋め合わせるための、間に合わせだからな。奪われたというより、本来の配置に戻ったといった方が近い。私の剣に力が宿っている方が不自然だったんだからな」  こんこん、と刃の側面を人差し指で叩《たた》く。  エリザードの口調はどこか楽しげだ。 「しかし、よくもまぁオリジナルなんぞ発掘したものだ。あの革命で失われて以来、数百年にわたって代々の王が調査計画を実行して、それでもヒントも得られなかったというのに。……そういえば、『新たなる光』は北欧系の術式を得意としていたか。となると、発掘作業にドヴェルグ辺りから伝わった金脈探査術式でも応用したのかもしれん。いずれにしても、カーテナ=オリジナルが出てきた以上、単純に剣と剣をぶつけても勝ち目はないなぁ」 「はっはっは。このクソッたれ」  水でもぶっかけてやろうかとローラが思ったその時、ノックもなしに巨大な扉が開け放たれた。というより、魔術的《まじゆつてき》なロックごと破壊《は かい》されたのだろう。十数名の完全武装の騎士達は、すでに各々《おのおの》が鞘《さや》から剣を抜いている。不作法どころか、強盗のようだった。  その中の一人が言った。 「すでにロンドンのみならず、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北部アイルランド、四文化全域の主要施設は我ら『騎士派《きしは》』が押さえました。つまり我々は『王室派』と『清教派』の拠点の大半を奪い、ほぼ全《すべ》ての機能を封じる事に成功しています」 「なるほど。それで英国全土をキャーリサ率いる『騎士派』一色に染め上げる、という訳か。斬首《ざんしゆ》と鮮血の嵐《あらし》にならんのは、カーテナ=オリジナルによって新体制を確立させる前に処刑を実行すると、ただでさえ繊細《せんさい》な三派閥四文化の『連合王国』の方々で抵抗が一斉に起こり、国家の枠組みそのものが崩壊《ほうかい》するリスクがあるためだな」  エリザードが呟《つぶや》くと、騎士は小さく頷《うなず》いた。  問答無用で斬《き》りかからない辺りは、敵対すれども多少なりの敬意が残っているのか。 「抵抗しなければ、余計な傷を負わせる事もありません。どうか、無用な血を流させぬよう、賢明なご判断をお願いします」 「お前も大変だな」  剣の切っ先を突きつけられ、女王エリザードは、それでも呆《あき》れたようなため息をつく。 「それはキャーリサのやり方ではない。伝言は正確に言わねば、第二王女の不興を買うぞ」 「……、」 「私の娘ならこう命令しているだろう。極めて事務的な降服勧告を突きつけ、従わなければ迷わず斬れと。後は……そうだな。斬ると判断した時は容赦《ようしや》をするな、周囲にいる一般出身の庭師や使用人を巻き込んでも良いから、とにかく女王を迅速《じんそく》に切断しろ……と、まぁ、最低でもこれぐらいは言っているだろうな」  騎士の手甲《てつこう》が、わずかに軋《きし》んだ音を立てた。  剣を握る手により一層の力を込め、押し殺した声で刺客《し かく》は告げる。 「……カーテナ=セカンドをこちらに引き渡し、我々の監視下に入っていただきます。……『清教派』の貴様もだ」 「くっく。一応、私とて『女王』と同じく三派閥の一角なれど、随分《ずいぶん》扱いが違いけるわね」 「貴様に関しては、ここで斬り捨てても構わん。我々の慈悲《じひ》を知る事だ」  騎士の恫喝《どうかつ》に対して、ローラは表情を動かさなかった。騎士の用意した鞘《さや》に女王がカーテナ=セカンドを収めているのを眺める目にも、どこか余裕がある。  旧知の仲であるエリザードに対して、ローラは笑ってこう言った。 「さぁて、どうする?」      2  ドーバー海峡の下を走るユーロトンネルの爆破跡地に、インデックスはいた。  彼女の足元には線路が走っている。  ユーロトンネルの入り口である巨大なターミナルは、ドーバーからやや離《はな》れたフォークストーンという街にある。多くの鉄道線路はここへ集約し、三本の海底トンネルへと再分配される。  インデックスは三本のトンネルの内の一つへ足を踏《ふ》み入れる。  トンネルが実際に海中に入るまで数キロの道のりがあるはずだったが、インデックスはトンネルの入り口から下り坂を二〇メートルほど進んだ所で立ち止まった。鉄とコンクリートに囲まれた下り坂は、唐突に途切れていた。実際にトンネルがへし折れた場所は離《はな》れているが、地面より下に位置するため、流れ込んだ海水がここまでせり上がっているのだ。  ユーロトンネルは二ヶ所の爆発によって、丁寧《ていねい》に三等分されていた。  闇《やみ》の色を吸って黒々となった海水のせいで、本当の爆破ポイントまで近づく事はできない。  しかしインデックスは、目の前でトンネルを遮断《しやだん》する海水を眺めながら、こう言った。 「『ロレートの家』の伝承を基にした、ローマ正教系の術式が破壊《は かい》の象徴に使われているね」  イタリアのとある町にある家屋で、聖母マリアの住居といわれる。この家は『ひとりでに消え、ひとりでに現れる』事で有名で、伝承では過去に二度ほど瞬間《しゆんかん》移動を果たしたらしい。 「……ただ、このトンネルには『建物が移動する』という半端《はんぱ 》な効果だけを付加しているみたい。一部分だけが不自然に『動いた』結果、トンネルに亀裂《き れつ》が入っちゃったみたいだね」 「ふむ」 「オリジナルの『ロレートの家』に関しては、フランスの王様であるルイ九世が訪れている事で有名だね。おそらくその時、断片的に分析してフランスへ持ち帰った霊装《れいそう》の理論を、現代になって、何者かが今回のトンネル爆破に応用したんだよ。……術式の所々に、『フランス国内を移動するように』設定を変更した記述が見受けられるからね」 「なるほど。これでフランス系ローマ正数の派閥が関与したのは、ほぼ決定だな」  第二王女のキャーリサはそう言って、わずかに笑う。  俯《うつむ》くように、含むように。 「……フランス製の術式のみならず、よりにもよって王家が分析に関与した術式を持ち出したか。その辺の魔術師《まじゆつし》程度では扱えないはず。首脳陣直属の部隊が動いたと考えるべきだ」 「それは確定できないかも。フランスの王政はすでに断絶して久しいから、かつての王様が関《かか》わった術式だからと言って、それが現政権にまで繋《つな》がっているとは限らないんだよ」 「あそこを治める現政権を操るブレインの礎《いしずえ》は、歴代の王に知恵を授けてきた軍師や策士などの集合体だ。組織化されぬ頭脳集団なら、王宮の宝を所有しててもおかしくはないの」  とはいえ、とキャーリサは言葉を区切った。  彼女はインデックスの顔を、改めて見る。 「しかし、本当に良かった」 「?」 「私としては、フランスの関与さえ判明すれば、それで問題なしだ。お前が『今回の件にフランスは関わっていない』と評価を下してしまわなければ。いや、もう一度|繰《く》り返すが、本当に良かった。——お前が望み通りの回答をしなければ、ここで斬らねばならなかったからな[#「ここで斬らねばならなかったからな」に傍点]」 「——、ッ!?」  間近で広がる笑みを見て、思わずインデックスが身構えた。  しかし背後は水没したトンネルだけ。逃げ場など、どこにもない。  そこへ『騎士派《きしは》』のトップ、騎士団長《ナイトリーダー》がやってきた。  本来は王女やインデックスなどの護衛であるはずの男の手には、古ぼけた四角い鞄《かばん》がある。 「『|大船の鞄《スキーズブラズニル》』を解放します。本格的に参戦する前に、剣の調子を確かめた方が良いでしょう」  第二王女が片手を差し出すと、騎士団長《ナイトリーダー》は四角い鞄の鍵《かぎ》を外す。  四角い鞄の表面にある寄木《よせぎ 》細工のような構造が複雑に蠢《うごめ》き、膨《ぼう》|張《ちよう》し、巨大なカヌーへと形を変える。そしてその船の中に、鞘《さや》に収まった一本の剣が置かれていた。  キャーリサは鞘を掴《つか》み、刃と切っ先のない剣を引き抜きながら、鼻で笑う。 「カーテナ=オリジナルか……」  状況を掴めぬインデックスの前で、キャーリサは指揮棒のように剣を軽く振るう。 「英国の伝統を嫌《きら》うなら、むしろ率先してへし折るべきだが。せいぜい、利用できる内は利用させてもらうとしよう」 「英国全域の支配権の確立は完了しています。すでにあなたの言葉は英国全体の意志表示となりますが、フランス側への声明はいかがいたしましょう?」 「禁書目録からの報告を、そのまま告げてやれ。その上で最後|通《つう》|牒《ちよう》を突きつけるの。せっかく我々イギリスの手で編纂《へんさん》した一〇万三〇〇〇冊だ。国益のために使ってやるのが筋だろう」  キャーリサの笑みに対し、インデックスは睨《にら》み返す。  第二王女は無視して、騎士団長《ナイトリーダー》に告げる。 「……『王室派』と『騎士派』の間接的な働きかけで、軍を動かせるな? ドーバー海峡に駆《く》|逐艦《ちくかん》を配備しろ。返答次第では、いつでもヴェルサイユへミサイルを撃《う》ち込めるように、だ」 「軍を動かす事はできますが、科学サイドの学園都市への配慮《はいりよ》はいかがいたしましよう」 「無視しろ」  キャーリサはあっさりと切り捨てた。 「我が国の軍事力は我が国が手綱《た づな》を握るべきだ。他国から干渉を受けている方がおかしい」 「了解しました」  それは学園都市とイギリス清教の危うい綱渡りを破綻《は たん》させるリスクのある決断だったが、キャーリサは気にしている様子はないし、騎士団長《ナイトリーダー》も特に言及しなかった。 「しかし、標的はあの宮殿でよろしいのですか? フランスの現政権を陰で操る軍師|達《たち》は、特定の拠点を持たず、意図的に組織化も避《さ》けているとの報告を受けていますが」 「だが、軍師の中でも最大の頭脳を持つ『あの女』が匿《かくま》われてるのは事実だ。そいつを吹き飛ばせば、他《ほか》の連中も思い知るだろう。くだらない隠れ家ごとき、街ごと爆破されるとな」 「弾頭についてはいかがいたしましょう?」 「英国の独自技術で開発したバンカークラスターを使うの。地中五〇メートル級のシェルターを貫通させるための特殊子弾を二〇〇発ほどばら撒《ま》く弾頭だ。そいつであの宮殿を街のブロックごと蜂《はち》の巣にしよう」 「……一応、分類上はクラスター爆弾の禁止条約に抵触しますが」 「ふん」  第二王女のキャーリサは鼻で笑った。 「イギリス軍部は本来、その条約に調印するつもりはなかった。フランスを始めとするEU加盟国からの圧力で、強引に結ばされたの。しかしまぁ、ちょーど良い。現在、他国と結んでる全《すべ》ての条約を再確認し、不要なものは残らず破棄《はき》する。手始めにバンカークラスターから、な。どーせ現在のEUはローマ正教の息がかかってる連中ばかりだ。ヤツらと手を切るには良い機会だろう」 「……、」 「それとは別に、アメリカからのドル関係の支援も断て。母上が進めた対話は全て白紙に戻す」  そこまで言うと、彼女はわずかに黙《だま》った。 「何が『イギリス清教・学園都市』と『ローマ正教・ロシア成教』の戦争だ……」  キャーリサは小さな声で吐《は》き捨てる。 「この戦い、魔《ま》|術《じゆつ》サイドが勝っても科学サイドが勝っても、イギリスは沈む。ローマ正教側が勝利すれば、ストレートにイギリスは滅ぼされるだろう。仮に学園都市側が勝利しても、科学一色に染め上げられた世界の中で、魔術国家イギリスは確実に孤立するだろう。……属国以外に道のない戦争になど、何の意味があるの」 「そのための、意志表示ですか」 「そーだ。属国という未来を回避《かいひ 》するためには、戦争が終わってから行動するのではもー遅い。我らはローマ正教・ロシア成教の猛威を払いのける事はもちろん、学園都市とも手を切らなければならない。この戦争を三つの勢力による争い』ではなく、『イギリスを独立させた、三《み》つ巴《どもえ》の戦い』にしむければ、イギリスに未来はないの。これはそのための布告だ。駆逐艦《く ちくかん》の使用によって学園都市とのラインを断ち、バンカークラスターによってEUを始めとしたヨーロッパからの干渉も断つ。独立こそがイギリスを救う唯一の手立てという訳だ」 「……EUからの孤立は、経済や物資を中心とした国内の枯渇を誘発《ゆうはつ》させる懸念《け ねん》もありますが。今回のユーロトンネル爆破や、ハイジャックによる輸送経路の封鎖《ふうさ 》よりも、さらに深刻な事態を招く可能性についてはどうお考えで?」 「確かに、一時的な混乱はある」  キャーリサはその可能性を否定しなかった。  その上で、彼女はこう続けた。 「だが、この世界を揺るがす戦争に勝利する事で、世界の図式は大きく変わる。ヨーロッパ全域からローマ正教の支配を追い出し、イギリス中心の世界を構築する事で、経済や物資の問題は解決できる。……なーぁに、よーは簡単な事だ。かつて『世界の警察』という言葉でアメリカが目指し、日本の学園都市が秘密裏にほぼ成功させた様式と同じ——世界がイギリスを必要とせざるを得なくなる社会を形成してしまえば、我々が枯渇する事はありえないの」  それは夢物語ではない。  世界をじわじわと侵食している『戦争』の規模は、もはやそのレベルにまで達している。すなわち、勝者に世界の舵取《かじと 》りを許すほどにまで、だ。 「……母上の平和主義は認めてやっても良いが、それは世界情勢が穏《おだ》やかな時代でなければ成立しないの。もはや目の前の問題は表面上そー見えないだけで[#「表面上そー見えないだけで」に傍点]、実情は惑星規模の戦争に発展してる事を、母上は自覚するべきだった」  キャーリサは吐き捨てるように言う。  カーテナ=オリジナルを荒々しく肩で担《かつ》ぎながら、 「ともあれ、この国の未来のためにも、我々は何者からの協力や干渉を受けずに、この戦争に勝利する必要があるの。バンカークラスターを積んだ駆逐艦《く ちくかん》をドーヴァー海峡に浮かばせるのは、そーいった策の一環だよ」 「了解しました。では、軍港に停泊中の駆逐艦に搭載するよう準備を進めさせます」 「我が国にも核があれば良かったけどな。いっそ国内の情勢を整理したら、開発してみるか」 「……恐れながら、最悪の場合は着弾後に宮殿内部へ踏《ふ》み込む我々の身も案じていただけるとありがたいのですが」 「はは。放射能ごときで倒れる体でもないくせに。貴様が案じてるのは敵国の民だろう。発射前には勧告を送る。……どのみち、『あの女』はヴェルサイユから抜けられない。それぐらいは譲《じよう》|歩《ほ》してやっても構わないし」  苦笑する騎士団長《ナイトリーダー》は、『さて』と言葉を切った。  彼は戸惑うインデックスに目をやり、そして言った。 「魔道書《ま どうしよ》図書館はいかがいたしましょう」 「少なくとも、フランスへ送る最後|通《つう》|牒《ちよう》の正当性を、周辺諸国へ認めさせるまでは生きてもらわなければな」 「公式の場において、意見を覆《くつがえ》す可能性については?」 「こいつの完全|記憶《き おく》能力は、自らの発言をも正確に記録してるはずだ。そいつを読み取らせれば、信憑性《しんぴようせい》については疑いよーがないだろう」  話題を振られ、インデックスは無駄《むだ》と分かっていても、じり……と後ろへ下がろうとする。しかし、すでに靴や修道服のスカートの端《はし》は海水に浸り始めている。  騎士団長《ナイトリーダー》は端的《たんてき》に言った。 「では長期的にはそういう方向として。短期的には、いかように扱いましょう?」  ふむ、とキャーリサは鼻から息を吐いて、 「眠らせろ」  インデックスに抵抗する暇はなかった。  騎士団長《ナイトリーダー》の拳《こぶし》が、彼女のみぞおちに叩《たた》き込まれた。      3  上条当麻《かみじようとうま》の目の前で『新たなる光』の魔術師《まじゆつし》レッサーが狙撃《そ げき》されるのを合図にしたように、ロンドンの街は様変わりしていた。  銀色の鎧《よろい》を身につけた一団が、表通りを進んでいた。  ロンドンのあちこちにあるイギリス清教の施設を中心に、夜の街には断続的に閃光《せんこう》と爆音が続いていた。おそらく今も、重武装の騎士《きし》と神父やシスターが飛び交っている事だろう。  魔術も超能力も知らなかった普通の人々は、この光景を頭の中でどう処理するのだろう。  少なくとも、彼らが野次《やじ》|馬《うま》になる事はなかった。  パトカーを使って道路にバリケードを築き、不自然に行く手を阻《はば》む警官|達《たち》が、現場へ近づこうとする市民を押し返しているのだ。それでも抵抗を続ける者に対しては、容赦《ようしや》なく地面に組み伏せて拘束まで行っている。 「……『人払い』だけでは、ごまかしきれないんだわ」  ビルの角に身を隠すオリアナが、呻《うめ》くように呟《つぶや》いた。 「元々、イギリスは魔術的事件が多い。そのための大規模な隠蔽策《いんぺいさく》も色々用意されているはずなのに、それすらも許容量を超えて飽和してしまっているというの……?」  プロの魔術師が放った言葉が示す意味は、極めて単純。  すでに『騎士派』によるクーデターはほぼ完遂《かんすい》している。他《ほか》の大都市と同じく、イギリスの首都ロンドンの機能もまた、『敵』の手によって完全に奪われた。 「クソ。こんな混乱のせいで、救急車は来てくれないのかよ」  気を失ったレッサーを抱えたまま、上条は忌々《いまいま》しそうに吐《は》き捨てる。 「やっぱり、『|必要悪の教会《ネセサリウス》』の連中と合流するしかなさそうだな。その中には、回復魔術を扱える魔術師だっているんだろうし」 「ええ。でも……」  オリアナはわずかに言い淀《よど》んだ。  今まで上条と一緒《いつしよ》に行動していたインデックスは、現在は、フォークストーンにあるユーロトンネルの爆破跡地で調査活動を行っているはずだった。それも、クーデターの首謀者《しゆぼうしや》と思《おぼ》しき、第二王女のキャーリサや騎士団長《ナイトリーダー》と共に。  何も起こっていない訳がない。  インデックスの事も心配だ。 「……早く、こいつを治《ち》|療《りよう》してもらわないと」  上《かみ》|条《じよう》は腕の中のレッサーを見て、それから遠くの方から響《ひび》く爆発音に耳をやる。 「問題は一つだけじゃねえんだから」 「そうね……」  上条とオリアナは領《うなず》き合うと、ビルの陰から出る。  目指すのは、ランベス区にあるイギリス清教の女子|寮《りよう》だ。  オリアナの話によれば、今回の騒動《そうどう》を経て大半の『清教派』の魔術師《まじゆつし》は、散発的に交戦しながら時間を稼《かせ》ぎつつ、教会や宗教施設から本当に重要な書物や霊装《れいそう》などを手にして、撤退《てつたい》を始めているらしい。イギリス清教の教会へ赴《おもむ》いても、そこに魔術師がいる可能性は低いようだ。  そしてネックなのが、オリアナの身分が『実力のある罪人を、取り引きによって一時的に利用しているだけ』という事。  つまり、イギリス清教の緊急避難《きんきゆうひなん》ルートを教えてもらえるほど、彼女は信頼《しんらい》されていなかったという訳だ。 「……でも、あそこの女子寮には、しんがりの人員がギリギリまで残っているでしょうね。重要な資料や霊装を安全に隠すための時間稼ぎとして。接触するなら彼女|達《たち》に頼《たよ》るしかないわ」  ところが、そんな上条達の行く手を阻《はば》むものがあった。  巨大な川だ。  ロンドンの東西を横断するように、二〇〇メートル以上の川幅を誇る大きな川がある。イギリス清教の女子寮へ向かうには、そこにかかる橋を渡らなければならないのだが……。 「くそ、あの銀色の鎧《よろい》……『騎士派《きしは》』の連中か!?」  橋の根元の辺りに、トラックが停《と》まっていた。その荷台には重装甲の鎧に身を包んだ人間が八人ぐらい乗っている。人員を乗り降りさせる途中なのか、それとも検問でもしているつもりなのか……とにかく、あの連中をどうにかしないと橋を渡る事ができない。  と、騎士達の様子を観察していたオリアナが、無言で懐《ふところ》から単語帳を抜いた。 「その子の調子を見ている限り、ここで長居するだけの余裕はなさそうね」  彼女は一《いつ》|瞬《しゆん》だけ気絶したレッサーに目をやり、それから再び騎士達を睨《にら》みつける。 「排除するわ」 「……できるのか?」 「頼《たの》めるか、と聞いてほしかったわね」  笑顔で答えたオリアナだったが、その顔にはわずかな緊張が見て取れた。  元々、オリアナ=トムソンは運び屋であり、逃走の専門家だ。相手を煙《けむ》に巻きながら脱落させていく事は得意でも、ああも完全武装した八人もの騎士《きし》|達《たち》に対して、正面からぶつかる事など慣れている訳がない。  それでも、オリアナは『排除する』と言った。  傷ついたレッサーを抱える上《かみ》|条《じよう》を一刻も早く橋の向こうへ進ませるために。 「その子を女子|寮《りよう》まで運んだら、同じランベス区にあるウオータールー駅に向かいなさい」 「何だって?」 「ユーロスターって路線が、そのままフランスまで直結しているのよ。ドーヴァー海峡を走るユーロトンネルを通る形でね。今は爆破されて海底トンネルは使えないけど、トンネル出入り口のフォークストーンまでなら今も繋《つな》がっているはずよ」 「お前……」 「ロンドンからフォークストーンまでは直線距離で一〇〇キロ。禁書目録を助けるにしても、走って行ける距離じゃないわ。……それは『騎士派』の連中も同じ。イギリス全域を支配したら、今度は人員と物資のやり取りを行う必要は必ず出てくる。だから、あなたは『騎士派』の動かすユーロスターの列車へ、上手に紛《まぎ》れ込みなさい」  上条は一度|頷《うなず》くと、改めて橋の方へ意識を向ける。  仮にあそこを突破できても、それで全《すべ》て丸く収まるという訳ではない。女子寮の周囲にも『騎士派』の刺客《し かく》は展開されているだろうし、そもそも、レッサーの問題を解決した後には、インデックスの救出——イギリスという国家そのものを掌握《しようあく》した、クーデター首謀者《しゆぼうしや》である第二王女の懐《ふところ》へ潜《もぐ》り込む必要があるのだ。まさに、命がいくつあっても足りないような状況である。  だが、 (やるしかねえ)  上条は腕の中で気を失っているレッサーを見て、心の中で思う。 (絶望的な状況だからこそ、立ち止まる訳にはいかねえんだ!!)  その時だった。  ズズン……という低い震動《しんどう》を、上条の耳と体が同時に捉《とら》えた。オリアナも感じたようで、怪訝《け げん》な表情であちこちを見回している。  そこへ、もう一度震動があった。  今度は先ほどよりも明確だった。上条はそちらの方角へ目をやり——。  思わず、呻《うめ》くようにこう言った。 「嘘《うそ》だろ……」      4 「さて。問題は母上と我が姉妹だな。殺しておく必要があるの。カーテナは王族にしか扱えない。なら、その使用権は制限しといた方が良いだろうし」  ユーロトンネルの出口から地上へ上がりながら、キャーリサは言う。  明かりのない夜は、どこまでも暗い。 「母上はウィンザー城で拘束したとの報告があったが、姉上のリメエアはどこにいるのやら。あの人間不信は生存本能の賜物《たまもの》だ。おそらくユーロトンネルへついてこなかったのも殺気を察したからだろーし、あの女が自らの隠れ家を他人に明かすとも思えない」 「……その上、リメエア様は素《す》|性《じよう》を隠して城下へ赴《おもむ》いていましたからね。彼女を第一王女と認識しないまま匿《かくま》ってくれる人物も、潜在的《せんざいてき》には一定数確保されているのかもしれません」 「とはいえ、十中八九《じつちゆうはつく》ロンドンかその近郊のどこかにいるだろーけど」  そこで、第二王女は周囲を見回した。  彼女の眉《まゆ》が、不快そうに動く。 「で、有能な第一王女サマはともかく、無能な第三王女はどこへ行ったの?」 「それについてですが……」  騎士団長《ナイトリーダー》はその指先で、馬車の群れを差した。王族が乗るためのものと、その護衛や世話役などが隊列を組んでいたものだ。  そして、その内の一台が消えていた。  状況を考えれば、おそらく第三王女のヴィリアンが乗っていったとするのが妥当《だ とう》だ。しかしその答えを導き出しても、キャーリサの怪訝《け げん》そうな表情はそのままだった。 「……あの妹は、どーやって危機を察知したの? 元々、他人を疑うより信じる方が得意な人格だったと思うのだが」 「——、」  騎士団長《ナイトリーダー》は一《いつ》|瞬《しゆん》、答える事に迷った。  しかし彼が口を開くより前に、キャーリサはこう言った。 「そーか、そーか。姉上は頭脳、私は軍事、そしてあいつは人徳に特化してたな。あいつ自身が無能であっても、その周りに優秀な人材が集まってれば問題はない訳だ」  彼女は言いながら、馬車が停《と》められているのとは別の一角へと足を進めた。そちらではすでに、ヴィリアンを逃がした下手人と思われる複数の使用人が、完全武装の騎士《きし》|達《たち》によって取り囲まれている。 「近衛次女《このえ じ じよ》や武装側近といった迎撃《げいげき》|職《しよく》はいないよーだ。『聖人』のシルビアでもいれば、多少は手こずったかもしれないのに」 「……ヴィリアン様は、特に兵力を有する事を嫌《きら》っていましたから。ここにいるのは、そのほとんどが平民出身の一般的な使用人です」 「ふん。だから途端《と たん》に機嫌《き げん》が悪くなったのか? 身分や役職がどーあれ、こいつらが危機を察知し妹を逃がした事を帳消しにする理由にはならないの」 「しかし」 「どーせ、ヴィリアンの行き先については、すでに『尋ねた』後だろう? その上で何も語らなかった。そーでもなければ、行き先が不明などという報告が上がってくる訳がないし」  互いに身を寄せ合うように立ち尽くす使用人|達《たち》の前で、キャーリサは鞘《さや》から剣を抜いた。  刃も切っ先もない特殊な剣。 「こいつはその形状から、慈悲《じひ》の剣などと呼ばれてるが……。果たして真実はどーなのやら。むしろスッパリ即死できない分、よほど残酷《ざんこく》な作りをしてると思うけどね」  振り上げられた剣を見て、誰《だれ》かが息を呑《の》んだ。  ごくり、という音がやけに強く闇《やみ》に響《ひび》く。  第二王女は、最初から質問する気がなかった。  殺すつもりしかなかった。  そして、  騎士団長《ナイトリーダー》が、怯《おび》える使用人達の前に立ち塞《ふさ》がる。  キャーリサは無言で自分の前に立つ男を見て、わずかに動きを止めた。  ほとんど唇《くちびる》を動かさずに、彼女は言う。 「何の真似《まね》だ」 「剣を引くべきだと、進言させていただきます」 「聞き入れる必要はないが」 「その場合は、私ごと両断していただいて結構」  迷いなく放たれる言葉を受けて、キャーリサの肩が動いた。  くっく、と彼女は笑っていた。  にも拘《かかわ》らず、騎士団長《ナイトリーダー》の背後からその笑みを見ていた使用人の何人かが、思わず短い悲鳴をあげかけた。人は笑顔で恐怖を与えられる。そんな事を教えさせるような笑いだった。 「……実直とは程遠い」  心の底から楽しそうに、第二王女は騎士団長《ナイトリーダー》の闇を覗《のぞ》く。 「お前は今、こー打算したはずだ。私にとって、自分はまだ必要な人間であると。第二王女どころか、国家元首となった私の自由を抑えてでも、自分は守られるべき切り札であると。だから、使用人の前に立つ事ができたの。……大した交渉術だよ。確かに現状では、平民の命を奪うためだけに、お前の命まで奪う訳にもいかない」 「……、」 「だが、覚えておけ」  第二王女は最大限に笑みを広げた。  月明かりに剣を輝《かがや》かせ、彼女は裂けた袋のような表情でこう突きつけた。 「母上と姉妹については、話が別だ。彼女|達《たち》の処刑に際して、お前が同じよーに割り込んだ場合は、容赦なく両断する。これはお前の命よりも重要な事なのだからな」 「……承知しております」  騎士団長《ナイトリーダー》は感情を押し殺す調子で、そう答えた。 「私はただ、不要な処断は控えるべきだと進言したまで。……本当に必要な行動に関しては、引き止める理由などありません」 「だと良いがな」  第二王女はカーテナ=オリジナルを鞘《さや》に収めると、肩をすくめて去る。騎士団長《ナイトリーダー》が視線を投げると、使用人達を取り囲んでいた騎士《きし》達も、ゆっくりと間隔《かんかく》を空けるように包囲を解く。  ポツンと残された使用人達の顔を見ないで、騎士団長は言った。 「行け」 「……騎士団長《ナイトリーダー》様。我々は構いません。何卒《なにとぞ》、何卒、ヴィリアン様を……」 「早く!!」  爆発したように叫ぶと、使用人達は戸惑ったように黙《だま》り込む。それでも一度だけ頭を下げると、彼女達は暗い森へと走っていった。  一人残された騎士団長《ナイトリーダー》に、声をかける騎士はいない。  騎士団長《ナイトリーダー》は最後まで使用人達の行方を見ないまま、吐《は》き捨てるように呟《つぶや》いた。 「……私を殺して止めたければ、『あの男』を連れて来い」      5  上条当麻《かみじようとうま》とオリアナ=トムソンが、巨大な石橋の手前で見たもの。  それは、全長四メートルを超す、石でできた巨人だった。いや、正確にはコンクリートやアスファルトなどをやたらめったらにかき集めたものだ。  上条は知っている。  ありとあらゆる物質を素材とするゴーレムと、それを操るゴスロリの魔術師《まじゆつし》を。 「ゴーレム=エリス……ッ!? シェリーが動いてんのか!!」  上条の声に応じるように、雄叫《お たけ》びが上がった。  エリスのものではない。エリスに発声器官はない。  その雄叫《お たけ》びは、ゴーレムを操っているライオンのような魔術師《まじゆつし》の口から直接発せられている。 「ごォォうァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」  怒りで我を忘れたようなシェリーの叫びと共に、エリスが大きく動いた。  石橋の根元で慌てて動く騎士《きし》|達《たち》に向かって、エリスの巨体が迷わず突っ込む。銀色の鎧《よろい》を搭載していたトラックが一撃《いちげき》で爆発し、オレンジ色の炎と一緒《いつしよ》に騎士達が四方八方へ散らばった。流石《さすが》にそれだけで百戦|錬磨《れんま》の騎士が敗れる事はなかったが、 「——、」  アスファルトの上に転がった騎士の一人に向けて、エリスは大きく足を振り上げる。  とっさにメイスを使って防御しようとするのを無視して、ゴーレムは杭《くい》でも打ち込むような勢いで足を落とした。  ゴドン!! という衝撃《しようげき》が、遠く離《はな》れた上《かみ》|条《じよう》やオリアナの足元すらすくいそうになった。  周囲の騎士達は仲間を助けるために剣や槍《やり》を突き込むが、エリスは無数の刃に貫かれながらも、さらに二度、三度と倒れた騎士へ足を振り下ろしていく。  シェリーの怒号が、さらに響《ひび》き渡った。 (そうか、あいつ……ッ!!)  上条|当麻《とうま 》は、シェリー=クロムウェルの魔法名《ま ほうめい》と、その理由を思い出した。  彼女は二〇年はど前に、エリスという名前の親友を亡《な》くしている。理由は極めて政治的なものだったが、その時、直接的に手を下したのが『騎士派』の一団だったのだ。  長い時を経て、多少なりとも傷が癒《い》えた彼女の前に、再び『騎士派』は現れた。奇《く》しくもあの時と同じく、政治的な理由で横暴を振るうイギリスの騎士達が。  一度目は、かろうじて許せた。だが二度目に対して同じように許せるか。  その疑問に対する答えが、今のシェリーだ。 「くそ、完全にブチ切れてやがる! 今はエリスを突っ込ませているから押してるように見えるけど、シェリー本人を狙《ねら》われたら、あんなのすぐに逆転されちまうぞ!!」 「……まずいわね」  オリアナもポツリと呟《つぶや》いた。  上条は腕の中のレッサーに一度視線を落としてから、 「どうする? 加勢するか!? このままじゃシェリーが——ッ!!」 「馬鹿《ばか》、逆よ!!」  言いかけた上条の言葉を封じるように、オリアナは叫び返した。 「あの魔術師、一人でも多くの敵を殺す事しか考えていないのよ! たとえ自分が殺されようともね!! 放っておいたら、『騎士派』どころか街並みまで破壊《は かい》しかねないわよ!!」  ギクリ、と上条の体が強張《こわば 》った。  オリアナは、先ほどよりも強い緊《きん》|張《ちよう》を顔に表しながら、 「あなたはこの混乱の隙《すき》に、さっさと橋を渡って女子|寮《りよう》へ向かいなさい。……お姉さんも混乱に乗じて『騎士派《きしは》』に横槍《よこやり》を入れる。ゴーレムに気を取られている連中を昏倒《こんとう》させて、同時にあの魔術師《まじゆつし》を正気に戻すチャンスを窺《うかが》うわよ!!」 「できんのかよ、そんなの! それもたった一人で!!」 「じゃあ、あなたが助けたその子を見捨てて、お姉さんについてくる?」  オリアナは、上《かみ》|条《じよう》の腕の中で気絶しているレッサーに目をやった。  それから、今度は上条の顔を正面から見据える。 「単に役割分担の問題よ。罪人扱いのお姉さんが『敵』の魔術師の少女を連れて女子寮に向かうより、ある程度の信頼《しんらい》があるあなたが回復魔術を頼《たの》んだ方がスムーズに進むでしょ。それに、あなたの右手は集団戦には向いていないように思えるけど?」  くそ、と上条は吐《は》き捨てた。  オリアナを行かせるのは止めたいが、かといって、確かにレッサーを見捨てられない。 「頼めるか、オリアナ」 「任せておきなさい」  上条とオリアナは一度だけ頷《うなず》き合うと、物陰から飛び出した。  ゴーレム=エリスの乱入によって、騎士|達《たち》は石橋から少し離れた所へ追いやられていた。レッサーを抱えた上条は、その横を通り抜けて石橋へ向かう。何人かが気づいたようだが、そこへエリスとオリアナが割り込むように『騎士派』へ飛びかかっていった。  背後で聞こえる爆音や震動《しんどう》に歯噛《はが》みしながら、上条は全力で走る。  石橋の長さは二〇〇メートル強。  両手で抱えたレッサーがズシリと重たく感じられたが、何とか上条は石橋を渡り切る。  そこで、異変が生じた。  川の対岸で、エリスが巨大な腕を振り回した。その勢いに薙《な》ぎ払われ、銀色の鎧《よろい》の何人かが吹き飛ばされる。同時に、剣や槍も折れて砕けて宙を舞った。  プロの魔術師なら、そこで気づいたかもしれない。  砕かれた槍の中の一本に、『ブリューナク』と呼ばれる霊装《れいそう》が含まれている事に。  半分に折れた槍は、ヒュンヒュンと空中で回転していた。そしてその先端《せんたん》から、稲妻のような閃光《せんこう》が迸《ほとばし》る。  音はなかった。  カッ!! という凄《すさ》まじい光だけが炸裂《さくれつ》した。それはビーム砲のような五本の光線だった。白い閃光の群れは時に直線的に、時に屈折しながら、一《いつ》|瞬《しゆん》で川の上を飛び越え、ランベス区のあちこちへ突き刺さる。  低い震動が、上条の足元と精神に突き刺さる。 (市街が……ッ!!)  思わず足を止め、遠くの方へ目をやろうとする上《かみ》|条《じよう》。ここからでは詳しい事は分からないが、少なくとも、ビルが倒壊《とうかい》して粉塵《ふんじん》の山が出来上がったり……といった事はなさそうだ。  わずかに安堵《あんど 》の息を吐いた上条だったが、そこで彼の動きがギクリと止まった。  気づいたからだ。  ずっと遠くの方にある、鉄道用の陸橋が崩壊していた。橋の構造自体が崩れ、地上にもたれかかるようになっている。そして、引き千切《ちぎ》られた電線がバチバチと火花を散らしていた。 「くそ……」  ユーロスター。  インデックスの待つ、一〇〇キロ先のフォークストーンへ繋《つな》がる鉄道の電線が。 「どうするんだ、ちくしよう!!」      6  第三王女ヴィリアンに対する追跡作業はすぐに始まった。  元々、王室やその護衛が使用する馬車は、様々なトラブルを防止する目的で、位置情報を探知するシステムが標準装備されている。騎士団長《ナイトリーダー》はアスファルトの路面に屈《かが》み込み、掌《てのひら》をかざして何かを呟《つぶや》く。すると、まるで夜光塗料でも塗ってあるかのように、数本のラインが道路を走った。馬車の車輪が通った跡だ。 「距離は二〇〇〇メートル前後。速度は時速五〇キロ。方角を鑑《かんが》みるに、どうやら山を迂回《う かい》するため、ドーバーを経由してカンタベリーを目指しているようです」 「なるほど。あそこにはイギリス清教の表向きの総本山があったはず。『王室派』と『騎士派《きしは》』の双方が使えないと理解した上で、『清教派』の拠点へと駆け込む事にしたのか」  キャーリサはそこで、小さく笑った。 「くだらない浅知恵だ」 「追いますか?」 「その前に確認するが、馬車を提供した使用人どもも、この程度の探知システムぐらいは知ってたのではないの。ダミーに利用されてる可能性は?」 「彼らは魔《ま》|術《じゆつ》を見た事はありますが、使った事はありません。民間の出身だと報告しましたが」 「では、仮にダミーだった場合はお前の首を刎《は》ねよう」  軽い調子で言って、第二王女は騎士|達《たち》を視線だけで押しのけ、多くの馬車が停まっている一角へ向かう。しかし彼女が乗ったのは王室専用の豪奢《ごうしや》な馬車ではない。歴戦の騎士が乗りこなすために鍛《きた》えられた軍馬の方だ。 「行くぞ。無能な妹に付き合ってる暇もないし。さっさと殺して、新体制の盤《ばん》|石《じやく》を固める。フランスが迅速《じんそく》に動くとは思えないが、今この隙《すき》を突かれてもつまらないからな」  だが、騎士団長《ナイトリーダー》は答えなかった。  彼は小さな物音を聞いた狼《おおかみ》のように、ピクンと顔を上げた。 「どーした?」 「航空機です」  キャーリサの質問に、騎士団長《ナイトリーダー》は短く答える。  彼女は周囲を見回すが、それらしい機影はない。すると、騎士団長《ナイトリーダー》は無言で自分の耳を差した。どうやら、本当に音を聞き分けているらしい。 「ですが、妙ですね。現状、我々は交通機関のほぼ全《すべ》てを掌握《しようあく》しています。民間、軍用問わず、イングランド地方の空港は全て閉鎖《へいさ 》され、滑走路を使用できる状態ではないはずです」  第二王女が馬上から右手を差し出すと、騎士団長《ナイトリーダー》は双眼鏡を軽く投げた。片手で受け取ったキャーリサが改めて周囲をぐるりと見回すと、その動きが一点で止まった。 「いた、低空飛行だな。地面スレスレを飛行してる。……レーダー避《よ》けのつもりか?」  双眼鏡の狭い視界の中、確かに巨大な飛行機がアスファルトから五メートル程度の高さを飛んでいる。どうやら輸送機らしく、主翼《しゆよく》にはプロペラが四つも取り付けられていた。  双眼鏡から目を離《はな》し、キャーリサは笑う。 「『騎士派《きしは》』の増援でなければ、乗っ取られたな」 「ですが、滑走路は全て封鎖しているはずです! 仮に強行突破されたとしても、報告が上がってこないのは不自然です!!」 「霊装《れいそう》の通信状況を再確認しろ。案外、本当に必要な通信だけ切り分けられて、ジャミングをかけられているかもしれない」  叫ぶ騎士団長《ナイトリーダー》に、第二王女のキャーリサは双眼鏡を投げ返した。 「滑走路の問題については、あれだ。見ろ。機体の下部にフロートが取り付けられてる。水上機だよ。滑走路の代わりに川面や海面から離着陸《りちやくりく》できるの。……そーいえば、飛行機ファンのための催《もよお》しで、ロンドンにあるハイドパークの湖に海難救助用のレスキュー機が停泊してたな」 「落としましょう」  騎士団長《ナイトリーダー》は端的《たんてき》に言った。  軍馬の上のキャーリサは、つまらなさそうな表情で応じた。 「遅い。もー来る」  ボッ!! という強風が暗い森を叩《たた》いた。  そのレスキュー機は空を飛んでいるというよりも、ほとんどプロペラで移動するホバークラフトのようだった。地面スレスレを高速移動するレスキュー機は弾丸のように『騎士派』の一団の真横を突き抜ける。  ただし、その側面のスライドドアが開いていた。  そして、そこから飛び降りた人影が、容赦《ようしや》なく『騎士派《きしは》』の真ん中へ躍《おど》り出る。  レスキュー機の出力である、時速五〇〇キロ以上の速度でもって。  上から落ちるというより、横から着弾するような軌道だった。  普通の人間なら、間違いなく路上の染《し》みになっているだろう。いや、半径数メートルのクレーターを作っていてもおかしくはない。  しかし、その人物は敵陣のど真ん中で柔らかく着地していた。  ふわりと。  まるで、羽毛のように。  演武のように分かりやすい格闘《かくとう》パフォーマンスではない。しかし人並み以上の体術を会得《え とく》した者なら、目の前で起きた現象を構築する一つ一つの小さな動作に、どれだけ恐ろしいレベルの技術を使われているかが自然と伝わる。そういう動きだった。  突然の襲《しゆう》|撃《げき》|者《しや》に周囲の騎士|達《たち》は慌てて剣を抜くが、その中心に立つ人影は気にせず、キャーリサを睨みつける。 「聖人か」  視線を受けたキャーリサは静かに言う。 「となると、あれを動かしてるのは残りの天草式《あまくさしき》かな」 「……言葉なら後で聞きます」  多くの騎士《きし》に取り囲まれながら、神裂《かんざき》|火織《か おり》は刀の柄《つか》へと手を伸ばす。 「全《すべ》ての混乱が簡単に収まるとは思えませんが、首謀者《しゆぼうしや》から撃破《げきは 》させていただきましょう」  キャーリサは適当な調子で言葉を放つ。 「付き合ってられない」  第二王女の言葉を受けて、騎士団長《ナイトリーダー》が馬上のキャーリサを庇《かば》うように、一歩前へ出た。 「私が片づけておきましょう」  ふん、とキャーリサは鼻から息を吐《は》くと、軍馬の手綱《た づな》を握り直す。ゆっくりと馬の向きを変え、第三王女の後を追って走り去るキャーリサに、神裂の目つきが厳しくなる。  しかし、それを遮《さえぎ》るように、騎士団長《ナイトリーダー》がさらに横へ一歩動いた。  神裂は刀の柄へ手をやったまま、ゆっくりと、不自然なほどの緩《ゆる》やかさで息を吐く。 「私をしつこく勧誘《かんゆう》していたのは、こういう結果を知っていたからですか」 「貴婦人として過ごして欲しかったという願いは墟《うそ》ではない」  騎士団長《ナイトリーダー》の眼光に、ドロリとした感情の色が混じる。 「だが、どうやらそれも手遅れだったようだ。敵として目の前に立った以上、容赦《ようしや》なくねじ伏せさせてもらおう」      7  神裂火織は『聖人』だ。  世界で二〇人といない才能、あるいは身体的特徴を有する人物で、生まれた時から『神の子』と似た魔術的《まじゆつてき》記号を持つ故《ゆえ》に、その力の一端《いつたん》を手に入れ、自由に操る事のできる者なのだ。  大抵の敵など、鞘《さや》から刀を抜くまでもない。  ワイヤーを軸とした中遠距離《ちゆうえんきより》用の格闘《かくとう》|術《じゆつ》『七閃《ななせん》』もあるし、七天七刀《しちてんしちとう》の長い鞘で振るうだけでも、大抵の魔術師ならば吹き飛ばされているほどだ。 (……相手は『騎士派《きしは》』のトップ、騎士団長《ナイトリーダー》。そう簡単に撃破できるとは思えませんが)  神裂は騎士団長《ナイトリーダー》の挙動を注視しながら、柄に軽く添えていた指に、強く力を込める。 (全力を出すしかなさそうですが、殺さずに済ませられれば……。鞘で昏倒《こんとう》させ、速《すみ》やかに第二王女を拘束する!! この馬鹿《ばか》げた反乱を迅速《じんそく》に収拾するにはそれしかありません!!)  しかし、  ぞわり、と。  唐突に、騎士団長《ナイトリーダー》の体から、見えない何かが放出される。  神裂《かんざき》|火織《か おり》の視界から騎士団長《ナイトリーダー》が消え失《う》せる。  凄《すさ》まじい速度で神裂の視界の外へ移動されたと気づくまで、一《いつ》|瞬《しゆん》の時間が必要だった。  そしてその時には、ビュオ!! という風を切る音が神裂の真後ろから響《ひび》いていた。 「ッ!?」  とっさに後ろへ振り返りながら、その刀の鞘《さや》で防御に入る神裂。  騎士団長《ナイトリーダー》が放ったのは、ただの蹴《け》りだった。  にも拘《かかわ》らず、『聖人』の神裂の体が、ガードした刀の鞘ごと大きく吹き飛ばされた。仰《の》け反り、バランスを崩す神裂の腹へ、騎士団長《ナイトリーダー》は握った拳《こぶし》をただ放つ。  ズッパァァン!! と、凄まじい轟音《ごうおん》が炸裂《さくれつ》した。  神裂の体がノーバウンドで一〇メートルも飛び、護衛用の馬車の一台に直撃《ちよくげき》した。複数の霊装《れいそう》によって守られているはずの馬車が粉々に砕け、神裂の体がさらに地面を滑《すべ》る。馬車に繋《つな》がれていた馬が暴れ出した。 「がっ……、な、ァ……ッ!?」 (一筋縄《ひとすじなわ》ではいかないとは思っていましたが……それにしても、この力は……ッ!?)  聖人含め、生身の人間に扱える力の量には上限があるはずだが、彼は明らかにそれを上回っている。 (まさか、後方のアックアのような……高速安定ライン……ッ!!)  呼吸因難になった神裂の頭に疑問が浮かぶが、冷静に考える暇はなかった。  騎士団長《ナイトリーダー》はすでに五メートルもの高さを飛び、神裂を踏《ふ》み潰《つぶ》すために靴底を揃《そろ》えていた。 「ッ!?」  とっさに横へ転がる神裂。  しかし聖人としての運動性能をもってしても、安全圏へは逃げられない。  直撃こそ避《さ》けたが、周囲へ撒《ま》き散らされたアスファルトの残骸《ざんがい》が、神裂の体を叩《たた》いたのだ。血を噴きながら転がる神裂を、騎士団長《ナイトリーダー》は着地点から静かに見下ろしていた。注意深く観察しているというよりは、慌てて追う必要はないとでも言わんばかりの表情だった。 「何を意外な顔をしている」  全身から警戒心を発し、指先、髪の先まで注目する神裂に対して、騎士団長《ナイトリーダー》は両手を緩《ゆる》やかに広げた。そこにあるのは余裕ではない。失望に近かった。 「私は三派閥の一角、『騎士派《きしは》』の長《おさ》だぞ。聖人とはいえ、たかが『清教派』の一員ごときが、対等に戦えるとでも思っていたのか」 「ッ!!」  神裂は応じず、七本のワイヤーを放つ。  七閃《ななせん》。 「……昔、ドーバーで古い友にひどい不意打ちを受けてな」  しかし騎士団長《ナイトリーダー》は動じない。彼は空中へ手をやると、自らの手で放たれたワイヤーを全《すべ》て掴《つか》み取り、そして強引に引き千切《ちぎ》った。道具を使うどころか、両手すらも使わない。 「以来、そういう奇《き》|襲《しゆう》には何かと警戒するようになった」  呟《つぶや》き、騎士団長《ナイトリーダー》は千切ったワイヤーを『投げた』。鋭いとはいえ、常識的に考えればただの糸。威力はないはずなのだが——直撃《ちよくげき》を受けた神裂《かんざき》の体が、砲弾のように真後ろへ飛んだ。 「ごっ、ぼ……ッ!!」  今度は森の木々の一本に激突し、ようやく動きを止める神裂。  千切られたワイヤーは、もはやワイヤーではなかった。あまりの握力で握り潰《つぶ》された金属糸は圧縮され、一つの塊《かたまり》となってしまい、それが拳《けん》|銃《じゆう》の弾丸のように放たれたのだ。 「私の前に立つべきは、最低限でも同じ『清教派』の長《おさ》でなければならない」  騎士団長《ナイトリーダー》は指を動かし、関節をゴキゴキ鳴らしながら、静かに語る。 「いいや、単純な実力だけなら『清教派』では足りない。『王室派』も敬うべきだが、暴力では私が上。率直に言おう。貴女《あ な た》などでは役不足だ」  ドッ!! という轟音《ごうおん》が響《ひび》いた。  騎士団長《ナイトリーダー》の体が消えた時には、すでに神裂の真正面にいた。彼女が横へ跳んだ直後、騎士団長《ナイトリーダー》の足が大木の幹を一撃で吹き飛ばす。折るではなく、飛んでいた。その威力に戦慄《せんりつ》する神裂の手が、無意識に動く。刀の柄《つか》へ伸ばした手が。 (しま……ッ!?」  神裂の背筋に寒いものが走った原因は、自分の命の危機ではない。  とっさに手が動いてしまった。  そう思った時には、すでに神裂の右手は、勢い良く鞘《さや》から刀を抜いていた。真説の『唯閃《ゆいせん》』。一神教の天使すらも斬《き》り捨てる必殺の一撃が、騎士団長《ナイトリーダー》の首をめがけて正確に放たれる。  彼は丸腰だった。武器らしい武器はなかったし、スーツに霊装《れいそう》としての効果もなかった。  だが、  ゴッキィィ!! という轟音と共に。  騎士団長《ナイトリーダー》は、片手で神裂の刀身を掴み取る。  今度こそ、神裂の全身を恐怖ではなく困惑が包み込んだ。  動きを止めた彼女に、騎士団長《ナイトリーダー》は言う。 「イギリス制圧時、『|必要悪の教会《ネセサリウス》』の古参が、何故《なぜ》、組織的かつ大規模な抵抗に出る事なく、速《すみ》やかに闇《やみ》に紛《まぎ》れてチャンスを窺《うかが》ったのか、その理由が分かるか?」  刀の刃を掴んだまま、彼は片足を地面から離《はな》す。 「彼らは知っていたからだ。この英国の内部に限り、真正面から戦った所で、絶対に[#「絶対に」に傍点]『騎士派[#「騎士派」に傍点]』に勝つ事はできない事をな[#「に勝つ事はできない事をな」に傍点]」  ドッパァァン!! と、爆発音が炸裂《さくれつ》する。  騎士団長《ナイトリーダー》が神裂《かんざき》に蹴《け》りを放った音だった。あまりの威力に七天七刀《しちてんしちとう》を手放した神裂の体が、遠く遠くへと薙《な》ぎ払われる。 「カーテナと四文化によって構築される我が国……いや、『全英大陸』は、それ自体が特殊な十字教のルールに縛《しば》られる。その領土において、王は天使長であり、騎士は天使となる。……この国の中にいる限り、単純に力の総量が違うのだよ。私を殺したければ、英国の国境の外まで引きずり出すべきだったな」 「……う、……」  朦朧《もうろう》とする神裂は、七天七刀を傍《かたわ》らへ放り捨てる騎士団長《ナイトリーダー》を見た。 「さらに我々『騎士派』にとって、政治上の問題からヘンリー八世の手で分離《ぶんり 》独立したイギリス清教など、信じるのではなく利用するものに過ぎん。北欧、ケルト、シャルルマーニュ、ゲルマン、それらありとあらゆる騎士の道を統合し、一つの思想にするのが我らの真髄《しんずい》。……今のは複数の術式を迂回《う かい》し天使を傷つける攻撃《こうげき》らしいが、その程度の回り道では迂回にもならん」  神裂は立ち上がろうとする。  しかし、その足に力が入らない。  特殊な環境、状況にあるとはいえ、これまで戦ってきたどの敵よりも理不尽だった。不完全に顕現した大天使の『神の力』、そしてその天使を象徴として扱う後方のアックア。そういった強敵とも戦った事はあるが、彼らとはまだ『打ち合う』事ぐらいはできた。  だが、騎士団長《ナイトリーダー》はそれすらも許さない。  そして彼は、その力を誇りすらしない。 「まだやるか」  騎士団長《ナイトリーダー》の目が細くなる。  その表情は、つまらなさそうだった。 「どのみち、聖人程度では本領を発揮する私を殺す事などできん」  何とか力を振り絞ろうとする神裂に対し、騎士団長《ナイトリーダー》は無造作に正面から近づいた。  そうしながら、彼はこう言った。 「それに、私はまだ『剣』を抜いてもいないのだが?」  ドッ!! と彼は神裂の体を蹴飛ばした。  格闘技《かくとうぎ 》のようなものではなく、まるでサッカーボールを蹴るようなものだった。  神裂の体が宙を舞い、地面をゴロゴロと転がる。  騎士団長《ナイトリーダー》はそちらを見ようともしないで、周りの部下へと身振りで指示を送る。各々《おのおの》は馬車や軍馬に乗り、第二王女の去った方へと鼻先を向ける。  馬上の騎士団長《ナイトリーダー》は、一《いつ》|瞬《しゆん》だけ神裂《かんざき》の方へ目をやった。  完全に気を失った彼女を見て、彼はつまらなさそうにこう言った。 「聖人と言っても、こんなものか」      8  第三王女のヴィリアンは馬車の中にいた。  今まで乗っていた王室専用のものではない。それを差し引いても豪奢《ごうしや》である事に違いないその馬車は、あちこちに機能的で実用的な工夫が凝《こ》らされている。護衛用の馬車なのだ。  御者《ぎよしや》はいない。  魔術的《まじゆつてき》な仕掛けを組み込まれたこの馬車は、目的地を設定すれば自動的に二頭の馬へと命令を送り、ひとりでに走行させる事ができる。乗馬を得意としないヴィリアンからすれば、これほどありがたい機能はなかった。  とにかく急ぎ、必要以上に焦《あせ》っていたため、ヴィリアンはランプに火を点《つ》ける余裕すら失っていた。ほとんど真っ暗な馬車の中を、自動操縦の霊装《れいそう》が放つ淡い光だけがうっすらと照らす。 (カンタベリー大聖堂へ……)  ヴィリアンは、ここから一〇キロほど先にある荘厳《そうごん》な大聖堂を思い浮かべる。 (とにかくそこまで逃げ込まなくては。まだ『清教派』の者が残っているのなら、せめて、私を逃がしてくれた使用人だけでも助けてもらわないと……ッ!!)  しかし、そんな願いは叶《かな》えられなかった。  唐突に、馬車を動かしている二頭の馬が暴れ出した。互いに見当違いの方向へ進もうとする馬は馬車の行き先を乱暴に捻《ね》じ曲げ、強引に横転させてしまう。ズッシャァァア!! という轟音《ごうおん》と共に、第三王女の意識が断絶しかけた。 「く……っ」  弱々しい馬の嘶《いなな》きを受けて、ヴィリアンはかろうじて目を覚ます。  横倒しになった馬車の中で、自動操縦の霊装がかき乱されていた。通常とは違う、警戒性の高い赤色の光が躍《おど》っている。  そして、馬車の隅に取り付けられた通信用の霊装からこんな声が聞こえてきた。 『もー諦《あきら》めろ。大人しく出てこよーが、そこに籠《ろう》|城《じよう》しよーが、いずれにしてもお前は死ぬの。未練が残ってるなら自分で取り除け。祈りたいのなら勝手にしろ』 「……ッ!!」  聞き慣れた姉の言葉に、背筋を凍らせるヴィリアン。  通信用の霊装《れいそう》からは、キャーリサの言葉だけが無慈悲《むじひ》に続く。 『三』  それはカウントダウンだった。  しかしヴィリアンに何かを求めるためのものではない。 『二』  いずれにしても殺す。  つまり、単にヴィリアンを脅《おび》えさせ、苦しめるためのものだった。 『一』  ヴィリアンは決断を迫られる。  常識的に考えれば、横転したといっても、ある程度の霊装で守られた馬車の中にいた方がまだ安全だ。ヴィリアンは姉と違って、攻撃的《こうげきてき》な魔《ま》|術《じゆつ》は一切扱えないのだから。 『〇』  しかし、ヴィリアンはとっさにドアへ手を伸ばした。  横倒しになった馬車の中で、潜水艦《せんすいかん》のハッチのように頭上のドアを開け放つと、持っている力の全《すべ》てを使って身を乗り出す。  そこへ、馬車の外から何らかの壮絶な力が加わった。  破壊《は かい》の力は防衛用の霊装ごと、容赦《ようしや》なく馬車を粉々に砕く。かろうじて馬車の上に体を乗せていた第三王女の体が、地面に転がる。自分の体が五体満足か、確かめる余裕すらなかった。 「カンタベリー大聖堂を頼《たよ》るなら無駄《むだ》だ。分かってるだろう?」  キャーリサの声が聞こえた。  見れば、すぐ近くに一頭の軍馬がいた。キャーリサはその上から、地面にへたり込むヴィリアンを見下ろしていた。  その手にあるのは、一本の剣。  刃も切っ先もないその剣を見て、ヴィリアンの表情が不審そうに色を変えた。 (……カーテナ=セカンド……では、ない……?) 「護衛用の馬車の自動操縦が制御を失ったのは、私|達《たち》が細工をしたからではない。目的地であるカンタベリー側が、座標情報を見失わせるよーにジャミングを仕掛けたため。……理由は分かるな。お前は見捨てられたんだよ」 「……ッ!? そんな……そんな、まさか……ッ!!」 「『王室派』と『騎士派《きしは》』は私の手中にあるの。『清教派』もお前を庇《かば》うつもりはないらしい。どーやら、話は決まったな。お前の味方はもはや一人もいない。一人もだ」  第二王女の背後から、複数の光源が近づいてきた。ランプを点《つ》けた馬車や軍馬だ。今まで、ヴィリアンの身を守っていた数十名の騎士《きし》|達《たち》。それらは全《すべ》て、第二王女が掌握《しようあく》した『力』に過ぎなかった。  地面に崩れ、恐怖で身動きの取れない第三王女を、騎士達はあっという間に取り囲む。  その中の一人である、騎士団長《ナイトリーダー》がキャーリサに告げた。 「聖人は片付けました。障害はありません」 「ふむ。では、もー一仕事|頼《たの》もーか?」  キャーリサの言葉に、第三王女の肩がビクッ!! と動く。  騎士団長《ナイトリーダー》はキャーリサの顔を見返した。  真意を尋ねるような表情の騎士団長《ナイトリーダー》に、第二王女はこう言った。 「前に言ったはずだ。第三王女の時は、わがままを聞かないとな」 「……了解しました」  応じながら、騎士団長《ナイトリーダー》は馬から降りた。  ヴィリアンには信じられなかった。  確かに、彼は第二王女の直属。単純に命令を聞くというだけなら、この決定は妥当《だ とう》だ。しかし、騎士団長《ナイトリーダー》とは昨日今日出会ったのではない。かれこれ一〇年以上前からの知り合いなのだ。  背中を預けた回数は数えきれない。  夜会では、常に陰ながら護衛してくれた。幾度《いくど 》となく話のあった政略結婚が形だけで終わり、実現せずに済んだのも、おそらく彼が歴史に見えない位置で尽力してくれたからだろう。  それを、そう簡単に斬《き》るとは思えない。頭脳でも軍事でもなく、人徳に特化した第三王女だからこそ、彼女は強くそう願ってしまう。  もしかしたら、騎士団長《ナイトリーダー》は演技をするだけかもしれない。  自分を殺したように見せかけて、第二王女をごまかし、逃がしてくれるための作戦かも。  そんな風に思ってしまったのは、楽観的というよりも現実|逃避《とうひ 》に近かったのだろう。  そして、ごまかしようのない絶望が、そんな考えを一《いつ》|瞬《しゆん》で粉々に打ち砕く。 「……剣で首を刎《は》ねては切断面を潰《つぶ》してしまう。王侯貴族の処刑に使う斧《おの》を持って来い。可能な限り重く、綺麗《き れい》に切断できるものを。死した所で姫は姫。汚い仕上がりの首を見せて、民の前で恥をさらす訳にはいかん」  部下にそんな注文を出した騎士団長《ナイトリーダー》に、ヴィリアンの喉《のど》が限界まで干上《ひあ》がる。 「……ひ、……ぁ……」  もはや、言葉は出なかった。  口の中が張り付いて、ろくな音が出なかった。  完全武装の騎士が、一本の斧を持ってきた。長さは一メートル程度で、斧の刃は片方にしかついていない。ただの鉄とは思えなかった。もっと重厚な何かを感じるのは、単なるお飾りではなく、実際に多くの血を吸ってきたからか。  騎士団長《ナイトリーダー》は無言で斧《おの》を受け取ると、何故《なぜ》か一度だけ周囲を見回した。  暗い道の左右は森だ。明かりらしいものは何もない。自分|達《たち》の他《ほか》に誰《だれ》もいない事を確認すると、騎士団長《ナイトリーダー》は静かに目を閉じて、息を吐《は》く。  それは、何かを期待するような顔色だった。  そして、何かに失望するような顔色だった。 「始めるぞ」  瞼《まぶた》を開けて、騎士団長《ナイトリーダー》は呟《つぶや》いた。  ズン……ッ!! という鈍い音が響《ひび》く。騎士団長《ナイトリーダー》が斧を一度肩で担《かつ》ぎ、そこからさらに大きく振り上げた音だ。 「う、うああ……。うあああああああああああああああああああああああああああッ!?」  もはや言葉にならず、ただへたり込んだまま、雄叫《お たけ》びを上げるヴィリアン。  それでも、騎士団長《ナイトリーダー》の表情は揺らがない。  振り上げた処刑用の斧は、ヴィリアンの首へ狙《ねら》いを定めている。彼の腕なら、わざわざヴィリアンを取り押さえなくても、正確に切断できるだろう。  キャーリサだけが、鬱陶《うつとう》しそうな調子で告げた。 「助けを求めても構わないし、聞いている者もいるだろう。だが、応じる者がいると思うなよ」  その言葉が、一番ヴィリアンの胸に突き刺さった。  世界にはこんなにたくさんの人がいるのに、とんでもない力を持った人が大勢いるのに、その誰もが、ヴィリアンのために立ち上がってくれない。様々な武器を持つ騎士《きし》達に取り囲まれた第三王女は、孤独だった。失墜《しつつい》した王家の末路を示すが如《ごと》く、圧倒的に孤独だった。  ボロボロと、涙が溢《あふ》れる。  その原因は、恐怖か、悲哀か、屈《くつ》|辱《じよく》か。  騎士団長《ナイトリーダー》の眉《まゆ》が、その胸中を示すように、一《いつ》|瞬《しゆん》だけ動いた。  しかし彼もまた、第二王女の手先だった。 「……お別れです。最期《さいご 》に一つだけ、約束しましょう。切り落とした後の首の取り扱いについてはお任せください。筋肉や皮膚《ひふ》に手を加え、生前と同じく……いえ、生前よりも美しいお顔となるように演出させていただきます。その首を見た多くの民が、あなたを偲《しの》べるように」  最後の言葉が放たれた。  そして、騎士団長《ナイトリーダー》は両手で握った処刑用の斧を、一切の迷いなく振り下ろした。  第三王女ヴィリアンの首をめがけて。  迷う事で、余計な痛みを与えまいとでも言うかのように。  同時、  ドッパァァァ!! という凄《すさ》まじい衝撃《しようげき》が、取り囲む『騎士派』へと襲《おそ》いかかった。  それは居並ぶ騎士《きし》|達《たち》を薙《な》ぎ倒し、騎士団長《ナイトリーダー》の持つ処刑用の斧《おの》を粉々に打ち砕いた。  その瞬間《しゆんかん》。  吹き飛ばされた騎士の中の数名が、呆然《ぼうぜん》とした調子で呟《つぶや》いた。 「……戻ったか」  その瞬間。  馬上にいた第二王女キャーリサは、カーテナ=オリジナルを手にしたまま、余裕の態度を崩さずにこう言った。 「戻ったか」  その瞬間。  砕けた斧の柄《つか》を適当に放り捨て、正面を睨《にら》みつける騎士団長《ナイトリーダー》は、目の前に現れた強敵に対し、笑みすら浮かべて大声を張り上げた。 「戻ったかッ!」  そして、複数の口が同時に動いた。  誰《だれ》かが、あるいは、誰もがその名を告げたのだ。 「「「ウィリアム=オルウェル!!」」」  第三王女のヴィリアンは、自分の身に起きた事が理解できなかった。  先ほどまで地面にへたり込んでいたはずの自分の体が、宙に浮いている。いや、違う。とある男の腕の中にいた。片腕で第三王女の体を抱える屈強なその男は、もう片方に巨大な剣を握っていた。三メートル以上もの長さを誇る、あまりにも大きすぎる武器を、軽々と。  大剣の側面に刻まれている文字は『Ascalon《アスカロン》』。  さらにその根元には、何かが取り付けられていた。  それは、紋章だった。  本来ならバッキンガム宮殿の廊下に飾りつけられるはずだった、永遠に日の目を見る事のないはずだった一つの紋章。青の上に緑を重ね、ドラゴンとユニコーンとシルキーが三《み》つ巴《どもえ》を構成する、とある傭兵《ようへい》の紋章だった。  ヴィリアンは、知っている。  その男の名前を知っている。 「ご無事ですか。王の国の姫君よ」  最低限の札節だけを弁《わきま》えた、短い言葉だった。多くを語る事を好まね傭兵《ようへい》の言葉だった。その端的《たんてき》な言葉を受けて、第三王女はようやく事態を理解した。  この暖かい腕の持ち主は、ヴィリアンのために立ち上がってくれた。 『王室派』、『騎士派《きしは》』、『清教派』、その全《すべ》てに見捨てられても。  傭兵だけは、駆けつけてくれた。 「……遅い、です……」  その事実を前に、ヴィリアンの瞳《ひとみ》から、ボロッと涙が溢《あふ》れた。  これまでのものとは明らかに違った。  涙の理由は変わっていた。  こんなにも流したい涙があったのかと、驚《おどろ》いてしまうほどだった。  彼女は自分の中から込み上げるものに逆らわず、ポロポロと大粒の涙をこぼしながら、ありったけの力を込めてこう叫んだ。 「遅いんですよ! この傭兵崩れのごろつきがぁ!!」 [#改ページ]  そして、姫君は羊と一緒《いつしよ》に悪竜の住処《すみか》へと連れて行かれた。  姫君は己の運命を悲観した。  その時、姫君の元へ馬に乗った放浪の騎士がやってきた。  一本の槍《やり》と聖なる剣を携《たずさ》えた、騎士の中の騎士。  彼の名は、聖ジョージという。 [#改ページ]    終 章 それぞれの思惑と胸の内 War_in_Britain.  街灯の明かりもない暗い森の道を、一台の馬車が進んでいた。古いランプを携《たずさ》えるその馬車は、絵本にでも出てきそうな雰囲気《ふんい き 》だった。現に、乗っているのがイギリスの女王様と最大主教《アークビシヨツプ》なのだから、絵本の題材としてはぴったりかもしれない。  ただし。  対面で四人乗りの馬車の中、五〇の拘束具でガッチガチに椅子《いす》へ固定されているという状態は、あんまり寝る前の子供に語って聞かせるような内容ではないかもしれない。クーデターによって征服済みのロンドンへ、捕虜《ほ りよ》として運ばれているという真実まで含むと……悪い夢でも見る可能性もある。  エリザードとローラは、隣《となり》同士で座らされていた。  そして、護送用の騎士《きし》が一人、反対側の椅子に座っている。 「……結局、『騎士派』のほとんどは第二王女のキャーリサの手中にありける訳なのよね。まったく、意外に人望が少なしわね女王様」 「かくいうお前も、トップが捕まっているというのに『|必要悪の教会《ネセサリウス》』の魔術師《まじゆつし》は誰《だれ》も助けに来る様子がないな。これは単に見捨てられているのか、それとも信頼《しんらい》の裏返しなのか。いまいち分からん状況だな」  お互いの増援を勝手に期待していたトップ二人は、あてが外れた事にため息を吐《つ》く。それはタクシーを呼び止めようと手を挙げたのに目の前を通過された時のような、軽いものだった。  ローラは拘束された体をギッシギッシと軋《きし》ませて、 「うぬう。それにしても、おっぱいを強調するように上下を縛《しば》るとは、よほどの玄人《くろうと》と見たわね。だが、イギリス清教の最大主教《アークビシヨツプ》であるこの私をなめてもらいては困るのよ!!」 「……実はパッドで痛くないから大丈夫《だいじようぶ》とか?」 「馬鹿《ばか》|者《もの》!! これは本物である事につきよ! そうではなく、拘束具の歴史は魔女《ま じよ》|狩《が》りの歴史という訳よ。つまり、この国で開発されたる拘束具や拷問具《ごうもんぐ》、処刑道具には全《すべ》て我々の息がかかりている。ならば、その解除法を知らぬというのもおかしかろう?」  不穏《ふ おん》な会話に対し、思わず護送用の騎士がガタリと腰を浮かせそうになったが、女王が冷めた調子でこんな事を言った。 「どうせできないんだろう?」 「なっ」 「長年の付き合いだからな。見栄を張りたいのは分かったが、後になって失敗してからアタフタするのは目に見えている。だから、周りの期待が膨《ふく》らむ前に釘を刺しておくぞ。やめておけ。三〇秒後のお前は拘束具をギシギシ鳴らしてむーむー言っているだけだ。全方位から同時に襲《おそ》いかかるドン引きムードに耐えられなくなるだろうから無理はするな」 「でっ、できたるわよ!! イギリス清教の最大主教《アークビシヨツプ》は、『|必要悪の教会《ネセサリウス》』のトップでもありけるのよ!? 世界各地の種々様々な魔《ま》|術《じゆつ》に対応できなくてどうするの!!」 「……というプレッシャーがお前を襲っている訳だな。分かる分かる」 「なっ、なっ。よっ、ようし!! ならば今から見せたるわよ! ショーターイム!!」  五〇の拘束具で椅子《いす》に固定されたローラ=スチュアートが叫ぶと、何故《なぜ》か、彼女の異様に長い金髪がテカーッと光り始めた。  もしや、髪がうねうねと蠢《うごめ》いて鍵《かぎ》でも外すのか、と護送用の騎士が腰の剣へ手を伸ばそうとしたが、様子がおかしい。  擬音《ぎ おん》で表現しよう。  てかー、が、ビッガァァァァァァァ!! に変化している。  もう少し説明的な言葉を使うと、目も開けられないほどの黄金色の閃光《せんこう》が馬車の中を埋め尽くしている。そう、今にも大爆発しそうな感じで。  騎士は思わず叫んだ。 「ぐっ、ぐわああああああああ!? ばっ馬鹿《ばか》、お前それは縄抜《なわぬ 》けっていうかもしかして単なる爆——ッ!!」 「黙《だま》りていろ!! ようは、五〇の拘束具が全部外れたれば私の勝ちじゃーっ!!」  そして。  バウーン!! という愉快な炸裂音《さくれつおん》と共に、馬車そのものが内側から爆発する。  あまりの衝撃《しようげき》に馬車を曳《ひ》いていた二頭の馬がヒヒィンと悲鳴をあげ、御者《ぎよしや》は爆発の勢いに押されて近くの川にドボン&ドンブラコ。そして花のように残骸《ざんがい》を撒《ま》き散らし、車輪をなくした馬車の中央で、ローラ=スチュアートだけが両手を腰に当てて仁王立《に おうだ 》ちである。 「うむ。『髪留め』に抑えられたるからな。この程度が妥当《だ とう》なりけるわね」 「……な、なるほど。お前がどれだけ常識を知らんのか。それがよーく分かったぞ」  相変わらず拘束具で固定されたまま、椅子ごと横倒しな女王様が呻《うめ》くように言った。 「まぁ、縛《ばく》が解かれたのなら、それで良い。早く私の拘束具も外せ。他《ほか》の騎士どもが異常を察知して増援を送ってくる前に、さっさとここを離《はな》れなくては——」 「ええー……? お前の拘束具につきてはどうしよっかにゃー?」 「……おい」  エリザードは背筋に寒いものを感じながら、慎重に尋ねた。 「今がどういう状況か、分かっているんだろうな? あの騎士《きし》|達《たち》の話が本当なら、イギリスのほぼ全域がクーデターで制圧されている。その首謀者《しゆぼうしや》である娘のキャーリサは、学国都市と手を切り、フランスへミサイルをぶち込むかもしれない。それを止められる起死回生の一手になるかもしれんというのに……」 「でーもー、 私は女王様の心なき言葉でとても傷ついたるしなー。うーむ、そうね。『どうもすみませんでした最大主教《アークビシヨツプ》様。私のようなちっぽけなりし人間は、「清教派」によりける助言だけが頼《たよ》りです』とでも言いてもらえれば気特も安らぎて、冷静な判断ができたるようになるかもしれないけどなー」 「こっ、この……ッ!?」  エリザードの頬《ほお》がピクピクと痙攣《けいれん》したが、ここで言い争っても仕方がない。個人のプライドよりも国の明日を憂《うれ》うべきが英国女王《クイーンレグナント》の務め。要求を呑《の》むしかあるまい……と女王が腹をくくった所で、パキンという音が聞こえた。  どうやら、ローラの爆発に椅子《いす》の方が耐えられなかったのだろう。ビキビキと亀裂《き れつ》が広がっていくと女王のエリザードを戒めていた椅子と拘束具がひとりでに壊《こわ》れていく。 「……、」 「……、」  エリザードとローラはしばし無言だった。  やがて、女王はゆっくりとした動作で起き上がると、豪奢《ごうしや》なドレスについた土をポンポンと払う。そして馬車の残骸《ざんがい》と一緒《いつしよ》に落ちていた物に手を伸ばすと、 「おや、こんな所にカーテナ=セカンドが」 「待て待て! 調子に乗りたのは悪かったから、国宝の剣とか向けたるんじゃないわよ!!」 「大丈夫《だいじようぶ》大丈夫。こいつは元々、殺傷用の刃物じゃない。刃も切っ先もない儀礼《ぎ れい》用の剣だぞ? ……せいぜい、ちょっと次元が切断される程度の破壊《は かい》|力《りよく》しかないから安心しろ」 「死!? ってかオリジナルにほとんど力を奪われたれどもそんだけの破壊力!?」  体を小さくしてガタガタと震《ふる》えるローラだが、まさか本気でアジの開き状態にする女王ではない。彼女はカーテナ=セカンドを鞘《さや》に戻すと、呆《あき》れたように息を吐《は》いた。 「しかし、どのみちロンドンへ用があった事を考えると、お前がやった事は丸っきり無駄《むだ》だったな。どうせなら、首都に入ってから暴れれば良かったものを」  言いながら、エリザードはあちこちを見回し、 「馬車も見事に壊れているし、代わりの足がいるな」 「……そ、それなら妙案がありけるのよ」  ローラはのろのろと起き上がると、闇《やみ》の向こうへ目をやった。  そちらから、車のヘッドライトらしきものが近づいてくるのが小さく見える。  エリザードは驚愕《きようがく》し、 「おっ、お前、まさか伝説のアレをやるのか!?」 「じゃーん! ヒッチハイク大作戦!! へーい、そこのむさ苦しいトラックの運転手! この美人の姉ちゃんとドライブする気はなしにつきかーい!!」  親指を立てた右手を差し出し、バチーン! と悩殺ウィンクを決めるローラ=スチュアート。  すると、トラックは彼女の五〇メートル手前で丁寧《ていねい》に停車すると、ゆっくりとUターンし、正確な運転テクニックでその場を去った。  ニッコリ笑顔で悩殺ウィンクしたローラ=スチュアートは、そのままの表情でこう言った。 「……やっちまうか」 「阿呆《あ ほう》が、あれは運転手の判断が正しい」  役に立たないゴミを見るような目のエリザードは、ふと馬車の残骸《ざんがい》の中から霊装《れいそう》を見つけた。騎士達が通信に使っている物らしい。 「なるほど。……アスカロンを手に、ウィリアム=オルウェルが戻った、か」 「ローマ正教の後方のアックア、ね。『清教派』としては複雑な気持ちたるけど、あれが『騎士派』のような組織の思惑に左右されぬ傭兵《ようへい》としてやってきたのなら、第三王女ヴィリアンにとって最強の懐《ふところ》|刀《がたな》。まさに起死回生って感じなりけるかしら?」 「最強、か」  女王は通信用の霊装を適当に投げ捨て、それからポツリと呟《つぶや》いた。 「……そんな簡単に進むかね」 「自分にしか理解できぬ意味深な台詞《せ り ふ》を吐《は》きて余韻《よ いん》に浸りける所申し訳ないんだけど、具体的にどうする訳? まさか、この暗い森の中をトボトボ歩きたるとかって言わぬでしょうね」 「ふむ。せっかくの雰囲気《ふんい き 》をぶち壊《こわ》しやがって」  エリザードは簡単に吐き捨てると、辺りを見回した。それから、馬車を曳《ひ》いていた二頭の馬に目をつける。馬車に固定するための道具は千切《ちぎ》れていた。女王はそれを丁寧に取り払ってやると、鞍《くら》もついていない馬へ軽やかに乗る。  馬車の御者《ぎよしや》が扱う事を前提にしているためやたらと長い手綱《た づな》を、馬上で扱いやすいように強引に束ねているエリザードを見て、ローラはあからさまに不満そうな顔になる。 「ええー……? 私は軍馬の乗り方とか野蛮《や ばん》な事は分からぬのだけど」 「よーし行くぞ、 行き先はロンドンだー」 「にっこり笑顔で置き去りにしたる気まんまんだなオイ!! 待って待って、このままじゃ本当に私一人ぼっちになりて……ヒッチハイクとか不可能だってばーっ!!」  上条当麻《かみじようとうま》は、どうにかイギリス清教の女子|寮《りよう》までやってきた。  初めて入る建物だが、のんびり観察する余裕はない。すでに、この女子寮からは最低限必要な物は全《すべ》て持ち運ばれ、また、多くの人員も逃走した後だった。残っているのは、しんがりとして『騎士派《きしは》』の追撃《ついげき》から時間を稼《かせ》ぐ、本職の戦闘《せんとう》要員。彼女|達《たち》に、本来なら敵である『新たなる光』の魔術師《まじゆつし》レッサーを回復魔術で助けてほしい、と申し出るのは心苦しい上《かみ》|条《じよう》だったが、 「おやまぁ。お久しぶりでございますよー」 「あれぇオルソラ!? 真っ先に逃げるべき戦闘能力ゼロのお前が何故《なぜ》ここに!?」 「なんか皆さんバタバタしていて、ついていけなかったのでございますよ」  トロいにも程《ほど》がある感じのシスターは、上条の知り合いのオルソラ=アクィナス。魔道書《ま どうしよ》の暗号解読を得意とする年上で巨乳な女性である。  彼女は上条の腕の中でぐったりしているレッサーに目をやると、 「まぁ。いつも通りの展開でございますね」 「……意味が分からんが、とにかくお前に預けても大丈夫《だいじようぶ》か?」  オッケー、回復魔術でございますね? と軽く了承されたので、上条は『新たなる光』の少女をオルソラへと引き渡す。……どうもこのシスターさん、臨機応変な高速戦闘が苦手である代わりに、のんびりじっくり行う作業はそこそこいけるらしい。回復魔術も専門ではないものの、千切《ちぎ》れた血管を繋《つな》ぐだけの応急手当レベルなら何とかなるようだ。 「その代わりと言っては何でございますけど……」 「分かってる。しんがりの一人として、脱出の手助けぐらいはしてやるよ」  上条は右手を軽く握って、オルソラに答えた。  |幻想殺し《イマジンブレイカー》が術式の邪魔《じやま 》になるとかで、一度オルソラとは別れる上条。照明を落としてある暗い通路を歩くと、しんがりとして残っている(今度はキリリとした表情の)修道女と遭遇《そうぐう》する。  金髪|碧眼《へきがん》の彼女はわざわざ日本語で話しかけてくれた。 「あなたがこっそり入ってきた裏口も含めて、ほぼ全てのルートは『騎士派』に固められつつあります。やはり、強行突破する他《ほか》ありませんが……協力していただけますね?」 「作戦は?」 「ありったけの遠距離《えんきより 》|砲撃《ほうげき》で『騎士派』を揺さぶった後、全員バラバラの方向へ強引に逃走します。相手が怯《ひる》んだり迷ったりした分だけ時間を稼げますが、誰《だれ》が『ハズレくじ』を引く羽目《はめ》になるかは計算できません」  また大雑把《おおざつぱ 》だな、と上条は思わず笑う。 「それにしても、『騎士派』の連中は、こんなクーデターを起こして一体どうするつもりなんだ。今の今まで、物資の補給が受けられなくて困っているって話だったはずなのに、自ら孤立しようとするなんて……」 「色々傍受した限りですと、どうやら海洋資源に目をつけているらしいですけどね」  修道女はそんな事を言った。 「元々、イギリスの自給率はそれほど低くありません。生活面で様々な弊害《へいがい》が生じるものの、今すぐ飢餓《きが》に苦しむという事はないんです。女王のエリザードは民衆が不満から暴動を起こすのを懸念《け ねん》して慎重に行動していましたが、第二王女のキャーリサは、それを全く違う方法で押さえつけようとしているみたいですね」 「国家レベルの武力を使った、強制的な鎖圧《ちんあつ》作戦か……」 「食糧《しよくりよう》に関して、一番の懸念は魚介類の半分ほどを輸入に頼《たよ》っている所ですが、閉鎖《へいさ 》|中《ちゆう》の港を復活させる事で何とかなるかもしれません。いずれにしても、『具体的に一〇〇人、一〇〇〇人の単位で虐殺《ぎやくさつ》されるリスクを負ってまで』一般人が暴動を起こすような事はないでしょうね。普通だったら、剣の切っ先を突きつけられれば大抵の事は我慢《が まん》します」 「でも、問題は食べ物だけじゃないだろ。石油とか、あと、鉄とかの金属なんかは?」 「海底の山々から採掘できると、本気で信じているようですね。元々、イギリスは海という天然の防壁に守られた島国ですが、その防壁の効果を高めるために、海底にも色々細工をしているんです。キャーリサと『騎士派《きしは》』はそいつへ秘密裏に手を加えて、大規模な採掘施設に作り替える準備を進めていたとか……」  しかし本当にそんな都合良く話が進むなら、海底トンネルが爆破された程度で女王が焦《あせ》ったりしなかった気もしますけどね、と修道女は言った。  彼女はこの話題を切り上げ、本来の作戦会議に戻る。 「女子|寮《りよう》を取り囲む『騎士派』の包囲網《ほうい もう》突破後についてです。私|達《たち》は所定の合流地点に向かいますが、あなたはウォータールー駅に向かった方が良いかと。……大体の事情は知っています。大丈夫《だいじようぶ》、ユーロスター路線を利用すれば、禁書目録の待つフォークストーンまで一直線ですよ」 「……そりゃ難しいな」  上《かみ》|条《じよう》は苦い顔をした。  インデックスの顔を思い浮かべながら、彼は言う。  「さっき、戦闘《せんとう》の流れ弾を受けて高架と電線が千切《ちぎ》れられたんだ。多分、あの電車は動かない」  ロンドンからフォークストーンまでは直線距離で一〇〇キロ超。徒歩ではどうにもならない距離だ。列車でも使わなければ話にならないだろう。 「そうとも限りません」  修道女の言葉に、上条は改めて彼女の顔を見る。 「いかにカーテナ=オリジナルを手にしているとはいえ、『騎士派』の総大将である第二王女キャーリサは特定の要塞《ようさい》に入らず、現在フォークストーンで丸裸です。私達『清教派』との総力戦に備えるため、『騎士派』は何としても人員・物資を輸送し、速《すみ》やかに防護体制を固める必要があります。……つまり、何としてもあの列車を動かす必要があるんです」 「つまり……?」 「停電や送電トラブルの際、列車を牽引《けんいん》するためのディーゼル車両があります。電線を切られて使い物にならなくても、動かせるんです。おそらく『騎士派』はクレーンを使って、高架の千切《ちぎ》れた所だけ乗り越えようとするでしょう。そこへこっそり潜《もぐ》り込む事ができれば……」  フォークストーンまでの道が開ける。  修道女の言葉に、上《かみ》|条《じよう》の右《みぎ》|拳《こぶし》に自然と力が集まった。  そんな様子を見て、修道女は小さく笑う。 「……それもこれも、まずはここを無事に脱出してからという事になりますけどね」 「上等。……目的さえハッキリすりゃ、後は勝ったも同然だ」  言って、上条と修道女は戦闘《せんとう》準備に入る。  イギリス南部、フォークストーンの街に、あの男はやってきた。  ウィリアム=オルウェル。  アスカロンと呼ばれる霊装《れいそう》を手にし、第三王女のヴィリアンを助けるために駆け付けた大男を見て、第二王女キャーリサはうっすらと微笑《ほ ほ え》んでいた。  組織の思惑に左右されず、時には『王室派』の張り巡らせた策謀《さくぼう》すらも『英国のために』と躊躇《ちゆうちよ》なく打ち破ってきた、忌々《いまいま》しいあの男。  とある傭兵《ようへい》の登場と共に誰《だれ》もが絶句していた中、彼女は密《ひそ》かにこう思っていた。 (アスカロン? 聖ジョージの伝承に則《のつと》った聖剣の霊装だと)  キャーリサは知っている。  その男は本来、水を得意としていた事を。傭兵時代は素《もと》より、『神の右席』の一員として、さらにその力を進化させたため、圧倒的な力を振るえなければおかしい事を。 (何故《なぜ》そんなものを用意する必要がある。このフォークストーンは港町だ。そしてすぐ近くには水源を持つ山もあるの。ヤツの得意な水はどこにでもあるはずなのに、何故、わざわざアスカロンなどという分かりやすい兵器に頼《たよ》ってしまう?)  そして彼女は、知っている。  とある傭兵が、水を扱わない理由を。イギリスと学園都市の間には今までパイプが築かれていた。そのために、『神の力』を司《つかさど》る後方のアックアという人間が、学園都市に攻め込み、そして敗北したという報告も受けていた。 (ヤツは、手負いだ。それ故《ゆえ》に、水を扱えない。だからこそ、アスカロンなどという仰々《ぎようぎよう》しい霊装に頼らざるを得なくなってる。そして、力をある程度失った『ただの聖人』レベルなら、今の騎士団長《ナイトリーダー》でも十分に退けられる。これは単なる理論値ではないの。現に極東の聖人と戦って実証してるのだから)  事前に得ていた情報と、自らの目で確かめた情報を照らし合わせ、キャーリサは笑う。  彼女は総合的に、こう結論付けた。 (——今なら、殺せる。あの忌々しい傭兵を、我らの手で) [#改ページ] あとがき  一冊ずつ読み進めていただいているあなたはお久しぶり。  全巻まとめて一九冊も読破していただいたあなたは初めまして。  鎌池《かまち 》|和馬《かずま 》です。  一七巻です。今回は、これまでもチラホラと話に出てきたイギリスの事をいっぱい出してみました。『王室派』、『騎士派《きしは》』、『清教派』、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北部アイルランドといった組織構造から、本場英国の魔《ま》|術《じゆつ》結社、さらには国家と国家の不穏《ふ おん》な動きまで、色々詰め込んでおります。  英国のお話という訳で、騎士とお姫様が出てきます。  聖ジョージについてですが、これはとある実在した聖人の英語読みです。灰村《はいむら》さんにもご協力いただき、口絵や本文などで取り扱っているお話は、『実在した伝承を基に、イギリスの騎士|達《たち》が親しみやすいように、さらに絵本っぽい変化を加えたもの』という設定にしてあります。  なので、(本編でも、とあるキャラクターが少しだけ言及していますが)史実の聖ジョージの剣はアスカロンなどという名前のものではないそうですし、騎士やお姫様の服装も『より絵本っぼく』と注文しています。この辺りは、あくまでも『作中に登場する絵本の中のお話』という事でよろしくお願いします。  イラストの灰村さんと担当の三木《みき》さんには感謝を。口絵を利用した特殊な試みにも協力していただき、本当にありがとうございました。  そして読者の皆様にも感謝を。ここまでページをめくってくれるあなた達が応援してくれるおかげで、鎌池は二〇冊目も書けそうです。  それでは、ここで一度ページを閉じていただいて、  できれば、二〇冊目も手に取っていただける事を願いつつ、  今回は、この辺りで筆を置かせていただきます。  次は騎士と傭兵《ようへい》のバトルです!!  [#地付き]鎌池和馬 [#改ページ]